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朱に交われば赤くなる。でも、朱にはならない

毎日、自分との向き合いを楽しんでいるのですが、この2-3日、何回か意識に降りてきた言葉、「朱に交われば赤くなる」について綴ってみます。

日本社会で標準偏差に入るように育ってくると、みんなと一緒でないといけない、みたいな圧迫感が少なからずあったのが私の時代。多分、それは多かれ少なかれ、今も、子供の世界も、大人の世界にさえも未だに存在しているように思っています。

そうやって周りに合わせて生きているうちに、自分のものさしが、みんなのモノサシと同じになっちゃって、自分が何をしたいのか、どう思っているのかもわかんなくなっちゃうことがあります。自分の声が聞こえなくなる、融合型、とでも言いましょうか。

一方で、その輪に何とか存在しているのだけれども、その輪に違和感を感じていて、その違和感の理由を自分が悪いからだ!と自分のせいにして責めてしまうこともあるでしょう。自分責め型、というか。

あとは、違和感感じても自分を責めずに、何とかやり過ごせたり、もっと余裕のある場合では、「合わせてあげる」的な思想で、その中に交わることを根こそぎ楽しんじゃうタイプとか、ぴったりあっていてそういうことを考えないタイプとか、そもそも合わないから自ら外れてゆく勇気あるタイプとか、、そのテーマ、時々で、いろんなタイプ、相性があると思います。

で、今回、自分責め型と融合型の場合に、気楽になれるかもしれない、おまじないを。

朱に交わっても、朱にはならない。朱に交わっても、結局「赤」にしかなれない。

だから、無理しないで、あなたは、あなたらしく、気楽に、自分を大切にやり過ごしてくださいね、ということです。

アドラーの「嫌われる勇気」がロングセラーなのも、こういう社会傾向を反映しているなーって思っています。これもよく言われますが、みんなに好かれるなんて無理なんですよね。自分が好きな人、気の合う人と過ごせば良いんですよね。

何もしなくても一方的に、突っかかってきたり、否定してこられる場合もありますしね。これは、もう災害としか言いようがないのですが。。苦笑。

ちょっとわかりづらいかもしれませんが、人間関係とか、物事との関係性の相関があなたの自我を組み立てています。だから、強い違和感を我慢していると自我も歪んじゃう。

大切に思うものに囲まれて過ごすのって、幸せになる基本だなって思います。

朱に交わっても、朱にはならない。朱に交わっても、結局「赤」にしかなれない。

何か葛藤に見舞われたときに、思い出してみてください。

追伸・・・ビジネスでは、この発想をブランディングに繋げられるかもしれません。あなたがあなたらしくいれたら、同じ情報もあなたが構成する自我というフィルターで濾過され、あなたオリジナルのものになる。競合がいなくなる。泳ぐ海は、レッドオーシャンでその中であなたはあなたオリジナルになる。良い感じじゃないですか?


貴方の愛のエナジーを有難う💖