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高熱の夜に。

夏風邪は馬鹿がひく。

接触冷感素材のシーツとタオルケットの間で、わたしの体温だけがじれったく上昇を続ける。

眠れない。だけど、本を読むとか映画を観るだけの集中力があるわけじゃない。こんなとき頭の中を泳ぎまわってくれるのが明るい未来の映像だったらいいのに、鼻息荒く出しゃばってくるのはたいてい過去の思い出だ。

クリエイティブでアーティスティックかつサイエンティフィックな上にエロティックな人はきっと、風邪でぼーっとした頭の中にも有意義なコンテンツが流れるんだろう。やっぱりわたしは夏風邪をひくべき人間なのだと、妙な納得感がある。くやしい。


5年前の10月のおわり、わたしはグアム島にいた。

それまで6年付き合ってきた彼と一緒に、ナマコだらけの浅瀬でシュノーケリングに没頭し、レンタカーで島を一周して、日本でも食べられるパンケーキ屋にわざわざ1時間も並んだ。ふたりで行く海外は初めてではなかったけれど、非日常な環境がマンネリカップルに刺激を与えてくれた。

普段はゴキブリだろうがヤマカガシだろうが自分で退治できるのに、バルコニーに現れたヤモリを必要以上に怖がってみたりして、わたしはたぶん浮かれていた。ちなみに今、38度超の熱に浮かされているこの感覚とはまったくちがった種類の浮かれ具合だ。

グアム最終日の夕方、ホテルの部屋でスーツケースの空き容量を確認し、そこに詰め込めるだけのショッピングをしようという話になった。安全性に疑問符しかない開放的なつくりのトロリーバスに乗って、高級ブランドがぎっしりと詰まった建物へ向かう。昼間よりすこし気温が下がり、肌をかすめる風が心地いい。彼は会社の同僚に配るチョコレートの数を何度も計算しなおしては、ブツブツひとりごとを言った。

チョコの数なんてどうでもいいのに。3000km弱も離れた業務上の付き合いの人たちのことなんか気にしていないで、日焼け止めと汗でぺたぺたな腕を絡ませる、今あなたの隣にいる女をかまいなさいよ。

たのしい時間があと少しで終わってしまう、という切なさが、すこしずつ焦りに変わっていった。


「指輪、見ようよ」

G-SHOCKってこっちだとやっぱり高いねそりゃそうか、とかなんとか興味深そうにガラスケースを覗く彼にわたしは言う。

そうだ。よく言った。鳥肌が立つ。

このまま東京に帰ったら、またダラダラ一緒に暮らして、妻でもないのに妻みたいな顔でおとなりさんにご挨拶して、ワイシャツにアイロンがけして、ご飯作って、たのしいだけで何のたしかさもない日常に戻ってしまう。もういいかげん、前に進みたい。

「おう、いいよ。カネないから買えないけど。勝手に期待されても困るからね」


グアムに滞在していた4日間、めずらしく一度も雨に降られなかったのに、無口になったふたりが建物の外に出ると地面を叩きつけるようなスコールに見舞われていた。

なんて馬鹿なことをしたんだろう。

本当は指輪が欲しかったんじゃない。だって、それなら自分で買えるから。ただ覚悟が見たかった。試してしまった。期待してしまった。

それを示す方法は指輪じゃなくたって、そのへんの花一輪だって、丸坊主にするのだって、手紙だってよかったのに。

生ぬるい雨に濡れたふりをしながら、静かに、いかにも真剣にバスを待っていますよみたいな顔で泣いた。彼は何も言わなかった。


高熱のせいか、ジメジメした梅雨の気候のせいなのか、Tシャツから出た腕がべたつく。絡ませる先の、彼の腕はない。

また熱が上がった。
彼も今、夏風邪をひいているだろうか。


#エッセイ #日記 #恋愛

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