#MOTHERの気持ち で、糸井重里さんの言葉に深くうなずいた話

■はじめに

いやー面白かった。リゼ皇女、糸井さんと対談すんの!?なんて軽い気持ちで見てみたらいろいろと自分の知らないエピソードも飛び出すしコアラさんの造詣の深さから来る踏み込んだ質問も飛び出すし、美味しいだけじゃなく腹一杯になった上にまだ食べたいな、もっと食べたいな、って思うような夕飯を味わった気分。

リゼ皇女はそれこそ今年頭にMOTHER2に初めて触れたこともあってか特にゲーマー視点の質問も多く、対してコアラさんはMOTHERの世界にどっぷり浸かった人ならではのお話がたくさん。いろんな話が聞けたなぁ。個人的に興味深かった話は、まずはMOTHER3が続編として構想されていたというよりも、一つの街を中心に人や街の移り変わりを描く群像劇のような舞台装置でやりたいことがあった、という話。そして…ここからはちょっと分けて書いていきます。

■作者が表現を作らなくてもプレイヤーが掘り出してくれる

確かにあの頃のゲームって言葉を選ばずに言うと、(今のゲームと比べると)表現は確かにチープなんですよね。ただ、だからこそといえば良いか、そこから想像でいろいろと広がる世界があったことも確かで。自分が@なRoguelikeゲームを好きなのはこういうところでもあって(誰だよ&@の話をしてる奴)。で、もう一つ言うと、それってプレイヤーがその世界に没頭しているからこそであって。MOTHERシリーズは、例えば主人公のキャラクターであったりそのパパであったり敵キャラを始めとするNPCだったり、はたまた画面の外にいる傍観者としてだったり、都度都度でいろんな立場でいるように感じられるから、特にそう思えるんだろうなぁ。

あ、これは余談ですが。だから昔のゲームは良かったという話ではなく(昔のゲームも良かった、は言えるけど)、やっぱりその当時その当時でその時代のゲームが(総合的に見て)一番楽しいのってその時代なんだろうなぁと。勿論旧いゲームを今遊んでもゲームとしては全然楽しいものも多いと思うんですけど、例えば一緒にそのゲームを遊ぶ人が当時と比べると今は少なかったりとか、そのゲームの最大級の表現を最大級に感じ取れるのはその当時の人の感覚なんだろう、とか。必ずしもそうではないのはその通りなんですが、とは言えそこに当てはまるゲームも多いんだろうなぁと。

で。これは単なる懐古の話でなくて、今世の中に出回っているゲームも今楽しむのが一番楽しいんだろうな、と。多分すぐにVRやらなにやらの新しいゲーム体験が席巻して「ディスプレイに画面を表示させて遊ぶゲーム」が過去のものになってしまうんだろうなと。そこに割くためのリソースがあまりにも(自分にとっては)少なすぎるけど、でもやっぱり今楽しめるゲームは今楽しんでいきたいなぁと改めて思いました。

あ、ちょっと話は変わるけれど、最近になって販売?されている新作のFCゲーム…というかNESのゲームとか。あのあたりって今遊ぶとどんな感覚になるんだろう。いやその、よくある8bitライクなゲームってあくまでも「ライク」であって、あの頃のゲームとまったく同じではないじゃないですか。そのあたり、「このご時世に販売される本当の意味での8bitのゲーム」って、どんなもんなんだろうなぁ。

閑話休題。

■文化祭が楽しいのは、送り手の側に立って景色を見てみたい

これはシンプルにストンと腑に落ちたというか。自分もこうやって拙い文章でアウトプットしたりとか、はたまたこじんまりとゲームを作ったり漫画を描いたり楽曲を作ったりラジオをやったりもするけれど、根っこは作り手、送り手じゃなくて受け手なんだと思っていて。

そして自分も文化祭はどちらかというと「出店側」で楽しんでいて。それはやっぱり「受け手だけど送り手側の景色を見て見たかった」からなんだろうなぁと。

ゲームという媒体が送り手側でも受け手側でもいられる媒体なのだとすると(いやまぁゲームによるでしょうけど)、自分がゲームを好きなのはそういう所にもあるんだろうなぁとなんだか得心がいきました。

■「MOTHER」をやった人をこれだけ作れるって言うのは、すごいことだね

ほんとすげーよなぁと思います。

前にも書いたかどうかは忘れましたけど、人間って「生物的」側面と「文化的」側面の二つを持っていて。生物としてはそれこそ子どもを作って子孫を増やし、種を繁栄させていくのが使命なわけですよね。一方で文化的側面って、それこそ糸井さんがMOTHERでなしえたことそのものなんですよね。MOTHERに影響を受けた人たちが、少なからず糸井さんのDNA(って敢えて言っちゃうけど)をその身に宿してそれからの日々を過ごしていく。

リゼ皇女が「糸井さんの子ども」って言っていたけれど、個人的には文化的側面としてみればその言葉は本当にその通りだと思うんですよね。いやぁ、すごいなぁ。

■MOTHERの気持ち

多分書こうと思えばまだまだいろいろ書けるんですが、最後にこの話で締めくくろうと思います。

コアラさんの「MOTHERに興味を持ってくれた人にMOTHERってこういうゲームだよって言葉をもらえませんか」という質問に対して糸井さんが回答したのが「(MOTHERのような)そういう気持ちでいると、生きるのが楽しくなるって言うか、生きるのがいいことみたいになってくるんじゃないかな」という言葉。これが本当に今回自分に一番刺さったんです。

というのも、何でもかんでも「生きるのがいいこと!ポジティブなのがいいこと!」っていう風潮がとても苦手で。なんで「死ぬこと」や「ネガティブなこと」が無条件に否定されるんだろう、といつも感じていて。率直に言うとそういう風潮がとても嫌いで。つまるところそれを望むこともある自分が否定されているように感じるからなのですが。

ただ、もちろんだからと言っていつもいつでも死にたいと感じているわけでもなく、さりとて普段楽しいと感じていないわけでもなく、どっちの選択肢も平等に選べるくらいがちょうど良いんじゃないかと思っているんですが、そういう自分としては「生きるのがいいことみたいになってくるんじゃないかな」くらいの緩い投げかけがとても心地よかったんです。

糸井さんが「そういう道具かもしれない」って言っていたのも本当にちょうどいい距離感で。なんだかとてもほっとしました。

■おわりに

というわけで思いついた言葉を並べてみたら割と長くなってしまった…まぁいいか。

実は自分こんだけ書いておきながらMOTHERシリーズきちんと遊んでないんですよね。弟がプレイしているのを後ろで見ていたり、友人がプレイしているのを後ろで見ていたり、あとはひみつのたからばこを読みふけって今の自分がいたりします。

で。最後の最後で正直なことを申し上げさせていただくのならば、Nintendo SwitchあたりでMOTHERシリーズが遊べる日が早く来ないかなぁと、そういう風に思っているわけなのです。

(ゴメンナサイコアラさんよさそうなハッシュタグつけられなかったので #コアラ だけになっていますゴメンナサイ)

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