トラやヒツジ 2021年7月24日の日記

文房具には、年齢や経験に応じて馴染むことで別段の意識を要することなく使えるものが増えていくという面があるのだと思う。ハサミをこわごわと握ることがなくなったり、手元でシャープペンシルを分解して遊ばなくなったり、そういうの。私はまだそういう意味でカッターナイフと上手い距離感を構築できずにいる。よくないなとは思っているのだけど私は部屋にカッターナイフを置いていないし(ハサミで代用している)カッターナイフの握り方もよく知らない。卓球でいえばペンホルダーなの?シェイクハンドなの?ミステリでよく見かけるけれど実物を自分の手で扱わないという点においては、アイスピックやバールなどと同じ立ち位置にあるような気がする。私の中でカッターナイフはまだフィクション寄りなのだ。

たまたま目についたので『しましまとらのしまじろう』について少し調べていたのだけど、「らむりん」なんて名前のキャラクターがいるのか。肉ベースの名付け、すごいなと思ったのだけど、子羊は生きている状態も食肉の状態も同じく「ラム」と呼ばれるらしい。勉強になった。メインキャラクターがトラ、ウサギ、オウム、ネコ、ヒツジというところに微妙な緊張感を覚えてしまうようになったのは私が年を取ったからなのかもしれない。

トラといった肉食動物を主人公に据えた上でこういった食物連鎖のない世界を描くのって、間違いなく方法論としての良し悪しがあるのだとは思う。いわゆる情操教育に対してどういった態度を取るのかというの、すごく難しいな。少し考えただけで自己矛盾の渦に呑まれていく。ベネッセがその辺りに繊細であることは同じくベネッセのキャラクターであるコラショを見てもわかる。コラショは赤いランドセルをモチーフにしたキャラクターなのだけど、その所有者である主人公は小学生の男児なのだ。この文章のどこに違和感があるのだと思われるようになればいいとは思うのだけど、そうはなっていない現代から見ると、男児が赤いランドセルを持たせているというところに、ジェンダーロールへの強い主張を感じずにはいられない。

幼児や小学生にそれを上手く伝えることや、その思想の正当性の評価を行わせることは非常に難しい。後者については特に。現実には捕食-被食関係(ここを様々な非対称性のある関係にパラフレーズすればそれぞれの寓話へ拡張できる)にある存在同士がフィクションの中でなんのエクスキューズもなしに対等な関係を築くことについては倫理的には色々なことが言えてしまうのだと思うけれど、小さな子供がそれを理解するためにはまずその世界が必要だというのも納得できる。倫理が高度な文脈を伴った教養になりつつある時代で情操教育はどういった態度を取れるのかな。


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