平和研究会

2024.7.21(第百五十三回)

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの——情熱の政治学』

 人はフェミニストに生まれるのではない、フェミニストになるのだ。人はただたんに、幸いにも女性に生まれたという理由でフェミニズムの支持者になるわけではない。すべての政治的な立場と同様に、人がフェミニズムの支持者になるのは、選択と行動によってなのだ。女性たちが性差別や男性支配の問題についてみんなで話しあうグループをはじめてつくったとき、はっきり認めたのは、女性もまた男性と同様に性差別的な嗜好や価値観を信じるように社会化されていること、ただ違っているのは、男性は女性よりも性差別から利益を得ており、その結果、家父長主義的な特権を手放したがらない、ということだった。家父長主義を変えたいのなら、女性たちはそのまえにまず自分自身を変えなくてはならない。つまり、わたしたちの意識を高めなくてはならないのだ。

コンシャスネス・レイジング 不断の意識の変革を

 左翼的で革命的なフェミニズムのコンシャスネス・レイジングで強調されたのは、支配システムとしての家父長制について知ることの重要性であり、それがいかにして社会の制度となり、すみずみまで張りめぐらされ、維持されているかを学ぶことの大切さだった。日常生活の中で男性支配や性差別がどのように現れてくるかを理解することで、女性たちははじめて自身がどのように犠牲にされたり、搾取されたり、最悪の場合には残酷に抑圧されているかに覚醒した。フェミニズム運動の当初、コンシャスネス・レイジングの集会は、女性たちが犠牲にされてきたことへの恨みや怒りを発散するだけの場になりがちだった。それに対してどうしたらよいのか、またそうしたことを変えるには何をしなくてはならないのか、そうした議論がほとんどないことが多かったのだ。基本的にコンシャスネス・レイジングの集会はセラピーの役割を果たした。傷つき搾取された多くの女性たちにとって、そこは自分の心の奥に秘めてきたいたみを告白し、さらけ出すことのできる場だった。こうした告白という要素は、癒しの儀式となった。コンシャスネス・レイジングを通して、女性たちは職場や家庭での家父長主義的な暴力に立ち向かう力を得たのである。
 だが大切なのは、こうしたことを可能にする支えができたのは、女性たちがフェミニズムの思想と出会い、フェミニズムの運動に関係することを通して、性差別的な思考を検証し、自分自身の態度や信念を変える方法を見い出そうとしたから、ということだ。コンシャスネス・レイジングの集会は、まず何より変革の場だったのである。民衆的なフェミニズム運動をつくり出すためには、人を集めることが必要だった。〔…〕
 注目すべきなのは、コンシャスネス・レイジングの中心をなす方法が、会話と対話にあったことだ。多くの集会で実行された原則は、すべての人の意見を聴くということだった。女性たちは順に話をし、すべての参加者が話すチャンスがもてるように気をつけた。上下の関係のない平等な議論をつくろうとするこうした試みは、すべての女性に話すチャンスを与える点でよいものであったが、とりとめのないかみあわないおしゃべりに終始することもあった。しかしほとんどの場合は、みんなが一回は話をしたあとで、討論や議論になるのが普通だった。コンシャスネス・レイジングではよく議論が白熱したが、それは男性の支配とはどういうものかをみんなで理解するためには、徹底的に議論するのがよいと考えていたからだ。とことん話しあい、おたがいの差異をはっきりさせることを通してのみ、女性に対する差別的な搾取や抑圧がどのようなものなのかを理解することができるからである。〔…〕まもなく、女性学のクラスがすべての人に開かれていたコンシャスネス・レイジングの集会に取って代わった。コンシャスネス・レイジングの集会には、専業主婦もサービス業の女性もバリバリのキャリア・ウーマンも、実にさまざまな生き方の女性たちがいたが、大学は階級的な特権を持つ者だけの集会だった。〔…〕こうして、フェミニズムの思想や社会変革の方法を伝える主要な場として、女性学のクラスがコンシャスネス・レイジングの集会に取って代わり、それとともにフェミニズムは広範な人びとをパートナーとする運動の可能性を喪失してしまったのである。

コンシャスネス・レイジング 不断の意識の変革を

自分自身の内面化された性差別主義と対決することなしにフェミニズムの旗を振った女性たちは、しばしば他の女性を差別し搾取したり、フェミニズムの思想を裏切ったりしたのである。〔…〕
 男性のためのフェミニズムのコンシャスネス・レイジングは、先進的な運動にとって、女性のためのグループと同様に決定的な意味をもっている。少年や大人の男性に対して、性差別とは何か、どうやったらそれを変えられるのかを教える男性のためのグループをつくることを強く主張していたら、フェミニズム運動は男性に反対するものだなどとマス・メディアが喧伝することはできなかっただろう。そういうグループを先につくっていれば、フェミニズム運動に反対する男性たちのグループができるようなこともなかっただろう。フェミニズム運動の誕生と相前後してつくられた男性たちのグループは、えてして性差別や男性支配の問題をとりあげようとしなかった。女性向けの上辺だけの「ライフスタイル・フェミニズム」と同様に、こうした男性のグループは家父長主義を批判し男性支配に抵抗することを目標とするのではなく、自分の傷を慰める癒しの場となることが多かった。こうした間違いをこれからのフェミニズムは犯してはならない。あらゆる男性にとって必要なのは、性差別に対する抵抗が肯定され、価値あるものとされるような場である。男性がパートナーとして闘いに関与しない限り、フェミニズム運動は前進しない。そうなるために、フェミニズムとは男性に反対するものだという、文化的に構築された心理に深く根ざした思い込みを変えねばならない。フェミニズムが反対しているのは性差別なのだ。男性の特権を放棄し、フェミニズムを支持する男性たちは、大切な闘いの同志であり、フェミニズムにとって脅威でもなんでもない。性差別的な思考や行動と手を結んだまま、フェミニズム運動に潜り込む女性の方がずっと危険な脅威である。自分自身の内面化された性差別と対決し、家父長主義的な思考や行動に加担することをやめ、フェミニストになるべきだと促したことこそ、コンシャスネス・レイジングが行った最も力強い問題提起だと確認すべきだ。こうした問題提起はいまでも必要である。それはいまなお、フェミニズムを選ぼうとする誰にとっても必要なステップなのだ。外なる敵と対立するまえに、わたしたちは内なる敵を変えなくてはならない。脅威は、そして敵は、性差別的な思考であり行動なのだ。女性たちが自分自身の性差別を問題にしてそれを変えることなしにフェミニズムの旗を振り続けるならば、フェミニズム運動はついにだめになってしまうだろう。

コンシャスネス・レイジング 不断の意識の変革を

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