Aoi Hagiwara

中央線育ち、多摩地域で暮らす人。 スミレアオイハウス管理人 デザイン

Aoi Hagiwara

中央線育ち、多摩地域で暮らす人。 スミレアオイハウス管理人 デザイン

マガジン

  • スミレアオイハウス

    • 7本

    1999年に建てられた9坪の小さな家「スミレアオイハウス」が一棟貸の宿に生まれ変わりました。 この家で育ったスミレとアオイが運営しています。 https://www.sahouse.net

最近の記事

「ホテルのフロントの人」になりたかった

小学生の頃は毎夏、母の故郷である広島へ帰省していた。一週間ほどの旅程のうちの半分は母の実家、もう半分は祖父母といっしょに広島プリンスホテルに宿泊するのがお決まりだった。 窓から瀬戸内海と丸いプールを見下ろす、明るい部屋。きれいに整ったベッド。広々としたバスルーム。朝食のバイキング。朝から晩までワクワクがとまらない。わたしはホテルで過ごす時間が大好きだった。 中学生になると学校で興味のある職種を考える機会があり、いくつか挙げる中に「ホテルのフロント」と書いたことを覚えている

    • 雪の気配

      東京で生まれ育ったわたしにとって、雪は特別なものだ。 寝ている間に積もるかも、という夜が明けた朝、母に「雪積もってるよ!」と起こされドキドキしながら障子を開けた思い出がある。 障子越しの雪景色の予感。いつもよりまぶしくて、発光しているような感じ。 障子を開けて、庭もデッキも真っ白になっているのを見ると、なぜかうれしくなった。 ひと冬に何度も降らないのに、「雪積もってるよ」という言葉はしょっちゅう母から繰り出されるようになった。 なかなか起きないわたしたちを、まったく雪の気

      • スナックの変化を考える

        「スナック」とは業種としての「スナック」は、その名の通り「軽食を提供するバー」を指す。 店員と客、客同士がお酒を飲みながら会話をすることが主な内容で、風営法で0時以降の営業は禁止されている。 一方で、(これは個人的な解釈だけれど)「スナック的な店」は業種の枠を超えて存在している。 風俗営業に当たらないかたちで0時以降も営業するバーや小料理屋。これらも、飲食物の提供に加え会話を含む接客サービスが価値を生んでいるのだ。 新しい条例や特別措置法の下での変化4月から施行された受動

        • 暮らしの記憶

          昨年の12月の初めごろ、アパートへと引っ越した。 引っ越しはしたものの、週に1回くらいのペースで、工事の立会いや片付けのためにスミレアオイハウスを訪れている。 とにかく汚さないように、ゴミを残さないようにと、気をつけながら。 ふと、いつから家は自分の家じゃなくなるのかと、考える。 民泊を運営していくにあたって、掃除やチェックインに通うので、実際はこれからも自分の家なのだけど、感覚的にはもう自分の家じゃなくなっている。 暮らしていない、という実感があるからか。 「9坪の家

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        • スミレアオイハウス
          7本

        記事

          みんなの丸テーブル

          スミレアオイハウスには、後から加えた家具がほとんどない。カウンターも本棚も、デスクもテーブルも椅子も、家をデザインしてくれた小泉誠さんによるものだ。それらの中でも特に存在感が大きいのが、この丸テーブル。 食事をする時はダイニングテーブルとして。ちょっとお茶したり、PCを開いたり。お客さんが来たときに6〜7人がぎゅうぎゅうで囲むのも、いい。 人も猫も集まる丸テーブルは、どんなときも真ん中にいてくれる、スミレアオイハウスの中心的な存在だ。 ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎

          みんなの丸テーブル

          初めてスミレアオイハウスへ帰った日

          1999年10月。小学校1年生の2学期。 わたしは当時家族で住んでいた阿佐ヶ谷のアパートからバスと電車を乗り継いで、吉祥寺の小学校へ通学していた。 ある朝のこと、母から「今日は三鷹に帰るんだよ。」と告げられた。 下校時刻になり学校を出て、吉祥寺駅からいつもとは反対方向の電車に乗る。三鷹駅で降りると、母が待っていてくれて、一緒にバスに乗った。 それが、初めてスミレアオイハウスへ帰った日。 あれから今まで、わたしは約20年間ここに住んでいた。 2019年11月。スミレアオイハウ

          初めてスミレアオイハウスへ帰った日