殺戮にいたる病 / 翼ある闇 2021年7月19日の日記

ふと新本格ミステリが読みたくなったので、我孫子武丸の『殺戮にいたる病』と麻耶雄嵩の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』を読んだ。逆になぜ今まで読んでこなかったのだと思われるくらい新本格のそれこそ初期の作品として名高い二作なので期待して読んだのだけど、期待を遥かに超えて面白かった。

まずは『殺戮にいたる病』について。こちらはネタバレを避けては語れない部分が強いので未読の方は『翼ある闇』の感想が書かれている次の「*」まで飛ばしていただければと思います。

『殺戮にいたる病』で非常に印象的だったのが、三つの視点が織り交ぜられて物語が進行していく点。これは2021年現在の新本格ミステリでも度々見られる形式で、形式自体に仕掛けが施すことができたり、語りたくない部分を語らずに済ませたりと様々な面においてありがたみのある形式なのだと思う。しかし、『殺戮にいたる病』ではその形式自体と形式を用いた仕掛けによって、稚気(と単純にまとめることが憚られるけれど、これ以上語るとクリティカルなネタバレになるため避ける)というある種の社会的な提起までをも行っている。トリックがトリックに奉仕するだけでなく、それによって拓けた視界が貫世界的な読書体験に繋がっているミステリは他にも歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』なんかも考えられるけど、どちらも社会派推理小説が人気を集めていた時代である新本格初期に書かれたということでのハイブリッドだったのかもしれないなんてことを思った。『殺戮にいたる病』が刊行されたときには私はまだ産まれていなかったので当時の空気感というのを肌で知っているわけではないのだけど。トリックが主張をもって解凍される瞬間が美しい一作でした。スプラッタが苦手な方には薦められないけど。というか文庫版が出た時もまだ私産まれてないぞ。先見の明がありすぎる。

『翼ある闇』も同じ時代の作品なのだけど、こちらは反対に「すでにこの時代にこれ書いてるのすごくない……? 何手先だよ……」と愕然とする作品だった。そしてこれを傑作として受け入れられるだけの文学的な土壌があるのも凄い。私は現代のミステリを多少読んでいるのでミステリ(特に本格や新本格)におけるお約束のようなものに対して自覚的な態度を取れるけれど、それを『翼ある闇』はこの時代に正面から相対化したうえでエンターテインメントの舞台に載せてしまっている。いわゆるアンチミステリというやつで「そうはならなくない?」と笑えるところが多くあるのだけど、その笑いどころ(読ませどころや異質なポイントと言ってもよい)がことごとくミステリのお約束を再考することによって可能となるものだというのも非常にジャンルに対する批評精神が感じられて良い。

麻耶雄嵩の『神様ゲーム』についての感想も以前書いたのだけど、読み返すと特殊設定ミステリによる後期クイーン問題に対するアプローチというか思考実験が行われていたんだなと昔の私は感じている。作品の中で書かれていることをまとめただけじゃんとは思うのだけど、感じ取っていた対象は今の私とかなり近く、麻耶雄嵩のミステリはミステリというジャンルにおいて常に外部を志向し続け、価値の再考を促すものになっているということが『翼ある闇』からも感ぜられる。面白かった。

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