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キリスト教的だけどキリストではないマリア

『星の時』クラリッセ・リスペクトル , 福嶋伸洋 (翻訳)

地方からリオのスラム街にやってきた、コーラとホットドッグが好きな天涯孤独のタイピストは、自分が不幸であることを知らなかった−−。「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」による、ある女への大いなる祈りの物語。

語り手が男性で貧困の中に生きた「マカーベア」という女性をモデルとして描く物語。語り手との「マカーベア」の距離感は、物語行為としての語り手と物語内容とのヒロインを分離させていくが、例えばそれは「奇妙な果実」を歌うビリー・ホリデイのように、アメリカ黒人の物語が彼女の歌の中で生きていた(事件)だったのだ。それを作者であるクラリッセはブラジルの虐げられた女性の象徴性物語として他者に手渡す。

作者の分身であり語り手である物語を、解説ではプルースト『失われた時を求めて』に例に出して説明するのも、語り手の過去でありながら、語り手は書き続けることで未来を生き続ける。読み手は現在の位置で立ち止まって思考を余儀なくされる。ヒロインに起きたことが語り手に起きることだからだ。

その予見性なくして、どうして文学が書けようか?語り手は絶えず問い続けながらも書くこと=生きることを望んでいる。しかし、その先にあるのは死という過去だ。

ヴァージニア・ウルフとの繋がりを見るならば、ヒロインが見た他者性の中に現実界の病が見え隠れし、ヒロインは神を求めずして治療者となろうとして語り手を生きさせている。そうした者をキリストと呼べるのかもしれない。彼女は女性だからマリアか。もうひとりのマグダラのマリア。

世界のすべては、
ひとつの「イエス」から始まった


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