にもかかわらずという逆説

自宅療養36日目。6:00起床。昨日の夜は食事を抜いた。だから起きがけに湯をわかしペヤングMAXをぶち込む。一撃1000カロリーオーバーだ。昼は抜いて夜を800くらいに抑えれば問題無い。入院中は一日1800カロリーに設定されていた。食事制限が無かったので、合間に菓子パンとチョコレートを食べていたが、体重は7キロ減っていた。入院20日弱なので、ダイエットとしては最高だった。

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今日こそ郵便局へ行かなければ。朝食をデスクでとって、そのままの勢いで書類を記入する。やる前のイメージは『あーめんどくせーな!』だったが、よくよく見れば大して記入する箇所もなくものの10分で終わる。事務的な作業に対しては見積もりが大きくなる傾向があるのはなぜか。後回し癖と関連してるのだろうな。

そして郵便局へ。運良く空いていたのでサクッと終わる。気分がいいのでそのまま図書館へ足を伸ばし、数冊借りてくる。何も決めずに棚をうろついた結果、医療やケアに関しての本ばかり借りていた。いまの自分に必要なのだろう。身体的弱者から見える社会の景色は今しか味わえない。たくさん学んで考えたいのだ。

調子に乗って図書館にきたものの、やはり体がきつい。松葉杖が2本あるので足の痛みは前回より軽いが、それでも痛い。松葉杖で歩行することは、基本的に体の基本ルールから逸脱しているのだろうか。上半身に負荷がかかりまくって背中が痛む。それをかばおうとして猫背になる。今度は腕の負担が増え、痛む箇所がどんどん増えていく。そして全身のエネルギーが減っていき、休み休みでないと歩くことができない。

悲しかったことは、本を選んでいる最中、図書館員の誰も声をかけてくれなかったこと。両手は松葉杖で塞がっているので、右の手のひらで杖を持ち、同じ右手の指の間に本を挟み、無理矢理歩いている状態。本を落とさないように歩くとバランスがおかしくなって、右の杖がうまく前に出ない。いかにも足が悪いですよ!というアピールをしてるようなギクシャクした動きは、観光地のお土産にある、糸で関節が動く木の人形みたいだった。

本来はこちらからお願いすればいいこと。問題なくカウンターでキープしてくれただろう。だけど何ていうか、気づいてほしかったという気持ちがある。決して同情してほしいわけではない。苦労してるのだからあたりまえに手を差し出してほしかった。車椅子系の炎上がいろいろあったが、そのレベル以下の極々普通の感覚だと思うのだけど、自分が間違ってるのかな。

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要するに、安心とは、『相手のせいで自分がひどい目にあう』可能性を意識しないこと、信頼は『相手のせいで自分がひどい目にあう』可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということです。もしかしたら、一人で出かけた子供が行き先を間違えて迷子になるかもしれない。途中で気が変わって、渡した電車賃でジュースを買ってしまうかもしれない。そう分かっていてもなお、行っておいでと背中を押すことです。
ポイントは、信頼に含まれる『にもかかわらず』という逆説でしょう。社会的不確実性がある『にもかかわらず』信じる。この逆説を埋めるのが信頼なのです。

『手の倫理』(伊藤亜紗)を読む。入院中に読んだ『記憶する体』が面白くて、他の著作にも手をつけ始めた。

本書は『さわる』と『ふれる』の微妙なニュアンスの違いをスタートに、触覚としての『手』が、人との関わりにおいてどんな役割を担っているのかをテーマとしている。

安心は『心が安らぐ』
信頼は『相手を信じる』

自分の場合は、こんな大雑把な、低い解像度でしか言葉を捉えてなかった。上記のあまりにも簡潔で鮮やかな説明に納得するとともに、『信頼』という言葉が意味するところを自分の実体験を思い出しながら考えてみたくなった。

小説以外で新しく本を読むとき、適当にページを開いて少し読むことを何回か繰り返し、あらためて頭から読む場合が多い。本書もそうで、まだ全体像も理解してない中で上記の引用にぶつかった。もうこれだけで名著だとわかる。読み通すのが楽しみになった。

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置き物のフクロウがぶら下げている時計の電池が切れていた。時を知らせるために棚の1番よいところに居場所を与えられているのだから仕事をしてもらわないと困るよ。電池を入れ替えると針が動き出す。止まってた分の時間は貯金されていたのか、それともこぼれ落ちて無駄になってしまったのか。


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