「明るい夜に出かけて」

佐藤多佳子(2019)「明るい夜に出かけて」新潮文庫
を読みました。

もともと佐藤多佳子さんの本が好きでした。最初に読んだのは「サマータイム」。その時の鮮烈な印象は今も変わらず残っています。

今回読んだ「明るい夜に出かけて」も、そのメインモチーフであるラジオを聴いているような、それでいて読書体験としか言いようがない感覚を味わいながら、一気に駆け抜けてしまいました(購入してから手をつけるまでにはかなりの時間を要しましたが。あまりにもったいなくて)。

好きな作家の作品であるという以上に、ラジオが色濃く関わっている物語であるというところに強くひかれていました。
わたし自身も小学生の頃に姉からCDラジカセを譲り受けて以来、ラジオが生活の一部となっているので、かなり心を躍らせて読みました。

富山の一人称語りで物語が進行するので、ラジオでのひとりしゃべりとはまたちがうけれど、なんだか夜にむかって富山が話しているのを聴いているような感覚で読みました。

わたしは富山の性質と重なる部分があったので、この世界にかなりのめり込んでいたと思います。

別にスペシャルじゃなくていい。人より秀でていなくてもいい。人と同じでありたいとも思わない。枠の中にいなくてもいいけど、わざわざはみだしたいわけでもない。何かをがんばりたいけど、何がやりたいのか、わからない。(pp. 121-122)
俺は人間をやりたくないよ。猫にでもなって、冷たいタイルの床の上で丸まって寝てたいよ。ほかのヤツのこととか、あれこれ考えたくない。疲れるから。削られるから。最後は自分に返ってくるし。一番考えたくないのは、俺自身のことだから。(p. 201)

わたしも大学生のころはこんなことばかり考えてうずくまっていました。思春期だったのだなあと今は思いますが、ほかのひとと同じように人間になっていくことなど自分にはできないのだと思っていました。
富山も淡々と日々を送りながら、見えない先のことをぼんやり思っていたのではないかなと思います。

そんななか、同じ深夜ラジオの職人の佐古田と出会い、少しずつ成長していく様子に感動しました。

賞レースで決勝に進めなかったアルピーの「咆哮」を聞いて、「全力でチャレンジして敗れた切実さ」が胸に迫って、佐古田に自分がやりたいことをやるために大学へ行くように「説教」し、一緒に学食で昼食をとる約束をする。

自分が正しいなんて意味ねえんだなって、つくづく思ったよ。通用しない相手がいる。だけど、自分の心を守る最後の砦は、やっぱり、そこだ。俺は俺が正しいと思ったことをやる。その信念。その意地。(p. 292)

大学へ通ってもその先どうしたいのかわからなかった富山が、本質的に何かが劇的に変わったわけではないけれど、確実に何か乗り越えようとしている様に胸を打たれました。

改めてラジオがすきでよかったなあと思い直しました。

イヤホンから耳に落ちてくる、平子と酒井の声は近い。同じ部屋にいるんじゃないかってくらい近い。この謎の距離感こそが、ラジオの生放送だ。テレビじゃ絶対にない。不特定多数のリスナーが聴いているのに、アルピーと俺と三人でいるみたいな錯覚。(p. 226)

パーソナリティが自分に向かって話してくれているような、ひとりで部屋にいるのにほかのリスナーと同じ空間にいるような、そんな感覚を得られるところがラジオのよさだと思っています。
これを書いている今もラジオを聴いています。ラジオをきっかけに現実世界で何かあったことはありませんが、これからもきっとラジオがすきだろうな、と改めて思いました。

深夜の光の源。
明るいラジオ・ブース。(p. 226)


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