「大吉原展」の問題は美術展にあるのではない
この記事を書き始めて、気づけば半年が経過。冷静になる時間をとっていたら、展示自体終わってしまった。もう誰も関心を寄せていないかもしれない。
私は何の専門家でもなければ、社会を批評して飯を食っている訳でも無い。ただの展示を見に行った一般人だ。ただ、どこかに自分の考えを記載しないと気が済まなかった。インターネットの海に駄文を放流する。
私の考えを先に記載すると、私はこの企画・展示を全面的に肯定したい。
大吉原展とは
概要
5月まで開催されていた展示。美術作品を通じて、江戸時代の吉原を再考する機会として開催された。
批判の内容
年始の炎上
「江戸アメイヂング」「お大尽ナイト」「The Glamorous Culture of Edoʼs Party Zone」といった宣伝フレーズ(人権を軽視している表現)が用いられた。
展示において、女性の人権侵害について説明が不足している。
「買う側」の視点に寄りすぎている。「吉原の街を見物しているような」展示構成はいかがなものか。
東京藝術大学という、現代アートを志向しているトップアートスクールに相応しくない。
など
批判に対する回答
以下、公式サイトから引用。
また、販促物に使用された、ショッキングピンクをグレーに変更する等の対応が取られたとのこと。
主催側の意図
ニュースサイトからの引用だが、企画者である担当学芸員の古田亮・大学美術館教授は、昨年11月の段階で、以下のようにインタビューに答えたという。
美術展の学術顧問を務めた、田中優子前法政大学総長は、2021年の書籍「遊廓と日本人」で、以下のように語っている。
このあと、「芸能史」「ジェンダー」の2つの観点が語られる。女性のジェンダー問題については、現代の問題についても言及がある。非正規雇用の女性の割合、家族制度の問題、家族の抱える経済的課題、社会の生活保障制度など、人権軽視・その根幹にある社会課題について考察している。「批判されたから」と言って、取ってつけたように考え始めた訳ではないだろう。
前述のニュースサイトの記載によると、ポスターのピンク色は性産業ではなく、遊郭で演出された舞台装置としての「桜」を表象するものだったという。
他人の機会を奪おうとする動き
ここからは、私個人の持論。
これ、「美術展」なんですよね?
私は「美術・芸術が何たるか」なんて分からない素人だが、はたして「美術」は人権問題を”必須で”扱う必要があるのだろうか?美術の授業中に、「保健体育や社会科の内容が出て来ないのは何故だ!」と言うようなものではないのか?
現代アートの1例として、人権を考えるものがあっても良いと思う。しかし、扱わないから非難されるというのは、どうも論点がズレている気がする。果たして「美術」は「社会」の御用聞なのか?
余所でやったら宜しい
これまでの現代人(近代人)が、吉原の暗部を取り扱わなかったせいで、今回、光の部分だけを扱った件について炎上した。というのが今回の現象だったのだと私は見ている。
光の部分だけを取り扱ったことが非難されていたが、それは本当に「芸術」の仕事の範疇なのだろうか?取り扱うことも、あるかもしれないが「サービス」の範囲ではないのか。
暗部の表現が不足しているのなら、開催の中止を求めるのではなく、「大吉原展」の対となる「反吉原展」を、別途開催すれば良いではないか。より専門の機関に、性病・虐待・人身売買・避妊・堕胎・飢え…などなど、気が済むまで、展示会をさせれば良いじゃないか。
ここまで来ると迷惑
不快なら不快で結構。苦言を呈するのも良い。しかし、自分の観測可能な範囲の社会しか見えていないのか知らないが、「開催の中止」とまで言ってしまうのは、他人の学習の機会を剥奪しようとする行為ではないのか。(そういう芸風なのか知らないけど)
多くの浮世絵が海外の美術館・博物館に所蔵され、簡単には観に行けない状態にあり、また伝統芸能の鑑賞には大抵金が掛かる。しがない会社員に過ぎない私には、このように、まとまった展示はありがたい。無事開催されたが、もし中止されていたら、私の鑑賞機会は失われたということである。中止などと言わずに、見た上で個人の考えを述べて、あれこれ議論すれば宜しいのでは。
そうやって、これまで「けしからん」「不快だ」で蓋をして来たから、吉原について考える機会がなくなってしまったのでは?だから、人権だのジェンダーだの、前提となる長々とした説明をしないと表現が許されない、なんていう状態になっているんじゃないか。
”トップアートスクール”の前に、どうやら現代人は「自分と他人」「個人と社会」の線引きから、小中学校でやり直さないといけないようだ。(個人批判になるので、あえてを主語を大きくしておくが。)
美術と現代人
ここからは少し冷静になって、美術鑑賞という行為について考えてみたい。
美術鑑賞の態度
読者が「クリスマスはサンタを待って、新年には神社へ初詣、結婚式は教会で、七五三は神社。人が亡くなったら仏教で葬式をする。」という、普段「信仰」について大真面目には考えていない日本人だとしよう。
そんな状態で、馴染みのないキリスト教の宗教画を見た時、何を思うだろうか?
「こいつら、魔女狩りなんてしているんですよ!」「十字軍は酷いんです!」と叫んだりするだろうか?また、「現代の新興宗教は云々かんぬん…」と言って、描かれた当時と、現代の問題を混同するだろうか?
まじめに美術館賞をするなら、自分の立場から見た率直な感想はそれはそれで持っておくが、「作者は何を描きたかったのか」「この絵に価値を感じた人は、何を評価しているのだろう?」「絵のターゲットは何を思い、どんな行動を促されたのか。」と考察するだろう。
それはそれ、これはこれだ。
近代による価値観の否定
一方で、ある表現・感性を破壊・否定することで、「時代を進めよう」とする動きはよく見られる。
(中学校の教科書の内容だが)江戸から明治へ移り変わる際、明治政府は「神仏分離令」を出す。神仏習合し、素朴に神も仏も区別なく参拝してきた日本人に、政府が擁立した天皇の権威を強調・神道を国教化する狙いがあった。その流れのなか、仏教の経典や仏像を「廃仏毀釈」と言って破壊するという、過激な運動も一部展開された。
貴重な文化財が失われたというのは、悲しいという感情を呼び起こさせるが、その行為を現代人があとから、否定したり肯定したりして評価することは間違っている。当時の人には、当時の人の尺度があるのだ。
同様に時代を進めるために、近代は吉原を「悪」とし、美化しないように努めて来た。吉原遊廓を否定し、活動した人たちが居たからこそ、近代化した社会が実現した。大前提として、そこには感謝すべきだろう。
近代を挟んだ向こう側
ここでもう一度、古田教授のインタビューを見直そう。
買う側、描く側がどういう心理で、何に価値を感じていたのか。これを封印することで、社会は近代化〜現代化して来た訳だ。
しかし、江戸の美術・感性は、永遠に「近代社会」に抑圧され続けなければならないのか。現代は近代を挟んだ向こうの「江戸」について見直すことは許されないのだろうか?
今こそタイムカプセルを開ける
言わずと知れた、岡倉天心の「茶の本」の中に、こんな紹介がある。
中国は茶の発信地ではあったが、激しすぎる時代の変化の中、その文化の多くは失われてしまった。しかし、外国がその文化を、タイムカプセルのように未来へ保存していた。
浮世絵・江戸吉原には、これに近い物を感じる。日本という現場では、時代を進めるために文化は忘れ去られることになった。今は立派に額装されて美術館に所蔵されているが、当時は大衆的な娯楽に過ぎないのだから、「オワコン」になったそれを、ポイと捨ててしまった日本人を責めるのも間違っている。
それを外国は保存していた。大吉原展では、大英博物館、ワズワース・アテネウム美術館(米)所蔵の作品も展示された。メインビジュアルになっている「吉原の花」もその一つ。
近代日本で否定された「美化された吉原」は外国へ疎開し、現代日本に再接触した。しかし、いまだ日本では吉原をめぐる「内紛」が絶えず、「美化された吉原」「ロマンス」「吉原の花」という価値観・文化は純粋に鑑賞されることは叶わなかった。
タイムカプセルを開けるには、まだ早すぎたのか?
私は「美術に罪はない」と思うのに加え、以下の理由から妥当な時期だったと考えている。
社会の道具としての美術
私は「美術」は「社会」の道具だとは考えない。影響しあったり、社会から弾圧されることはある。しかし、それはただの「現象」であって、それ自体を「絶対的に正しいこと」だとは思わない。
ただ、その個人的感覚を傍において、この記事の最後に「社会をより良くする」ための道具としての美術を考えてみたい。
感覚の移ろいやすさ
今の吉原の扱いは、「現代の感覚では許せない」という「感覚」に頼っていると思う。これはかえって、危ないことなのではないだろうか?
「風呂に入ると早死にする」「三人で写真を撮ると真ん中の人が早死する」「丙午年生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める」など、今では考えられない「恐れ」の感覚が百年も前になれば普通に存在した。
今信じている忌避や不快の感覚は、百年後・二百年後・三百年後、同じように存在するのだろうか。貧困や差別など、生命をも脅かすほどの危機があったとき、現代人・未来人は今と同じ感性でいれるのだろうか?
加害側の理解
事件・事故が起きた時、「なぜ、加害者がそんな行動をしたのか?」「なぜ、その過失が起きたのか?」を考えるだろう。遊廓の再発防止を真剣に考えるなら、加害側の視点を理解することこそ、必要なことなのではないか?
「吉原の街を見物しているような」「買う側」の視点になってみる。そして、現代人にも備わっている、遊廓を讃美したくなる感性を自覚すること。自分も加害側になる可能性に気付くこと。
それは、現代人としての感性と競合して不快感を伴うかもしれない。しかし、その不快感を感じれる時代の人が、吉原の被害者だけでなく、加害者の目線でも再考し、「なぜ起きてしまうのか?」を再考する機会があっても、良いのではないだろうか?
日本人が吉原を繰り返さないために、「江戸アメイヂング」「お大尽ナイト」「The Glamorous Culture of Edoʼs Party Zone」この、買う側・素目ぞめきの視点で見直すことが、必要だったのではないだろうか?
責任の所在・まとめ
前提知識の不足
繰り返しになるが、そもそも吉原の暗部も知らないで、この展示に来る人がいることを、美術館側の責任として対応を求めるのは、文句を言う相手を間違えているんじゃないのかと思う。
じゃあ、誰なんだといえば、「近代社会」全体の責任ではないのか。遊廓について知る機会が、「鬼滅の刃」などの娯楽にしかなく、正式な教育のカリキュラムには組み込まれていない。
さらに、メディアの影響か知らないが、フェミニズムという単語を聞くだけで辟易してしまうようになってしまった消費者。だから女性の人権問題を啓蒙する展示会をしても、きっと採算が取れないのだろう。だから、今まで「反吉原展」は実現に至っていない。あったとしてもニュースにならない。
「大吉原展」の問題は人権を軽視するような表現を取ったことではない。「近代」の観点で、吉原について知らない人が多すぎたことだ。
たしかに、今まで吉原について考えたこともない人が、いきなりあの展示を見たら、「なんじゃこりゃ」となるのも分かる。「近代が切り捨てていったもの」という前提が共有されていない「社会」の問題が浮き彫りになった。
それは「美術」「美術展」の責任ではないと思う。
補足
美術品の破壊について
一応書き添えておくが、私個人は、現代人として現代の破壊行動を容認するつもりはない。自分の主張のために美術品を破壊するのは、一定起こることだろうとは思うが、破壊に至る主張と絵画の内容に関連性が薄い場合、その行動の妥当性はないと思う。それは「8429万ドルの絵画」である前に、「ゴッホのひまわり」なのだ。浮世絵を愛したゴッホ作品への、同時代の人間による冒涜は許し難い。
公開時コメント
何かの拍子に、このメールボトルを読んでしまった読者が、どんな時代・社会を生きているか分からないが、西暦2024年8月の私は、皆が自分の思想・良心を持ち、それを互いに尊重し、健やかで文化的な生活を営める社会を望む。
引用一覧
トップ画像:
清水晴風 [編]『あづまの花 江戸繪部類』,[18--]. 国立国会図書館デジタルコレクション
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