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間違えて、傷つけてしまったら

指を差すでも、盾になるでもなく、その中間あたりにいる、フリーライターのaoikaraです。

いろいろと考えてはいるのだけど、言葉にするのが難しいと感じる。指を差すのも、盾になるのも、どちらも私のスタンスではない気がする。


間違いを犯し、誰かを傷つけてしまったら、まずは傷つけられた人を守ることが、そのどちらでもない人にとって大切な役割ではないかと思う。傷を治そうと、もう傷つかないためにはどうしたらいいか考えることが、できることじゃないかと。

同時に、誰かを傷つけること、そして間違えてしまうことをなくすことも、大切なのではないかと私は思う。どうして傷つけたのか、どうして間違えたのか、原因を減らしていくことは、同じ人が再び間違うこと、傷つけることを防ぎ、また別の人が間違い、傷つけることも防ぐはず。

傷つけられた人を思い、間違えたことも、傷つけたことも、「絶対に許せない」と感じる人がいるのも事実。私だって、自分や、自分の大切な人が傷つけられた側なら、同じ気持ちになる。

近しい人ではなくても「許せない」「許さない」と思う人はいて、その気持ちも尊重されるものだと思う。事実関係として、傷つけられた人と、傷つけた人がいて、傷つけられた人の側に寄り添う人が多いのは、それは傷を守ろうというやさしさからだから。

大前提として、傷つけられた人の傷を治そうと、居場所を守ろうとした上で、尊重をした上で、傷つけた人の居場所も全てを奪ってしまわないように、とも思う。傷つけた人の居場所を全て奪ってしまったら、たぶんまた傷つけて誰かの居場所を奪うしか、その人の居場所はなくなってしまうと思うから。

もちろん、間違えた、傷つけた事実はなくならない。傷つけられた人が一生背負いたくないものを背負わされたのだから、傷つけた側も一生背負わなければならない。「許せない」という人の気持ちも背負うもののひとつで。


ただ、傷つけた側の理由を考えて改善するような行動も、傷つけられた側を守るような行動を起こしているわけでもない私は、何か言う立場でもないなとも思う。行動を起こしていない人は意見する立場ではない、という意味ではない。あくまで主語が“私”の話として。

私の頭の中で考えている、綺麗事でしかない。何か言うなら行動を起こしてからだな、こんなに“何か”言っておきながら、という反省を結びとする。

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