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そうだ、専門家に(間接的に)聞いてみよう

脳科学についての本を読んでいる、フリーライターのaoikaraです。

脳科学の専門家が書いた本。私が学んだことはない分野だけど興味はあって、専門的な知識を一般的に噛み砕いてくれているから、とても面白い。まるで専門家の話を聞いている気分。間接的に聞いている状態なのかもしれない。

自分の中に不安や心配があると、つい調べてしまうクセがある。このクセは私だけかと思っていたけど、SNSを見ると同様の人がいた。現代的な問題解決法なのかもしれない。

不安や心配のはっきりとした答えはそこにはない。案はたくさんある。「こうかもね」「違うならこうかもよ」みたいに。でもそれが正しいのかどうなのか、わからない。

納得できるときもあれば、しっくりと来ないときもある。結局は、自分にとって聞きたい言葉を見つけて安心するための手段なのかもしれない。


一方で、専門家の言葉は知見に基づいていて、論理的に説明してくれるから説得力がある。全ての物事に正解があるとは限らないけれど、「この分野に限って言えば」という前提でなら答えはある。現時点でわかっている情報の中での答え。あるいは可能性でも。

もしかするとネットで見つけた言葉たちよりも漠然としているかもしれないけれど、答えに納得はしてしまう。自分の知らない分野によって、自分を客観視できて、冷静に物事を捉えられるからかもしれない。

その本にも、私なりの“答え”があった。頭ではわかっているけど、心がどうしようもなく受け入れられないことも、理由や仕組みが「脳のメカニズムなんだ」と論理的にわかれば、もやもやがすんとおさまった。ただそれだけ、なんてわかりやすい。

以前にも、似たようなことがあった。自分にとって怒りと恐怖が入り交じるような出来事を、とある分野の専門家に相談したら、その分野ならではの助言をいただいた。状況は変わっていなかったけど、私は安心できた。私にはない視点だから、視界が開けた気もした。


とはいえ、専門家、にもさまざまな人がいる。それぞれに正しい論理があり、もしかすると私とは相容れない論理かもしれない。

何が正しいか正しくないかはとても曖昧だから、私としては「違う」と思っても、あくまで私の一意見に過ぎない。私は受け入れがたい、でもほかの人にとっては「正しい」かもしれない。

だから情報の精査は必要で、自分の中での判断も必要。となると、ネットで調べているときと同様に、自分が聞きたい言葉を選んでいるだけのかもしれない。

とはいえ、何かを極めていらっしゃる方、今でも研究し続けている方、学び続けている方を専門家と呼ぶならば、言葉の重みは計り知れない。その言葉で私の視野を広げて、生きやすくなる手段に変えられたらいいな。

2021年8月4日(水)

No.954

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