江戸・吉原遊廓|格式ざっくりまとめ
トップ画像:
国立国会図書館デジタルコレクション 青楼絵抄年中行事 上之巻 1804
遊女?女郎?花魁?ちがい
時代劇などで「女郎」という表現が登場するが、これは娼婦、売春婦の古い呼称そのまんま。「遊女」とは、幕府に公認された公娼の業界従事者のこと。それ以外の私娼の者は「売女」と呼ばれた。「娼妓」は明治以降の呼び方。[出典1]
「太夫」とは娼妓に限らず、芸能・神職・遊女の称号。「花魁」とは、太夫が消失して以降の最高位の遊女のこと。大正まで時代が下ると、位に関わらず遊女のことを指したようだ。[出典2]
また「傾城」「傾城屋」ともいう。ちなみに、城が傾くほど高額であることに変わらないが、男娼は「傾城」とは言わなかったようだ。[出典3]
【大名遊び】1600年代前半
江戸に幕府が開かれると、都市開発のために男性が江戸に集まった。需要が高まり、各地からビジネスチャンスを求めて傾城屋が集まりだす。
幕府としては、邪魔な存在だが「勝手に商売をされるよりは」ということで公娼化が進んだようだ。(上納金もあるし…)吉原の公娼としての起源は、元和3年つまり1617年まで遡り、庄司甚右衛門が幕府から認可を受けたのが始まりとされている。
ちなみに、公娼の者は私娼から従事者を、身代金なしでパクって来てOKというルールだったようだ。スゴイ時代…
有名な遊女:丹前風呂勝山
湯女だったがパクられて、1653年に吉原に入る。4年後廓をしりぞく。
吉原は元々、日本橋葺屋町付近にあったが、1655年に浅草の向こうへ移動した。これ以前を「元吉原」、移転後を「新吉原」という。つまり、勝山は元吉原を知る遊女だったということになる。
時代
この時代の客の中心は旗本や大名。客は豪華絢爛な揚屋へ行き、そこで遊女を指名する。置屋から揚屋へ遊女が向かう行列が花魁道中(この時代は花魁とは言わなかったが)。 これを行うのは太夫〜格子。それ以下のランクの者は、時代劇でよく見るように、遊女屋で直接客を取った。
有名な遊女:三浦屋内「万治高尾」(二代目高尾)
ちなみに、上図の肖像の高尾が結っている髷を「勝山髷」という。そう!前述した丹前勝山の名を取っている。遊女だけでなく、市井の庶民や武家にも広まったそうな。当時の勝山の名声が分かるエピソード。
高尾は最も有名な太夫。京都島原「吉野」・大坂新町「夕霧」・江戸吉原「高尾」が三大ネーム。
主な絵師・資料
菱川師宣 元和4[1618] - 元禄7[1694] 菱川派
資料:
万治1[1658] 芳原細見圖 国立国会図書館デジタルコレクション
【豪商の遊び】1600年代後半
顧客の変化
この時代、大名遊びが下火になった。年貢を納められない農民が、娘を売らざるを得ない状況に加え、
幕府が明暦の大火・元禄地震・大規模寺社の建立などで、財政破綻の危機に直面していたため、他の武士も散財が許される空気ではなくなった。
代わりに、この時期の客の中心は豪商になった。
紀伊國屋文左衛門(紀文)という豪商は、節分の豆まきと言って、小粒金を座敷にばら撒き、遊女や亡八が必死に拾い集めるのを見て悦んだり(カオナシかな?)吉原のすべてを貸し切って遊んだ逸話が残っている。
五町とは吉原すべてのこと。
紀伊國屋文左衛門:寛文9[1669]〜享保19[1734]
有名な遊女
中万字屋内「玉菊」
三浦屋内「小紫」
小紫は浄瑠璃や歌舞伎に登場し、現代の某少年漫画でも名前が登場するくらい有名になった。
また、玉菊が亡くなった際には、吉原の茶屋で燈籠を飾って追悼するのが毎年の恒例行事となった。
【名所化】1700年代前半
時代
上記の「玉菊灯籠」、客や遊女が仮装をする祭の「俄」、そして、1743年に仲の町の夜桜がはじまった。
有名な遊女
・高尾
・薄雲
・音羽
・白糸
・初菊
・三浦
(襲名制なので、名前が同じでも同一人物ではない)
(落語・紺屋高尾:庶民がかまり頑張って高尾を買う話)
格式と揚代
金1両=銀60匁
金1両=金4分=金16朱
金1両=銅4000〜6000文
つまり、
- 太夫:84匁=1両1分2朱〜
- 格子:60匁=1両〜
- 呼出:48匁=3分〜
- 散茶:昼金3分(昼だけ呼んでも3分掛かるので「昼三」という)
主な絵師・資料
鳥居派(鳥居清信)
鈴木春信系
勝川派(勝川春章)
資料:
[1725]EDO-TOKYO MUSEIUM Digital Archives
[1739]吉原細見 国立国会図書館デジタルコレクション
[1748]EDO-TOKYO MUSEIUM Digital Archives
【花魁登場】1700年代後半
ランクと揚代
つまり、
- 太夫:90匁=1両2分〜(絶滅)
- 格子:60匁=1両〜
- 散茶:48匁=3分〜
- 付廻:2分
宝暦初年(1751年)に、玉屋内「花紫」が最後の太夫として記録されている(嬉遊笑覧)。吉原細見では「太夫小むらさき」となっている。
原因は享保の改革によって、高い身分であればあるほど質素倹約が徹底され、吉原の客の中心が経済力をつけた町人層に移ったため。
例えば、榊原高尾(6代目か7代目・諸説あり)は身請けされて大名の側室になったものの、この大名は身分を剥奪される程叱られたという逸話が残っている。(「自分の乳母の生き別れになった娘が榊原高尾である」という真っ赤な嘘を付いてその場を凌いだ。)
町人を相手にするようになったため、それまでの遊女を置屋から呼んで遊ぶ揚屋に代わり、遊廓内の遊びを仲介してくれる「引手茶屋」が繁盛する。この茶屋に来るのは、太夫や格子ではなく「よびだし」というランクの遊女。
「よびだし」とは張見世に出ず、引手茶屋を仲介する上客しか相手にしない遊女のことである。これが最高峰のランクとなった。そう、これが「花魁」。
花魁道中
張見世
有名な遊女
扇屋内「花扇」
丁子屋内「千山」
丁子屋内「ひなづる」
丁子屋内「てう山」
大文字屋内「たがそで」
1783年時点で、よびだし5名。
主な絵師・資料
喜多川歌麿
鈴木春信
資料
[1751](宝暦年間) 吉原細見 国立国会図書館デジタルコレクション
[1779] 吉原さいけん 国立国会図書館デジタルコレクション
[1783] 吉原細見五葉枩 国立国会図書館デジタルコレクション
【大衆化】1800年代前半
時代
この時代は、寛政の改革の反動で庶民・町人文化が勢い付いた時代。(化政文化)。富嶽三十六景(葛飾北斎)、東海道五十三次(歌川広重)、東海道中膝栗毛(十返舎一九)、南総里見八犬伝(滝沢馬琴)、俳句「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」(小林一茶)など。全体的に親しみやすい、大衆のための文化が勃興。
ランクと揚代
これに加え、「大見世」「中見世」「小見世」の表記が登場する。
大見世半減
1795年時点 大見世:6 よびだし:9
↓
1825年時点 大見世:3 よびだし:15
主な絵師・資料
葛飾北斎
菊川英山
渓斎英泉
【遊女大安売】1800年代後半
江戸中の岡場所が取り潰され、また天保の大飢饉により、農村から娘を江戸へ売りに出すケースが増え、 田沼期に2000人程度だった、女性従業員の数が4000人程度まで膨れ上がった。[出典4]
1845年の梅本屋放火騒動などに代表されるように、遊女による放火が相次いでいたことから、従業員の待遇も悪化していったのではないかと考えられる。 また、幕末の1851年には中堅の店から「遊女大安売」という広告が出回っている。
有名な遊女
稲本屋内「小稲」
明治まで活躍した。西洋画の題材になっている。
主な絵師・資料
明治以降(1868年〜)
明治になると先進国に追いつくため、吉原という公娼を排除しようという動きが見られたが、昭和の時代まで遊廓としての形を留めていた。
1872年:娼妓解放令
1900年:救世軍が廃娼運動を開始
1958年:売春防止法が成立し公娼としての吉原遊廓は終了。
「生まれては苦界 死しては浄閑寺(花又花酔)」という川柳が作られ、悲劇のヒロインというイメージが作られる。
その他
切見世=数千円の感覚
河岸見世の中でも、最もランクが低い切見世(局見世)は、長屋作りで一つの部屋は2畳。部屋同士の仕切りは襖一枚だった。 揚代は100文。蕎麦が16文、鰻丼が100文、百目蝋燭200文、蛇目傘800文。米一石(成人男性が1年で食べる量)が1両。
吉原の客の大多数は、大見世は見物するだけで(素見ぞめき)、実際に遊ぶのは切見世という者が多かった。切見世がある路地はただでさえ狭いのだが、順番待ちの客でごった返し、しばしば渋滞していた。 (参考:其俤錦絵姿 2編6巻)
夜鷹=数百円の感覚
当時の街娼をこのように言った。性病に罹患したり高齢のために、遊廓に居られなくなった者や、貧困のために色を売った。 相場は蕎麦一杯と言われているため、おおよそ16文と考えられる。
この時代の資料に残っている、代表的な性病は梅毒。戦後まで治療法もなく、怪しい民間療法に頼るしかない。最低ランクの遊女は鼻や耳がそげ落ちている者もいた。
江戸の男色楼
女色が吉原や岡場所であるなら、男色はどこか?それは"よし町"。現在の人形町の辺りである。客が遊ぶ茶屋へ、振袖に女髷を結い編笠を被っていくというのが習慣だった。
はじめの頃は舞台子(役者)になるために修行をする陰間(見習い)が男色を提供していた。しかし時代の下降ととも色だけを売る陰間だけが養育されることになった。天明(1781年〜)が最盛期だったっぽい。
出典・参考資料
出典
1.江戸東京の明治維新 (岩波新書) | 横山 百合子
2.吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日 (朝日文庫) | 森 光子
3.諸遊芥子鹿子の一説より 渡辺 信一郎. 江戸の色道古川柳から覗く男色の世界(新潮選書)
4.吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭 (PHP新書)
参考資料
- 吉原細見 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 浮世姿吉原大全 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 吉原遊廓の景 - 葛飾北斎
- 吉原遊郭娼家之図 - 五渡亭国貞
- 東都新吉原一覧 - 二代目広重
- 鶴泉樓 - 落合芳幾
- 冬編笠由縁月影
- 百人女郎品定 2巻
- 雛形都風俗 [1](着物の柄)
- 樋口一葉 たけくらべ|青空文庫
- 江戸の色道―古川柳から覗く男色の世界―(新潮選書) 渡辺 信一郎 (著)
- 吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭 (PHP新書)堀口 茉純 (著)
見世清搔で、実際にどんな曲が演奏されていたのかは分からないが、「吉原雀」という長唄を参照するとイメージできそう。 吉原雀は明和五年(1768)の曲なので、花魁が居た頃の吉原を描いている曲だと思われる。
- 吉原雀(三)叩く水鶏の - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 吉原雀(四)さあ来た - 国立国会図書館デジタルコレクション
吉原雀とは、吉原遊廓の内情に詳しい人やただ冷かして歩く素見の客を指す。
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