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(小説)ピエロ(一)

(エピグラフ)
 自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。
 自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。
         太宰治『人間失格』

(一)踏切
 土曜日の午後、線路に桜が舞っていた。
 JR鶯谷駅。南口駅前の通りを忙しなく行き交う人波に紛れ、誰かの痩せた口笛が響く。聴き覚えのある旋律は、映画『エデンの東』のメインテーマ。街には、桜吹雪が舞い踊る。釣られて口笛でも吹き出したくなるような春の陽気。欲を言えばもう少し明るいメロディ、例えばチャーリーチャップリン『テリーのテーマ』辺りが、お似合いか。夢中ではしゃぐ少女たちのスカートを揺らして、春の嵐が駆け抜けてゆく。運良く乙女らの白い下着を拝めた少年たちは、けれどそうそう喜んでもいられない。彼女たちの冷たい視線を浴びるや、わざとらしい口笛で誤魔化しながら、逃げるように駅へと急ぐ。駅のホームを山手線が、滑るように発車する。
 そんな街の陽気とはおよそ無縁、如何にも深刻そうな顔をしたひとりの男が、線路沿いをゆらゆらと亡霊のように歩いている。カンカンカンカン……、踏切のシグナルが鳴り響く鶯谷・上野駅間に位置する風の丘町の踏切。男はまだ上がらない、閉ざされた遮断機の前で立ち往生。塵芥を巻き込み、桜の花びらを巻き込みながら、目の前を疾風と化した山手線が駆け抜ける。男はぼんやりと、山手線のまばゆい緑の色彩を見詰めている。死んだような目で、今にも飛び込みそうな気配すら漂わせながら。
 山手線はとっくに通過し、カンカンカンカン……は鳴り止み、遮断機も勢い良く上がってしまったと言うのに、男は立ち止まりじっと線路に視線を落としたまま。見ているのは歪んだ線路なのか、それとも散った桜の花びら。いやもっと違う、そこに血だらけになって横たわっていたであろう筈の、自らの死骸を覗き込んでいるのか。いずれにしても見るからに不気味なその男の青白く痩せこけた頬にも温かな南風は吹いて、線路沿いに並ぶ桜並木の花びらを、男の足元へと運んで来る。そんな男の背中にも桜は舞い降りて、気付かれることもなく舞い落ちて、その痩せた肩に縋って落ちる。丸で人知れず流す、乙女の涙の雫のように。
『渡辺さーん、駄目ですよ』
 自分を呼ぶ聴き慣れたその声にはっとして顔を上げたその男、渡辺は、か細く如何にもピリピリと神経質そうな声で答えた。
『いから死なせてくれ、頼むだな』
 それからようやく足を一歩前へ踏み出す、踏切の中へ。そのまま踏切を渡るのかと思えば、然にあらず。何を思ったか途中でくるりと九十度向きを変え、線路の上をダッシュで走り出す。
『駄目ですってば、渡辺さーん』
 逃げる渡辺を追い掛けるのは、三上哲雄という男。何の因果か死なせてくれと頼む赤の他人の自殺を止めさせようと、必死になっている。それは正しくこの三上という男が、良い人だからに他ならない。
 線路上の渡辺は逃亡でもするのかと思いきや、今度は行き成り走るのを止めそのままがばっと線路の上に寝転んだ。大の字になって、腹括ったようにじっと目を瞑り、ぐっと唇噛み締めて。でも瞼も唇もぴりぴりぶるぶるっと震えている。そこへ追い付いた三上は仁王立ちして、渡辺の頭上から怒鳴り付けた。
『何やってんですか、電車来ちゃいますよ』
 怒鳴ると言っても、そこは愛情いっぱい詰まった声で。対して渡辺は無愛想。
『んなこた、百も承知。おいらもう、こっから動かねだな。あんちゃん、危ねから離れるだな』
 あんちゃんと呼んではいるけど、ふたりは同い年。共に三十五歳である。
 駄々っ子のように線路の上で横になったまま、歯を食い縛る渡辺。覚悟したつもりなのか、閉じた瞼からは薄っすらと涙さえ滲んでいる。すると三上。
『よーし、分っかりました』
 大きく叫んだ後、何を思ったか、そのまま渡辺の隣りに仲良く寝転んだ。枕木のようにふたり並んで、線路の上。何が分かったのかとこっそりと薄目を開け、すると三上が自分の横で寝ているのに気付いた渡辺。そりゃ驚いたの何の。
『何してっだな、あんちゃん。あんたまで轢かれっちまうだな』
『ええ勿論、そのつもりですよ渡辺さん。ぼくも腹括りましたから、あなたと一緒に死にます。ふたりであの世へ、行きましょう』
『あの世。けっ、何ばかなこと言い出すだな。止めれ止めれ、あんちゃん』
 けれど三上は、てんで動こうとしない。三上が強情な男だと言うことは、渡辺も充分承知している。
 カンカンカンカン……、踏切のシグナルがけたたましく鳴り出し線路も震え出すと、流石に観念した渡辺はがばっと起き上がった。
『やーめた。さっさと逃げるだな、あんちゃん』
『よっしゃ』
 渡辺の声に、待ってましたとばかりに三上は素早く飛び起き、渡辺の手をぎゅっと握り締めるや否や、遮断機目指して一気に駆け出した。
 カンカンカンカン……、鼓動のように鳴り響くシグナルの中、それはもう死に物狂い。幾千の桜の花びらを巻き込みながら、疾風の如く猛ダッシュ。宙に漂う花びらたちは驚いた飛び魚のようにしばし風に舞い上がった後、ふたりが寝ていた線路へと落下する。ひらひらひらっと、線路に桜が舞っている。何事もなかったようにその上を、山手線が駆け抜けてゆく。
『ふう、危機脱出。良かった良かった。電車止めた日には、まったく洒落になりませんからね、渡辺さん』
 山手線を見送ったふたりは、踏切脇にどかっと坐り込んでいる。横を通り過ぎる女学生やらおばさん連中やらがふたりに向ける冷たい視線も、共に手を取り合って生死の境界を生還して来た今のふたりには、丸で眼中に映らない。汗まで掻いた屈託のない三上の笑顔の横で、渡辺もつい苦笑い。
『だな。しかしいつもいつも、あんちゃんは良い人過ぎっから困りもんだな。まったくもう』
 喋り終えた後も呆れたように心の中で、何て人だ、何て良い人だ。ほんとばかが付く程のお人好しなんだから……。ぶつくさ呟く渡辺。

『さあ、戻りますか』
 先に立ち上がった三上にぽんと肩を叩かれて、仕方なさそうに渡辺も重い腰を上げ歩き出す。ふたりが向かうは、直ぐそばにある風の丘公園。道すがら三上に、渡辺は問い掛ける。
『しかしあん時、もしもおいらがあのまんまだったら、あんちゃんどうするつもりだっただな』
『だから、さっき言ったでしょ。勿論、渡辺さんと共にあの世行きですよ。だけど』
 自分の顔をじっと見詰め返す三上に、渡辺。
『だけど、何だな』
 いつしかふたりは公園に到着。風の丘公園は山手線の線路沿いにあり、広い公園の隅には線路に沿うようにブルーシートとダンボールで建てられた粗末なハウスが並んでいる。公園の木々の緑の中にシートの青さがやけに目立って、通過する山手線の窓からでもはっきりと見える。その中に、渡辺が暮らすハウスもあった。
 つまり現在渡辺は、この公園を生活の拠点としている。公園に入り渡辺のブルーシートのマイホームへと向かいながら、仲睦まじいふたりの会話は更に続く。
『ぼくはちゃんと、信じてましたから。渡辺さんは、良い人だって』
『何ばかなこと言って、おいらが良い人な訳ないだな。いつも言ってっだな、おいらなんざ人間の屑。ちゃんと覚えておいてくれだな』
 ところが三上も強情。
『いいえ、渡辺さんは、ほんとに良い人ですって。ぼくには分かるんです。だってさっき、ぼくが一緒に死ぬって言ったら、渡辺さん、ぼくを助けるために、思いとどまってくれたでしょ』
 しかめっ面でかぶりを振る渡辺。けれど三上の話はまだ続く。
『きっと渡辺さんは良い人過ぎて、今みたいな生活を送らざるを得なくなってしまったと、ぼくなりに解釈していますから』
『あん、解釈。分かった分かった、よーく分かりましただな、もう。黙って聞いていたら、説教がまた始まっちまうだな』
 渡辺は呆れたように苦笑い。
 いつしか無事、渡辺のハウスの前に到着しているふたり。
『あんちゃん、寄ってくだな』
『いえ。流石に今日はぼくも疲れましたから、これにて失礼します。何かあったら公衆電話、あ、まだテレカ残ってますよね』
『ん、大丈夫だな。こんな人間の屑のおいらのことなんざ、ほんとそんな心配してくれなくていいだな、まったくもう。でも今日は有難うだな』
 公園の前には公衆電話が有り、三上は緊急の為にと渡辺を含め公園のみんなに、自分の電話番号を記したテレカを配っている。
 三上が去り公園に夜が訪れ、質素と言うか粗末な晩飯を済ませると、渡辺はハウスの中で横になった。公園の桜の花びらが夜風に舞い、何処をどう侵入して来るのか気付いたら枕元に無数に落ちている。寝入ったまま夜は流れ、夜明け前、渡辺は不吉な夢を見る。それは昨日の午後の踏切の続き。ただし現実と異なり三上は現れず、線路の上に寝転がった渡辺は、そのまま山手線に轢かれ即死すると言う、何とも悲惨な夢だった。
 ところが夢はなぜか死んだ後も続いた。死んだ渡辺は地獄の底にまっ逆さま。地獄で待ち構える険しい顔の赤鬼、青鬼に捕まり、釜茹でにされるは血の池に沈められるは針の山を歩かされるは、終いにはってもうとっくの昔に死んでんだけど、大きなまな板の上に寝かされ刺身のように包丁で切り刻まれる。その恐怖、痛さ、苦しさと言ったら堪らない。ところが幾ら切り刻まれてもしばらくすると再生し、気付いたら元に戻って、はい、またまな板の上。で繰り返し切り刻まれる。だから何度も何度も延々と、恐怖と苦痛だけが続くと言う有様。こりゃ堪らん、助けてくれ。幾ら悲鳴を上げども、地獄の鬼が助けてくれる訳がない。かと言って逃げ出そうとすれば、鬼たちに追い掛け回され袋叩き。最後はまな板の上に戻され、万事休す。余りの怖さ痛さ苦しさに、狂ったように絶叫する渡辺。ああ嫌だ、こんなに辛く苦しいのは御免だ。助けてくれ。後生だから誰か俺を殺してくれーーーっ。ところが既に死んだ身だから、どうしようもない。あーあ、こんなことなら死ななきゃ良かったと、後悔の深いため息を零したところで、はっと目が覚めた。
 目覚めれば、枕元には桜の花びら。ああ夢だったかと冷や汗を拭い、ふっとため息を吐いて表に出れば、夜明けの星がまだ微かに瞬いている。ひんやりとした風がやさしく頬を撫で吹き過ぎてゆく。この世という地獄も死ねば終わりと思っていたのに、死ねども不変に地獄が続くとは。生きてて良かった良かった。思わず呟きながら目頭が熱くなる。何てことだろう。昨日三上が身を挺して止めてくれなかったら、今頃自分はあの夢のように……。そう思うと身も凍る渡辺。ああ、まったくあの人のお陰で助かった。三上への尽きぬ感謝が湧き上がって来るのを抑え切れない。
 三上さん、本当に有難う。あんなことまでしてこんな人間の屑を、こんな塵にも満たない詰まらぬ奴を、大事な大事な自分の命を投げ出してまでして助けたところで何にも良いこたありゃしないのに。まったく三上さん、あなたは良い人、良い人。俺にとっちゃ命の恩人、仏様だ。夜明けの空を見上げながら呟く渡辺。こうして渡辺にとって三上は、仏様のような存在になる。
 そうだ、仏様にゃなんか恩返ししないと罰が当たる。だけど今の俺に出来ることなど何もありゃしない。頭を捻り、それからよし決めた。働いて働いて、うんと金貯めて三上さんに恩返しするぞ。夜明けの静けさの中で誓いながら、渡辺は明け始めた空に向かってそっと手を合わせるのみだった、合掌。

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