見出し画像

全てのボクのようなロクデナシのためにこの星はグルグルと回る

最近は夏が戻ってきたように天気がよくて、部屋も仕事も決まって、どうも気持ちが前向きになってしまう。

部屋探しに迷走していたころは気持ちも鬱々として、中高生くらいの嫌な出来事を思い出しては心がヒリヒリしていた。

特に高校生時代は先輩たちを中心とした自分より精神年齢高めの人との思い出が多く、自分の幼さ、人間的欠陥を思い出しては、「ああ、こんな自分を私は一生生きていかなきゃいけないのか」と絶望していた。

そして気づいた。そうか、逃げても逃げても、「私」から私は逃げられないのか。

「自分探しの旅」への冷笑はずいぶん前から見聞きしてきたけど、やっと腑に落ちた気がする。少なくとも、もし私がいまの生活を「自分探し」と名付けていたとしたら、簡単にそれを否定することができる。

「お前は自分を探したいんじゃなくて自分から逃げたいだけだし、逃げるのは不可能だよ」

逃げても逃げても、たとえ楽しい時間を過ごせたり、裕福になったりしたとしても、多分このままだといつまでも「私」がピタッとはりついてきて、ヒリヒリした嫌な気持ちを持ってくる。

部屋は見つかった。仕事も楽しめている。季節は夏。だけど私は私が嫌いだ。もう嫌だ、こんなの。

ちょっと頑張ってみよう。もう少し楽に生きられる自分になってみよう。そう思った。

(オタク的表現をすると、私の中の山﨑愛生が「変わらなきゃ」って言った。)


記事「板挟み」で書いた、「こうした方がいいんだろうな」と「だけどこうしかできないや」の葛藤をどうにかしよう。

まずは自分の不器用さを認めよう。どんなに非効率でも、頭悪くても、そのやり方しかできないならそのことを認めよう。かっこ悪いという俯瞰とちょっとオサラバしよう。

そのやり方だとやっぱりうまくいかないなら、ちょっと無理して他人様のやり方取り入れてみよう。苦しいけど、現状維持でも苦しいなら、楽になれる希望のある方がいいや。


自分を苦しめるだけのプライドも手放そう。私は一人っ子初孫の自己愛を捨てきれずにいて、自分より「すごい」人がいれば猛烈に悔しいし、自分より「すごくない」人がいればちょっと驕ってしまって、そんな自分を俯瞰して気味悪くなる。

でもその「すごい」の基準もあいまいでちゃっちいもので、誰かほかの人が「それって別にすごくないよね」って言ったら簡単に翻ってしまう。

そんな価値観で自分を振り回すのに疲れてしまった。すごいかどうかは自分で決めよう。他人のすばらしさを尊敬したい。自分の尊さを安置したい。


今までは、「進学」とか「イギリスに行く」とか、次何する、があったけど、それがとうとうなくなって、「これからどうしようか」をやっとこさ考えるようになった。

私のことだから具体的なことはきっとギリギリまで決められないんだろうけど、とりあえず、「帰るころにはもう少し生きやすくなっていたい」と思う。楽になりたい。


苦しんでいる方が面白いこと書けるのかな、なんて思ったりもした。文豪や哲学者やミュージシャンは自殺しがちだし。

だけど大丈夫。私は楽になりたいけど、苦しみを無視しようとは思わない。

生まれてよかった、なんて嘘はつかない。

生まれなきゃよかった、なんて卑屈にならない。

生まれたからには生きてやる。良いことも悪いこともすべて認めて、その上で生きてやる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?