ここカットしてくださいね! 2021年7月25日の日記

YouTubeの動画なんかを見ているとたまに、演者の方が恥ずかしいミスをして「ここカットしてくださいね!!」と言っているところに(※使いました)とテロップが添えられているのを見ることがある。その「使わないで!」と慌てている様子も含めていわゆる「撮れ高」だからよく使われているんだろうなと勝手に納得しているのだけど、よく考えるとそれは視聴者である私は「カットしてくださいね!」が実際にカットされているところを見たことがないからであって、本当はその裏に膨大な「カットしてくださいね!」でカットされたそれがあることも十分に考えられる。

演者にとってもそれは同じで、実際にそれが編集されるまで自分がカメラの前で取っていた行動が映像作品として世界に放流されるかどうかはわからない。つまり、その場で起こっていたことについての情報量としては動画編集=演者>視聴者となっている一方で、「カットしてくださいね!」と言っているその瞬間の映像というのは、カットされるか否かというのがわかっていない演者に対して、カットされていないということを知っている視聴者という、動画編集=視聴者>演者という情報量の逆転現象が起こっているのだ。「カットしてくださいね!」がテンプレートのように使われまくっているのは、おそらくこの情報量の逆転が面白がられているからなのだと思う。「使われてやーんの」という感じの。

しかし、裏に無数に存在していることが否定できない「カットしてくださいね!」で実際にカットされた無数の映像を想定することで、情報量の視聴者優位の非対称性というものは途端に保証されなくなる。それが構造的に上手く隠されているから、この「カットしてくださいね!」は面白いものとして成立している。これを逆手に取って、なにか演者が失敗したシーンを実際にカットした上で、その直後の「カットしてくださいね!」だけは動画に組み込んでやるという表現が考えられる。視聴者は「いったい何がカットされたんだ」とその情報に対する非対称性を逆転した形で突き付けられることになり、面白い映像体験になると思うのだけど、どうだろうか。

本棚が足りなくなってきたのでベッドの撤去をいよいよ本格的に検討している。そもそも部屋の対角線に沿うようにして斜めにベッドを設置している時点で場所を取って仕方がないのだけど。なにを差し置いても作業の合間に踊るスペースだけは確保しておきたい。

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