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自分の平凡なことについて
自分は平凡だ、と人生を不可視化するような態度を取るのではなく、雑草という名の草はない、人に歴史あり、というような、誰しもがその人生において輝きを持っているのだ、なんていうのではない、そうではないもう自分はただの平凡なのだ、というのが自分のスタート地点だと、これはもう私はそのようにしてやっている。
平凡とは、自分の言葉、身体、歴史としてあるもの、自分の中に積み上がっている事実の中にまるで実感がない
〈戯曲〉不眠のまま立っている
両手に紙袋を持っている
何か商品が詰まっている
どう
しよう、
どうしよう、
どうどう
しよう、
どうしよう
ね、
どうしようど、こ
行こうか、ね、どこ
どこ行こうどこ、も素敵
だなきっと、ね、どこも全
全部。何がいいかなお腹
減った、減った、な、
何がいいかな。
ど
どこだといいかな、ね、
行きたいところがいっぱいあ
る、ある、あるあるもーそれはたくさん
ある、思い出せない、思、思い出せ
ツイッターから逃げ出してきた
ツイートを書いていて、100文字くらいまで書いたところで書く手が止まって、投稿に至らないことが増えた。
投稿できずにツイートが下書きにたまっていくようなことは昔からあったが、それとはまた異なる葛藤でもって投稿できなくなる。
というより最早、投稿は下書きにも残さずに消してしまう。「書いたはいいが投稿できない」のではなく、書いている途中で「全然コレじゃない」となるので、残そうと思えない。
書きた
囲んで話すことについて
人と人が話しているところを見る。そこから感じたことを話す。それもまた誰かに見られている。話しているところを見ること、見られながら話すこと、それを繰り返す集まりを作っている。
それによって何をしたいということはない。何がどうなっても構わないと思う。むしろその何が起こるかわからない中で、起こってしまったことの全てをきちんと受け止められる広さを身に付けたいと、僕はそれだけを思う。
「目の前で起こる物
前のめりに読むことについて
ようやく本の読み方がなってきた気がする。今日は散歩をしながら、本を読んだり読まなかったりした。そういうノリで本を読んでいたのが良かったのかもしれない。
本が読めないときにやってしまいがちなこととして「同じ行を何度も読んでしまう」というのがあるが、あれは行の右から左へ移っていく時間軸に対して、少し後ずさってというか後ろにつんのめって読んでいるからこそ先の行に目が移らないのではないか。そこにあるのは
春は外へ出ようと決めた
おれの中で、時間はべつに速いほうだ。たとえば放っておけばおれは早口だ。自分でも反省するし、ひとに言われたこともあるけど、ゆっくり喋ってみたら? というの、そしてゆっくり喋るために、ゆっくり考えてみたら? 頭の中のギアをチェンジ。普段よりもローなギアにシフトチェンジ。さっき、すごい勢いに任せて文章をバーっと書いていて、書けた書けたーって気持ちと、でも達成感しか残ってない、言葉をただ書き散らしてしまっ
もっとみる「座り込み」という市民劇
前編 沖縄・辺野古を訪れる
後編 「座り込み」という市民劇
Ⅴ.「そろそろ行きましょうか」といった具合にそれは始まる。平和市民連絡会の方だろうか、座り込みを主導する人がいて、彼は土砂搬入のタイミングを把握しているようだった。建設会社に内通者(?)でもいるのか、それともセメント会社の前で待機している仲間と連絡を取り合っているのか。単に搬入は毎日決まった時間に行われているのかもしれない。いずれにせよ
沖縄・辺野古を訪れる
前編 沖縄・辺野古を訪れる
後編 「座り込み」という市民劇
Ⅰ.先週末から沖縄に行っていた。その理由は他愛もない、休暇のためで、ちょうど沖縄で見たい演劇があったので、それに合わせて。最近はLCCで交通費も安いので、ふと思い立って行くことができた。東京は成田から、飛んで那覇まで。3時間程度のフライト。
調べたら1泊1000円強のアホみたいに安い宿があり、時間はあったので3泊4日を滞在することにし
「演出家」についての再三にわたる考察
文章を「しっかり」書かないといけない、と変に気負ってしまうのは病気だなと思う。必ずしも「しっかり」書くこともない。それは何より疲れる。そんなわけで論証はサボらせてもらいます。書けるように書いた。そして読めるように読んでくれたらと思う。今日くらいお互いラフに、ラクにやりましょう。
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「演出家」とは何か、というのをもうずっと考えている。それは自分が何の因果か「演出家」という役割を担うようにな