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知られざるお義母さんのこと

はじめてのnote投稿。
まだまだ使い勝手が分からなく、効率的に使えないかもしれないですが、
どうしても書きたいことがあり始めてみようと思いました。

主人の母が緊急入院し、余命いくばくもないという知らせを受け、つい先日まで山口県下関市に長期滞在していました。
6月14日にお義母さんは永眠。
胆管癌を患って3年と4ヶ月。
奇しくも去年11月に亡くなったお義父さんの誕生日翌日でした。
コロナウィルス感染拡大の影響で、私と孫にあたる息子は臨終に立ち会えませんでしたが、静かに息をひきとったそうです。
音楽家業をいつでも応援してくださる、朗らかではつらつとした、あたたかい人でした。

下関に滞在中、少しずつ家の整理や掃除、草むしりなどをして過ごしていました。
お義母さんは体が悪くなっていく中でも家の片付けを少しずつ進めていたようで、写真アルバムや日記が大量にまとめられてありました。その数は驚くほどで、若かりし頃からつい最近のものまで膨大な量がありました。

写真はともかく、やはり日記は読むのも憚られるので見ないようにしていましたが、亡くなる前まで病室でも日記をつけていたようで、本人の性格上誰かに見てほしいと思って書いている、という主人の見解の元、亡くなった後に中身を見ることにしました。

そこには、お義父さんと出会う前のことが少しと、
「尾道に行きたい」と、新幹線の時刻や運賃など旅の行程表が書かれていました。

そういえば、今年の2月頃、尾道に行きたいとお義母さんが言っているという話を聞いていましたが、コロナ禍で旅行そのものが難しくなり、結局叶わずじまいだったなあということを思い出しました。

お義母さんは千葉で生まれ、父親の仕事の関係で東北を転々とし、八戸の高校を卒業してからは秋田の男鹿で暮らしていたそうです。そこからなぜか遠く離れた尾道へ行き、数年過ごす中でお義父さんに出会い結婚。
しかし私はなぜ秋田から遠く離れた尾道へ行ったのか不思議で仕方ありませんでした。どうやら尾道にある花嫁修行の学校へ行くためということでしたが、そこまで遠くの学校へ行く理由とは一体何だったのか長年の疑問でした。しかし主人も分からず。とうとう本人に聞くこともできないままになってしました。

しかし、最後の日記にはその謎の一部が綴られていました。
ただ、謎が謎を呼ぶような書き方で、一体どういうことなのか隅々まで把握するのが難しい状態、
ひとつ確かに言えることは「感謝すること」を尾道で教わったということでした。(それまでお義母さんは感謝をできない人だったと記されていました。)その恩人の消息を知りたがっていること、人生のキーポイントになった尾道という地を再び踏みたいという想いが強くあるようでした。

私は、何かに突き動かされるように、近く尾道へ行かなければならないと思いました。
もしかすれば心だけでも一緒に行けるかもしれない。
そして知られざるお義母さんの記憶を手繰り寄せられるかもしれない。
そう思ったので「尾道へ行く」「行方知れずの恩人を探す」という目的を果たすため決意表明の形でこのnoteを立ち上げました。

全世界に公表する形で文章を綴ったのは、お義母さんの日記の中に自分史の自費出版を検討するようなメモがあったためです。
もともと感性のまま生きるアーティスティックな人だったので納得だなあと思いました。

昭和30年代以降の素晴らしい写真もたくさん残してくれているので、こちらも折を見て公開したいと思います。
長くなりましたが読んで頂きありがとうございました!

青谷明日香

おかあさん2

※お義母さんの写真より、昭和30年代の広島市民球場前の風景

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