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No.596 なんで言わなくてもいいことわざわざ言うんだろう

冷凍餃子は大好きな、フリーライターのです。惣菜のポテサラはあんまり食べたことがない。自分でもあんまり作らないなぁ。

最近「ポテサラ」といい、「冷凍餃子」といい、なんで言わなくてもいいことわざわざ言う人がいるんだろうなぁ、と思ってしまう。ポテサラを「自分で作れ」とか、冷凍餃子を「手抜き」とか、自分が言われたとしたら「うっ」と胸に来るものがある。

全然言わなくてもいいことなのに、なんで言っちゃうんだろうと、言った方のことが気になってしまった。


とはいえ、私もわざわざ言わなくてもいいのに言ってること、ある。家の廊下にどーんと荷物が置かれて、別の部屋にも置けるのに、なんで廊下においてあるんだ、みたいな。他の人はあんまりここを通らないかもしれないけど、私はめちゃめちゃ使う廊下なんだが、みたいな。

そういうとき、「え?この廊下、私が一生通らないと思ってたの?」とか置いた人に言う想像をしちゃう。頭の中でぱっと思い浮かんでから、「うわ~嫌味、嫌なやつだわ」と自分で自分にゲンナリして口を慎む。

これ、全然言わなくてもいいことだよね。ただ、「ここ私はよく通るから、別の部屋に置いてもらえると助かる」だけでいいのに、なんでわざわざ嫌味みたいな言い方しちゃうんだろう。

おそらく、同じことなのに言い方が変わってしまうのは、“感情”がプラスされているからじゃないかな。

通りにくい場所を何度も通らなきゃいけない苛立ち、置いた本人は邪魔にならないけど代わりに私が邪魔になっているというストレス、少しはこっちのことも考えてくれよという怒り、みたいな感情がプラスされて、わざわざ言わなくてもいいような言い方になったんじゃないかと思う。

でも、言わなかったのは、私が口に出したらどう考えても相手は嫌な気持ちになると想像できたから。言わなくてもいいことを言わないためには、想像力が必要なんじゃないかと思う。


きっと、「ポテサラくらい自分で作れ」も「冷凍餃子は手抜き」も、何か感情が乗っかって、そんな言わなくてもいい言い方になってしまったんじゃないだろうか。


「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と、幼児連れの女性に言った高齢の男性は、どんな感情があったんだろう。

「母親なら料理は手作りすべき」という根っこはありそう。「ポテトサラダ“くらい”」という言葉には、ポテトサラダが簡単な料理だと思っている節も感じられる。心の中で思っている人はまあいそうだけど、それでも口に出すってことはよっぽどだし、自分に正当性があると思ってらっしゃるのかな。

親として当たり前の仕事、ましてや簡単なことさえできてないと叱るつもりだったのかな、と推測。

きっと、この男性は子供の頃に、母親が手作りの料理を作ってくれたんだろう。それが愛情だと感じていたんだろう。だから、惣菜を買う母親を見て、愛情がないと短絡的に感じてしまったのかもしれない。

逆もあるかもしれない。自分が手作りの料理を作ってもらえなくて、その子供と自分を勝手に重ね合わせちゃったとか。なんだったらそのどちらでもなくて、ただ生きてきた中でそういう価値観ができただけかもしれない。

たぶん悪意があったわけじゃなくて、単に世を憂いたい気分で、年を取ると「これだから若い人は」なんて言いたくなるものだし(それがいいとか悪いとかではなくて)、なんだったらちょっとした世直しのつもりで、口に出していたのかも。

もっと優しい見方をすれば、高齢だと耳が遠くなりがちで、そうすると声も大きくなりがちで、ぼそっと聞こえないようにつぶやいたつもりがめっちゃ聞こえてたってパターンとか。

でもな、口に出す前に、もう少しだけ想像力を働かせてくれたら良かったのに。何の感情もないぽろっとこぼれた言葉だとしても、もしかすると善意だとしても、聞いた方はどう受け取るか。「母親失格」とも取れるような言い方されたら、そりゃあうつむいてしまうよ。言われた方はつらいよ。

たとえ自分の母親が手作りをたくさんしてくれる人でも、世の中にこんなに惣菜があるということは、本当は母親も料理が大変だったんじゃないか。逆に料理を作ってくれない親だったら、大変だったろうと想像できる。

そうでなくたって、この惣菜で助かっている親もたくさんいるんじゃないか。今、幼児連れの母親が買っていった。ああ、この家庭も惣菜のおかげで助かったのかな。

想像力で、胸にくる一瞬も、優しい世界でなれたんじゃないのかな。ポテサラを2パックも買っていった人は、本当に優しい人だと思う。最大限できる、優しい行動だと思う。


疲れていて晩ご飯を冷凍餃子にして、子供がおいしいと食べていたのに、「手抜き」と言った旦那さんは、どんな感情が乗っていたんだろう。

その“感情”を考える前に、ちょっと持論を。そもそも、家事を手抜きしてもいいじゃないか、と私は個人的に思っている。だって家事って終わりがないじゃない。生きている限り、一生あるじゃない。でも、家事だけでなくても、やらなきゃいけないことって山ほどあるじゃない。

だったら、手抜きをしてできる家事があるなら、どんどん手抜きをしていい。文明の利器に感謝。お金に感謝。サービスに感謝。生きていくために家事はするけど、家事をするために生きているわけじゃないんだから。持論おわり。

子供が「おいしい」とうれしそうなら、わざわざ「手抜き」だなんて教えなくていい。「そうだね、おいしいね」でいいのに。「そのおいしいのは、ママのおかげじゃないよ。手抜きした冷凍餃子だよ(旦那さんはこんな言い方してなくて、あくまで言葉から私が受け取った感情を書いた)」とマイナスなことを念押しするみたいだったのは、なんでだろ。

私は「手抜き」に肯定的だから、「手抜き」で「冷凍餃子」であるのは、まあ事実だと思う。おっしゃった旦那さんは「手抜き」に否定的という点を覗いては事実という点で同じで、旦那さんからは「事実を言っただけ」で返されそうな感じがする。

でも、事実だからなんでも言っていいわけじゃないし。ましてや否定する意図があるならなおさら。太っている人だとしても「デブ」と言うのは失礼だし、「事実を言っただけ」なのが問題なのではなくて、相手が嫌だとわかっていてわざわざ言ったところに問題がある。

じゃあ、なんで否定的な言葉をわざわざ言ったのか。

もしかしたら、「料理を手抜きされた」ことで、その料理を食べる「自分が大事にされてない」と旦那さんは感じたのかも。自分に対しても手抜きをされているみたい、とすねているのかも。

だったら、ちょっとだけ想像力を働かせてほしい。逆なんだよね。家族と向き合う時間、家族のことを大切にしたいからこそ、手抜きしてでも頑張ってる。

本当に家族を大事にしないんだったら、そもそも手抜きしてまでやろうと思わない。全部やめちゃう。

自分のことを大事にして、手抜きしてでも家族のためにごはんを用意してくれているんだよ。それ以上を求めるってことは、自分を犠牲にしてでも相手のために尽くせ、とお願いすることになっちゃう。そうされて本当にうれしいかな?相手がつらくなっちゃうなって、思わないかな?


別の理由としては、「家事を手抜きしている」ことに、腹が立つのかもしれない。「自分は仕事で手抜きできないのに、家事は手抜きできていいよね」みたいな。

「家事を手抜きされることが嫌」と思う人はいるし、それを正当化するために「仕事は手抜きできないから」を重ねたのかなと思う。「家事を手抜きするな」だけだとモラハラにもなるから、自分を守るために、正しく言いたくて。

でもこれも、想像力をちょっと働かせてほしい。言ったところで、相手が手抜きをやめたところで、自分の仕事の大変さなんて何も変わらない。仕事の大変さをどうにかしたいなら、自分が頑張るしかない。

「でも、家事は冷凍食品とか、自分の力じゃなくてもラクできる。仕事を効率化するには、自分の力が必要だから、仕事の方が大変だ!」と主張されるかもしれない。

じゃあ、仕事の上司がこんなことを言ったらどうだろう。「おまえたちの時代はいいよな、機械もあるし、技術も進歩して、手抜きできて」。実際、今ある環境は自分の力じゃないもので進化してきた結果で、それに頼ってる。

でも、そんなこと言われたって…と思わない?それは家事も同じ。そんなこと言われたって…じゃあ機械の技術の進歩にも頼らないで、苦労をしようってなる?それって非効率的じゃない?仕事のためを思うなら、頼るんだよ。家事のためを思うなら、同じように頼っていいんだよ。

家事だって自分の力じゃないものをどう頼るかは自分の采配だし、それは仕事も同じ。どっちが大変じゃなくて、どっちも違った大変さがあると思う。

「こっちがどうしようもできないからこそ、嫌味を言うくらいさせてよ」ってことなのかもしれない。「自分が手抜きできないのに、手抜きしているパートナーがずるいと思った。うらやましく思った」って思考はわからないでもないよ。夫婦間でなくても、自分はこんなに頑張ってるのに、相手はそうでもなくて、理不尽に思うってことはある。

でも、ちょっと待って。それを言っちゃったら、自分が苦しいから、相手も同じだけ苦しめってなっちゃうよ。それ、お互いにしんどくないかな?自分が苦しいなら、同じ苦しみを大切な人には味わってほしくない、の方がお互いに優しくないかな?

たぶん、自分の大変さを理解してもらいたいんだと思う。そして尊重して、称えてもらいたいんだと思う。でも、プライドとかいろんなものが邪魔して、素直に「頑張ってるよ!褒めてよ!大変なんだよ!すごいでしょ!」なんて言えないよね。これは男女がとか、仕事が家事がとかじゃなくて、どんな立場のどんな人にも共通していえることでね。

自分がしてもらいたいことは、まず自分からして、そうしたら相手に返してもらえると思う。尊重して称えてもらいたいなら、大変さを理解してもらいたいなら、まず相手を尊重して称えて、大変さを理解する。「そっちはラクできていいよな」と言っちゃうのは、真反対の方法だよ。


相手の否を見つけようとするのって、自分が満たされてないだけなんだよね。相手のことを思いやれてない、言わなくてもいいことを言うのは、結局は自分のことしか考えてないから。

そもそも、人が人を変えようとするなんてほぼ無理。おこがましい。だから、自分が変わればいい。本当の感情の根っこは自分にあるから、なんでこんなこと言ったんだろうと振り返って、その根っこをちゃんと掘り下げてみたらいい。

とまあ考えてみたけど、私が書いていることも、言わなくてもいいこと言う人はこういう考えになったらいいのに、という主張で、まるっきり人を変えようとしているから、説得力がないね。

まあ自戒も込めて。私も不用意な発言をしてしまうことはあるから、そのとき「待てよ」と考えてみて、感情の根っこを掘り下げて、想像力を働かしたいなと思うのでした。


ちなみに我が家はずっと手作り餃子だったけど、私が「マツコの知らない世界」で見た冷凍餃子がおいしそうで、家族みんなで食べたらおいしくて、今では冷凍庫に常備されている。でも、手作り餃子も食べる。

それを「正しい」とか「間違い」とかいうことではないように、なんだってそれぞれの家庭の塩梅でいいもんじゃないのかな。

2020年8月7日(金)

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