歴史は、深読みすればするほど面白い!      パートⅡ

真珠湾攻撃をしなければ、日本は世界の三分の一を支配する巨大帝国になっていた!?
 そんなこと、信じられますか?
 でもこれ、本当かもしれません。

もしかしたら現実になっていたかもしれない、怖るべき『歴史のif』を、お楽しみ下さい。

『ルーズベルト・トラップの破り方―――太平洋戦争回避の試案と、それがもたらすバタフライ・エフェクトの考察』

 本文は、大日本帝国が太平洋戦争の開戦に至った直接的原因とされる、1941年8月1日のアメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトによる対日石油全面禁輪措置、いわゆる『ABCD包囲網』の発動を受けて、当時の日本帝国政府が自らの国情と、敵対各国の政治条件に照らして、いかなる軍事的、外交的行動をとることが最善であったのか、そしてその選択は、その後の世界にいかなる影響を及ぼすことになるのかを考察したものです。

 従って、「戦争は悪、非戦は善」、「民主主義は正義、全体主義・軍国主義は悪」といったように、国策や政治思想を現在における道義的善悪論で評価することはしていません。
 同時に、人命の尊重や戦争の悲惨といった人道性、及び第二次世界大戦において行われた参加各国における民間人虐殺、人種差別、民族絶滅などの非人道行為も、それが国家戦略に影響を及ぼすものでない限り、取り上げていません。

 また、当時の日本帝国内における陸海軍部の文民政府に対するテロを背景にした無分別な介入や、政府の承認を得ずに断行された中国大陸での独善的軍事行動も、対外的には「日本帝国の国策」となりますので、この考察においてはその点の是非は論じませんし、当然のことながら、「軍部がもう少し理性的であったなら―――」といった現実にない仮定も設けません。

 あくまでも、半ば軍部に支配されていたがゆえに選択肢が限られていた当時の日本帝国の国内事情に基いてとることが可能であった国際的政治戦略と、その影響のみに特化した考察であることを、お断りさせていただきます。

   第一章  開戦前夜

       1  ABCD包囲網―――ルーズベルト・トラップ

 1941年12月8日未明、日本帝国海軍航空隊によるハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争は始まりますが、この直接の原因となったものが、同年8月1日に正式発動されたアメリカ合衆国による日本帝国に対するアメリカ産石油の完全輪出禁止措置であることは周知の事実です。

 石油の国内消費の66パーセントを、当時世界最大の産油国であったアメリカに依存していた日本帝国にとっては致命的ともいえるこの経済圧力は、1931年から続けられていた中国大陸における軍部主導の勢力拡大と、それに続く1941年7月のフランス領インドシナ南部への軍事進駐に対して行われたもので、これに東南アジアの油田地帯を植民地として領有するイギリス、オランダが加わることにより、日本帝国に対する事実上の経済封鎖、いわゆる『ABCD包囲網』が形成され、結果として日本帝国は文字通り一滴の石油も輪入できない状態となり、全石油供給の94パーセントを絶たれることになりました。

【☆ いわゆる南部仏印進駐――日本帝国は、当時すでにナチス・ドイツの支配下にあったフランス政府に軍事的圧力を掛け、同国植民地インドシナ(現在のベトナム)南部への日本陸海軍の駐留と、フランス軍の空軍基地・海軍基地の使用を認めさせた。
武力侵攻ではなかったが、これによりイギリス植民地マレー半島が日本軍航空機の攻撃圏内に入ったことで東南アジアの軍事バランスが崩れたことが、アメリカの強硬な反発を招いたとされる】

【☆ ABCD包囲網――この経済封鎖に日本側が付けた俗称。アメリカ、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の頭文字をとったもの】

 これによって残る石油は国内備蓄のみとなった日本帝国は、東南アジアの油田地帯を武力で制圧するしか石油を得る手段を見出せず、更にその武力制圧と日本本土への石油輸送に対して軍事的妨害が可能なフィリピンのアメリカ海軍基地及びその後背基地となるハワイ・オアフ島の真珠湾に駐留するアメリカ太平洋艦隊を撃滅せざるをえないとの武断的結論に達し、日本陸軍の中国からの完全撤兵を求めるコーデル・ハル国務長官の強硬な要求、通称『ハル・ノート』の堤出による日米交渉の行き詰まりとともに、真珠湾攻撃及びフィリピン侵攻をもって、対米開戦に踏み切りました。  【日米交渉】【ハル・ノート】 

【☆ このハル・ノートを『アメリカからの実質的な最後通牒』とする見解もあるが、撤兵実行の具体的日時が特定されていないことだけを見ても、最後通牒の要件を満たしていない】

 これは当時軍部に支配されていた日本帝国の暴発に等しい軍事行動であると同時に、その暴発を招くため、在米日本資産の凍結を含め、幾重もの外交的、経済的圧力を掛け続けたルーズベルトの罠であったともされます。 【日本帝国に対する経済制裁】

 確かに当時ヨーロッパにおいてはナチス・ドイツが、アジアにおいては日本帝国が、武力をもってその支配圏を拡大しており、それはアメリカにとって政治体制を同じくするイギリスを始めとした民主主義友邦の危機であると同時に、両地域におけるアメリカの経済的権益を脅かすものであり、それらを防ぐためルーズベルトが両地域への参戦を望んでいたことは、彼自身の行動が明確に示しています。

 1939年9月以来ナチス・ドイツと戦争状態にあるイギリスに対しては、自国の中立法及び国際法上の中立規定を踏み越えた方法での多量の武器援助を行い、日本帝国に圧迫される中国の蔣介石に対しては、物資援助だけでなく、義勇兵を名目にした戦闘機パイロットの派遣と最新型戦闘機の供与によって、中国軍に実質的な航空戦力の提供を行っていました。

【☆ 義勇兵―――本来は個人が自らの自由意志に基いて他国の戦争に参加することであるが、それを名目に国家が正規軍を派遣する『隠れ蓑(みの)』ともされた。
1936年に勃発したスペイン内戦では、共和国政府側には数千人の反ファシズム人士が自らの自由意志によって参加した一方で、反乱軍フランコ将軍側にはナチス・ドイツとイタリアが正規軍の一部を義勇軍名目で参加させた。
また、1950年に勃発した朝鮮戦争では、国連軍の仁川上陸作戦によって崩壊寸前となった北朝鮮軍を支援するため、約30万人の中国人民解放軍が介入したが、これも名目上は義勇軍である】 

【☆ フライング・タイガース義勇飛行隊―――蔣介石の軍事顧問であったアメリカ陸軍退役中将クレア・リー・シェーンノートの提唱によって1940年に組織された戦闘機部隊。
名目上は義勇兵部隊だが、資金・要員・戦闘機(当時の最新型機P40ウォーホーク)はアメリカ政府から供与されており、実質的には日中戦争へのアメリカの軍事介入であった】【中立法】

 ただしこれらをもって、武力拡張政策をとるナチス・ドイツと日本帝国を悪、その阻止をはかるアメリカを正義とするものではありません。
アメリカを含めた欧米列強は、その歴史の中で幾多の侵略と併合および植民地化を繰り返して大国としての地位を築いたものであり、日本帝国とドイツは周回遅れのランナーとして、植民地及び生活圏の獲得に加わったにすぎません。
 第一次世界大戦後に設立された国際連盟は、確かにそれまでの剥き出しの帝国主義とは一線を画し、世界平和の理念を掲げた安全保障機関でしたが、その実情は植民地主義の勝ち組が得た既得権益を固定化する側面を持っていたことは否めません。

一方で、アメリカが日独両国の覇権確立を妨害した理由は、必ずしも彼らが掲げた自由と民主主義の守護といった綺麗事だけではなく、前述した自らの経済的権益ゆえでもあります。

 当時の世界経済は、現在の自由貿易体制とは異なり、1929年の世界恐慌時に形成された閉鎖的経済ブロックが残っていました。従ってナチス・ドイツがヨーロッパ全域を、日本帝国がアジア全域を自らの経済ブロックとしてしまえば、アメリカはこの双方から締め出されることになります。
【☆ 経済ブロック―――世界恐慌によって生じた保護貿易主義化により作られた排他的貿易圏。
イギリスのポンド・ブロック(スターリング・ブロック)、アメリカのドル・ブロック、フランスの金ブロックなど、欧米主要国が自国とその植民地のみで形成した。
日本帝国による「大東亜共栄圏」は円ブロック、ナチス・ドイツが1940年7月に発表した「欧州新経済秩序(ドイツ占領下のヨーロッパ諸国の通貨をドイツ・マルクで統一し、域内を自由経済圏とする)」はマルク・ブロックといえる。
この経済的対立が第二次世界大戦およびアメリカ参戦の一因となったとされる】 【世界恐慌】 【大東亜共栄圏】 【欧州新経済秩序】

 日独に対する抵抗勢力への援助は、この経済ブロックの確立を阻止するためでもあったとされます。
 しかしこのことをもって、アメリカを偽善的な策謀者、日独を同情すべきその被害者とするものでもありません。

つまるところ主権国家が自らの国益に照らして必要とあれば、武力、経済力、諜報、謀略を駆使して敵対国を圧服させることに正邪はなく、その対立が行きつくところまで行けば戦争によって決着をつけるのがこの時代までの常道であり実情です。
日米独ともこの常道を歩んだにすぎず、中国大陸での日本軍部による国家戦略なき侵略行動とその際限のない拡大が、真に日本帝国の国益に叶うものであったか否かの客観的評価は別として、中国を巡る日米対立も、本質的には両国のアジア太平洋地域における対等な覇権争いにすぎません。

 ルーズベルトにとって、日本帝国及びナチス・ドイツとの戦争は、自国の巨大な経済力、工業生産力、資源力と、それに基く軍事力をもってすれば、確実に勝利が計算できるものでした。
にもかかわらず、ヨーロッパの独英戦争に対しても、アジアの日中戦争に対しても、第一次世界大戦時のような正式参戦もしくは軍事介入がなされなかったのは、アメリカ国民の根強い孤立主義感情に基く圧倒的な参戦拒否があったためです。 【孤立主義】

ナチス・ドイツのポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発した1939年の世論調査において、ヨーロッパ参戦に賛成したアメリカ市民は、わずか2パーセント。そしてナチス・ドイツが西ヨーロッパの大半を支配下に納め、イギリス一国のみがドイツ空軍の夜間爆撃に晒されながらも辛うじて民主主義の孤塁を守っていた1941年5月においてさえ、参戦反対はアメリカ国民の79パーセントを占めていたのです。
この世論の中で、アメリカ議会が参戦を承認するはずはありません。
【☆ アメリカ憲法においては、正式な宣戦布告を行う権限は大統領ではなく議会にある】

この圧倒的な国民の孤立主義感情に反することなく自国の軍を参戦させるには、「敵」を軍事的に挑発し、あるいは経済的に追いつめて宣戦布告もしくは先制攻撃をさせるしかない。国際法上の中立規定を半ば無視して行われたイギリスへの軍事援助(つまりイギリスと正式の戦争状態にあるナチス・ドイツから見れば、完全な中立違反の敵対行為)と、日本帝国に対する一連の経済圧力及びそのとどめともいうべき石油の全面禁輪措置は、それを目的になされた――おそらくそれは事実でしょう。

これを『ルーズベルトの陰謀』とする言説もありますが、アメリカとしては自国が輸出した資源が自国の権益を損う戦争に使用されるならば、その輸出を止めることは当然の権利です。
特にアメリカ製のハイオクタン航空燃料が、日本陸海軍航空隊の中国における軍事行動の必需物資であればなおさらでしょう。
客観的に見れば、アメリカの国益に反する中国大陸での勢力拡大を、アメリカから輸入する戦略資源に依存して行うということ自体が、戦争政策としては本質的に間違っています。 【ルーズベルト陰謀論】

しかし一方で、当時の日本帝国が事実上軍部に支配されていたことはルーズベルトを含めアメリカ政府要人は周知のことであり、その日本軍部が絶対的に必要とする石油供給を、他の産油国と共に完全に絶ち切る経済封鎖を行えば、それは日本軍部強硬派の感情的な対米開戦論を更に強め、同時に軍事的には極めて弱体なイギリス、オランダ両国の東南アジア植民地油田地帯への侵攻へと「押し出す」ことになること、そして近衛文麿を首相とする文民政府がいかに日米交渉による戦争回避を模索しようとも、5・15事件、2・26事件といったテロおよび反乱の恫喝と、統帥権の独立および陸海軍大臣の現役武官制を濫用して独断専行する軍部を抑制することは不可能であったこと、この二点を認識できないほど、ルーズベルトとその政策ブレーンが暗愚であったはずはありません。

従ってこの対日石油全面禁輸措置は、日本帝国軍部が暴発的軍事行動に出る可能性を完全に織り込んだ上でなされたと考えるのが自然です。【5.15事件】【2.26事件】

【☆ 統帥権の独立―――大日本帝国憲法においては、軍の最高指揮権は天皇にあり、軍部は政府の干渉を受けないとの考え方】 

【☆ 軍部大臣現役武官制―――陸海軍大臣は現役の制服軍人から選任されなければならないとする制度。
明治期に作られ一旦は廃止されたが、1936年の広田弘毅内閣時に軍部の圧力により復活した。
これにより軍部は自らの意向に反する首班に対しては大臣を出さないことにより組閣を潰すことが可能となり、軍部独裁に道を開くことになった】

であるならば、国力に大きく劣り、対アメリカ戦争の勝利を確実に計算できない日本帝国は、アメリカの要求に反してあくまでも中国からの撤兵を拒むのであれば、明らかに勝利の見込みの少ない(客観的に見れば全くない)全面戦争によることなく、ルーズベルトが仕掛けた『罠』をくぐり抜けなければならなかったはずです。

その方法がなかったから戦争せざるを得なかったのだ、というのが定説ですが、はたして本当にそうだったのでしょうか。

第三の道、すなわち、アメリカの経済圧力に屈することなく、自滅的な全面戦争に突入することもなく石油を獲得し、対米開戦を叫ぶ無分別な軍部強硬派の暴発を招くことなく『ルーズベルトの罠』をかわすことができる可能性が存在していたのではないか―――というのが、この考察の最初のテーマです。
そのカギとなるものは、ABCD包囲網の『D』、すなわちオランダです。

なお、この対日全面石油禁輪措置の発動は公式には1941年8日1日ですが、当時石油製品はアメリカ連邦政府の輸出許可制品目であったため、実質的にはその1ヶ月以上前の6月21日にアメリカ東部の石油不足を理由に日本帝国への石油積み出しは停止されています。
従ってこの日より日本帝国政府が対米開戦の回避を基本方針とした上で可能な石油獲得策の策定に入り、公式の禁輪発動日である8月1日をもってその対策案を実行に移したという想定のもとに、考察を進めるものとさせていただきます。
また、この章で欧米情勢として述べる事柄は、時系列が1941年以後と記したものを除き、全て1941年8月現在において、関係各国の新聞・ラジオ・ニュース映画などの報道メディアで広く一般に知られており、日本帝国政府及び在外公館が普遍的に入手可能な情報です。

以下、1941年8月1日現在におけるオランダの状況を簡略に記します。

ヨーロッパにおける第二次世界大戦は、1939年9月1日のナチス・ドイツによるポーランド侵攻に対し、同国に安全保証を与えていたイギリス・フランスが、その二日後の9月3日にドイツに対して宜戦を布告したことによって始まりました。

しかし戦争準備が完了していなかった英仏両国は、すぐにはドイツに対する軍事行動をとることができず、宣戦布告がなされていながら戦闘が起こらない、いわゆる『奇妙な戦争(ファニー・ウォー)』と呼ばれる状態が約8ヶ月続きます。

この間にポーランドをソビエト・ロシアと分割占領し、更にノルウェーとデンマークを手中に納めたナチス・ドイツは、1940年5月10日、フランス・オランダ・ベルギーに対して万全の戦闘準備のもとに戦端を開きます。
空陸から圧倒的なドイツ軍の攻撃を受けた中立国オランダは、わずか5日後に降伏。首相ピータ・S・ヘアブランディー以下の主要閣僚は、ヴィルヘルミナ女王、王位継承者ユリアナ王女とその夫君ベルナルド皇太子らの王室と供にイギリスに脱出し、ロンドンに亡命政権を設立しました。

以後オランダ全土はナチス・ドイツの完全占領下に入り、ドイツ政府から派遣された高等弁務官アルトゥール・ザイス・インクヴァルトが既存のオランダ行政組織をそのまま使って占領行政を行っていました。

ただしオランダにおけるドイツの占領政策は、フランスやポーランドに対するものほど厳しい抑圧ではなく、後にアンネ・フランクの悲劇を生むことになるユダヤ人の狩り出し以外は、比較的ゆるやかなものでした。
この理由は、オランダ人が民族的にドイツと同じゲルマン系であったこと、オランダ政府がロンドンに亡命するにあたり残留する政府機関に対し、国民の不利益にならない限りドイツに抵抗しないようにとの訓令を残していたことなどによります。
【アンネ・フランク】
【☆ オランダは第一次世界大戦時には中立を保ち、1918年のドイツ革命により退位した皇帝ヴィルヘルム二世の亡命を受け入れている】
このため一般市民のレジスタンス活動も、1941年時点では激化していませんでした。

一方で、大戦勃発以前から、オランダには約8万人のオランダ人ナチス支持者が存在していました。
この人々は、必ずしも後にハリウッド映画などで悪役として描かれる下劣な売国者ではありません。
旧ソビエト連邦が、民族・国籍の別なく社会主義者の母国であったのと同じく、白人世界においては、極右主義者・反共主義者・反ユダヤ主義者は、国家の別なくナチス・ドイスをその総本山として仰いでいました。 【ソビエト連邦】
例えばイギリスにはオズワルド・モズレー卿を党主とするイギリス・ファシスト連盟があり、フランス人右翼は、自国の社会主義政治家レオン・ブルムより、ヒトラーを好んでいたことなどはよく知られています。
同種の擬似ナチス政治団体は、アメリカにも存在していました。
【オズワルド・モズレー】 【レオン・ブルム】

また現在においては、大戦後ユダヤ人虐殺などの残虐な犯罪行為が明るみに出されたため、ナチス思想とその体制は完全否定されていますが、この時点においては、第一次世界大戦の敗北以来混乱していたドイツを立て直し、ケインズ流経済理論を先取りした独自の経済政策で世界恐慌をも自力で克服したヒトラー体制は、斬新かつ優れたものとする評価がドイツ国外にも広く存在していました。

【☆ ヒトラー政権の経済政策―――ヒトラーは政権掌握後直ちに失業対策に着手し、アウトバーン(高速道路網)建設、ナチス党本部ビル建築など積極財政政策による雇用拡大を実行した。これにより前年(1932年)に600万人に達していた失業者は翌年には半減し、1936年には43万人にまで減少させた。(同年イギリスには135万人、アメリカには783万人の失業者がいたとされる)
その一方で、景気拡大に伴うインフレは全体主義体制のみになし得る価格統制によって抑制された。
これによりドイツ国民の生活水準は安定的に向上し、このことがヒトラー政権への圧倒的支持につながったとされる。
また、世界恐慌によって形成された欧米主要国のブロック経済圏からはじき出された中欧・南米諸国との貿易を、独自のバーター取引によって活性化させた。
これらの独創的な経済政策の成功は、主としてライヒスバンク(中央銀行)総裁ヒャルマー・シャハトの手腕によるが、シャハトを登用し、その手腕を振るわせたのはヒトラーであるため、政治的にはヒトラー政権の功績となる】 【ヒャルマー・シャハト】 

【☆ ヒトラーが武力拡張政策を開始する以前の1936年時点では、第一次世界大戦時のイギリス首相ロイド・ジョージも、ヒトラーを優れた改革者として高く評価していた】

べルギー・ノルウェー・デンマークなどの被占領国も同様で、大戦中期以後は、これらの国々から募集された志願兵によって武装親衛隊の師団・連隊が編成され、ドイツ軍の貴重な戦力となりました。彼らは1945年5月8日のベルリン陥落に至るまで、鉤十字の旗のもとで連合軍と戦います。  【武装親衛隊】

【☆ 被占領国における対独協力―――上記の他には、ベルギーの親ナチス政党レックス党党首レオン・デクレール、ノルウェー・ファシスト党党首ヴィドクン・クヴィスリングが挙げられる。
特にデクレールは、早くも1936年に親ナチス政党を設立し、大戦中は自らドイツ軍に入隊し、ベルギー人志願兵による武装親衛隊師団の指揮官として実戦に参加している。大戦後はフランコ政権下のスペインに亡命した】

ちなみに、ナチス・ドイツの最期となったベルリン攻防戦(1945年4月~5月)のドイツ軍兵力には、フランス人義勇兵で編成された武装親衛隊「シャルルマーニュ師団」およびノルウェーなど北欧からの義勇兵で編成された同「ノルトラント師団」の兵士が含まれていたとされます。

これを見れば、ナチス思想はドイツ人のみの特殊なものではなく、白人世界においてはある程度のインターナショナル性を持っていたと言えるでしょう。
また共産主義革命が現実の脅威であったこの時代において、ナチス・ドイツは反共主義の最大の砦でもありました。
 
オランダにおいても同様で、終戦までに約2万5千人がドイツ軍に志願入隊し、武装親衛隊「ネーデルラント師団」として編成されています。
政治面では、極右主義者アントン・ムッセルトを党首とする擬似ナチス政党「オランダ・ユニオン」が設立され、政府亡命後はドイツの占領行政に協力していました。
つまりこの1941年当時、オランダ本国には、政府が存在していなかったのです。

アメリカの対日石油禁輪に同調し、ABCD包囲網に加わったのは、ナチス・ドイツに本国を追われたロンドンの亡命政府でした。
それが可能だったのは、本国をドイツに占領されていても、油田のある東南アジア植民地まではドイツ軍の手は及ばず、そこは依然としてロンドン亡命政府の指揮下にある植民地守備軍と植民地総督を長とする行政府が実効支配していたからです。

この『D』の状況こそ、日本帝国の石油危機を、戦争によることなく打開する突破口となります。
なぜならば、史実において日本陸海軍がアメリカに代わる石油供給地として対米開戦直後に占領した「南方の油田地帯」において、その最大の石油産出地はオランダの直轄植民地であるオランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)であり、その中核をなすスマトラ島のパレンバン油田とその製油所だけでも、年間生産量は約280万トン。これは当時の日本帝国の平時における全石油消費量の約一年分弱、戦時消費予想量の約半年分に相当します。

つまりこの東インド諸島を、戦争を起こすことなく「平和的かつ合法的」に支配下におき、かつそこから日本本土への約5千キロにおよぶ海上輸送路の安全を確保することができれば、日本帝国の石油危機は解消され、ルーズベルトの圧力は空振りに終ります。そして、国運を賭してアメリカとの全面戦争に踏み切る必要もなくなることになります。

以下、当時の欧米各国の政治情勢を総合して、日本帝国がとり得た「太平洋戦争開戦に至らない石油確保戦略」を考察します。

     2  「ナチス・オランダ政権」樹立

改めて述べるまでもなく、この時期ナチス・ドイツと日本帝国は、イタリアと供に三国同盟を構成する枢軸同盟国です。
そして前述の通り、当時オランダ政府はロンドンに亡命しており、ドイツ占領下のオランダ本国には政府が存在していませんでした。
更に同国には、反共・反ユダヤ主義者を中心にナチス支持層が存在し、擬似ナチス政党『オランダ・ユニオン』には最大時オランダ国民の約15パーセントが加入していました。
この三点に基き、日本帝国政府はまず秘密裡にドイツ政府に働きかけ、オランダ人ナチス支持者による新政権『ナチス・オランダ政府(仮称)』を樹立させ、首都アムステルダムにおいて、アメリカを含む世界各国の報道特派員を招き、公式に発表してもらいます。

【☆ 正確には「ナチス」もしくは「ナチ」という呼称は「National・sozialische(国家社会主義)」をつづめたもので、日本人をJapと呼ぶのと同じ蔑称であるため、ヒトラー支持者が自らをナチスと称することは本来あり得ないことですが、現在ではヒトラーの思想と体制を指す名詞として一般化していますので、それに倣わせていただきます】

当然これはナチス・ドイツの傀儡(かいらい)政権ですが、形の上ではナチス・ドイツの占領は解かれ、オランダは独立と主権を回復したことになります。
同時にこの新政権を、オランダ国家の正統な政府として全枢軸同盟国がただちに承認し、ロンドン亡命政府への承認は取り消します。

当時の枢軸同盟国及びナチス・ドイツの傘下にある国家は、日本帝国、イタリアの他に、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、フィンランド、クロアチア、スロヴァキア。これにドイツが独ソ戦(ナチス・ドイツとソビエト連邦〈現在のロシア〉との戦争。1941年6月22日開戦。この時点ではドイツ軍の一方的優勢で継続中)開始直後にソビエト連邦の実質的併合から「解放」したラトビア、エストニア、リトアニアのバルト三国と、前年6月のフランス降伏によって作られたフランスの親独政府ヴィシー政権(後述)も加えると、計14ヶ国が承認したことになります。

つまり、アメリカ・イギリスに対して、「本国を実効統治する国際的に承認された政権」であると主張することができます。
ちなみに史実において、1942年1月に大西洋憲章を支持する共同宣言に署名したのはアメリカ、イギリス、中国など26ヶ国。ただしこの内には大英帝国を構成するオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、および実質的植民地であるインドが各1ヶ国として数えられ、またハイチ、キューバなどアメリカ・イギリスの強い影響下にある小国も含まれていたことを見れば、枢軸14ヶ国は極少数派とはいえません。

ただし正式名称オランダ王国であり、形式上とはいえ国王が首相を指名する憲法を持ちながら、ヴィルヘルミナ女王以下の王室が亡命政権と供にロンドンに在ることは、いささかナチス・オランダ政権の正統性を損ねますので、これについては、
1、王室の尊重を誓約し、公式に帰国を要請する。
2、逆に王制の廃止と王室の追放を宣言し、オランダを共和国体制とする。
3、ヴィルヘルミナ女王とユリアナ王女を廃位し、ナチス政権に協力的な王室血縁者を国王として即位させる。
以上のいずれかとなりますが、王室を敬愛するオランダ人の国民感情を考慮すれば、1が望ましいことはもちろんです。

これによって王室が亡命政権から離れて帰国するとは考えられませんが、オランダ王国の維持と王室の尊重を内外に示す形式は整えたことになります。
当然のことながら、これらの工作について日本帝国は一切表面には出ません。全てはナチス・ドイツのヨーロッパ支配の政策として、ドイツ外相リッベントロップの主導のもとに行われます。

次いで、政権成立と同時に、「ナチス・オランダ政府」は、日独伊三国同盟に加入し、「同盟国」であるナチス・ドイツと交戦中のイギリスと、それを支援するアメリカに対し、外交関係の断絶を宣言します。
これによってナチス・オランダは、自動的にABCD包囲網からも離脱することになります。

ただしこの時点では、前述の通り東インド諸島はまだロンドン亡命政府が現地駐留のオランダ植民地軍をもって実効支配しているため、日本帝国は石油を得ることはできません。
しかし、ナチス・オランダ政府の三国同盟加入により、日本帝国とナチス・オランダは、相互防衛義務を負う対等な同盟国となっています。
この同盟関係に基き、ナチス・オランダ政府の側から日本帝国政府に対して「ナチス・オランダ領東インド諸島」の防衛と治安維持のため、日本陸海軍部隊の派遣と駐留を求める公式要請を出してもらいます。
これは東インド諸島のすぐ隣りに「敵対国」となったイギリス軍の東南アジアにおける中核基地シンガポールを含むマレー半島があるので、表面的には不自然な要請ではありません。

日本帝国政府はこれを受諾し、ただちに陸海軍の進駐を行うことを発表します。
同時に日本帝国、ナチス・オランダ両国は、この地域におけるオランダ国家の主権を公式に確認した上で、東インド諸島から産出する石油を含む全天然資源(スズ、ゴム、ボーキサイト、マンガンなど、いずれも最重要の戦略資源)を、今後十年間、全て日本帝国に輸出する旨の貿易協定を締結します。【インドネシアの天然資源】
もちろんこれらは秘密協定ではなく、全て公式の軍事、外交、貿易の協定として、堂々と全世界に公表しつつ行います。当然相応の代金がナチス・オランダ側(オランダの石油資本およびそれと合弁するアメリカ石油資本を含む)に支払われることになります。

以上をもって、戦争も侵略もなく、植民地及び資源の強奪もなく、全て「平和的かつ合法的」に、日本帝国が東南アジアにおける最大の油田地帯を自らの管理下に置くために必要な『書面上の手続き』が完了したことになります。

これに対してルーズベルトは当然ナチス・オランダ政権を認めず、フランス領インドシナ進駐時と同じく実質的侵略と非難するでしょうが、すでに在米日本資産の凍結、アメリカ産石油の全面禁輪という最強のカードを切ってしまっているため、それ以上の経済制裁手段がありません。

現在のアメリカであれば、即座に軍事的圧力を掛けてくるでしょうが、1941年のルーズベルトにそれはできません。前述の通り、アメリカ国民のほぼ8割が、他国の戦争に巻き込まれることを拒否していたからです。
この時期におけるアメリカ国民の孤立主義意識の強さと、それに基く参戦拒否感情は、世界の警察官となった現在のアメリカの姿からは想像もできません。

大戦勃発直後の世論調査において、中立を棄てヨーロッパ参戦を支持した国民はわずか2パーセント、翌1940年の大統領選挙では、民主党候補ルーズベルト、対抗馬の共和党候補ウェンデル・ウィルキーともに、公約の第一に掲げたのは「アメリカの若者を他国の戦場に送らない」というものでした。

アメリカ国民のこの参戦拒否は、理念としての平和主義や反戦主義に基くものではありません。
モンロー主義として知られる伝統的孤立主義に加え、第一次世界大戦時にヨーロッパの戦場に二百万人もの若者が送られ、うち五万人が戦死した一方で、戦争特需や投機によって巨利を得た戦争利得者が多数いたことが暴露され、それが一般国民に深い反感を生んでいました。
また、「戦争を終わらせるための戦争」と喧伝され、史上最大の戦禍をもたらした前大戦からわずか20年で再び大戦争を起こしたヨーロッパへの失望や嫌悪もあります。
更に世界恐慌時において、生活に困窮した前大戦の退役兵が、年金の即時払いを求めてワシントンの議事堂前に集結した時、当時のフーバー政権が戦車まで出動させて暴力的に解散させたことなどから、戦争に巻き込まれても一般国民は血を流すだけで退役後の生活も保障されない、という厭戦(えんせん)意識が多くの国民を支配していたこともあります。
そしてこの1941年当時は、ニューディール政策の効果もあり、アメリカ経済と国民生活は一応の安定をみていました。 【ニューディール政策】

これらがあいまって、アメリカ国民は他国の戦争に巻き込まれることを、完全に拒否していたのです。
従ってルーズベルトは、他国の植民地のために自ら日本帝国と軍事衝突を起こすことはできません。

この五ヶ月前の1941年3月、ルーズベルトは武器貸与法を成立させ、イギリス支持、反ナチス・ドイツの立場を改めて明確にした時、「アメリカは民主主義の兵器工場になる」と、高らかに宣言しました。
しかし同時に、「ヨーロッパはファシズムと戦う武器を必要としているのであって、アメリカの参戦までは望んでいない」と付け加えました。
そう言わなければならないほど、アメリカ国民の孤立主義と、参戦拒否は強かったのです。 【武器貸与法】

アメリカ国民の目線に立ってみれば、いかに大統領が高尚な理念を掲げようと、戦争になれば実際に銃をもって戦場に行くのは自分たちである以上それは当然のことです。
アメリカ国民から見れば、日本帝国の東インド諸島進駐は、表面的にはナチス・オランダ政府とロンドン亡命政府の勢力争い、実質的には日本帝国とオランダ亡命政府の植民地争いにすぎず、いずれにしてもアメリカ自身の安全保障に直接係るものではありません。
これにアメリカ軍が介入すれば、この時点における日米両国の緊張状態では日本帝国との全面戦争に発展することが火を見るよりも明らかである以上、仮にルーズベルトが民意を無視して軍事介入を強行すれば、それは完全な公約違反として国民の反発を受け、戦争への協力は得られません。当然、世論に敏感なアメリカ議会も野党共和党も反対するでしょう。

史実において、この8月に下院において採決された、陸軍の拡充に絶対的に必要な「選抜徴兵法」の更新でさえ、与党民主党が圧倒的多数の議席を持っていたにもかかわらず、わずか一票差での可決という厳しいものでした。 【選抜徴兵法】
アメリカ議会の下院は任期2年で全議席が改選され、同時に上院も三分の一議席が改選されるため、よくいえば民意が反映され、悪くいえば大衆迎合になりがちです。それが予見できる以上、ルーズベルトが軍事介入に踏み切ることはありません。
【☆ アメリカの下院議員には、「当選した翌日から次の選挙の心配をしなければならない」という揶揄(やゆ)がある】
(またルーズベルトがアメリカ艦船を故意に日本艦船に接近させて攻撃を誘発し、それを口実に開戦を目論んでいた――とする説がありますが、これに実現性がないことは以下の史実によって明らかです。
この1941年6月から10月の間に、大西洋方面においてイギリスへの支援物資を運ぶ輸送船を護衛していたアメリカ海軍の駆逐艦とドイツのUボートの交戦が数回起こり、アメリカ駆逐艦「ルービン・ジェームズ」が撃沈され、115名の戦死者が出ましたが、ルーズベルトは対独開戦の意向さえ示せませんでした。アメリカ世論も、第一次世界大戦参戦の契機となったルシタニア号撃沈事件ほどの激昂はありません。
アメリカの対ドイツ参戦は、同年12月11日のヒトラーによる宣戦布告を受けてからです。つまり公海上の小規模な軍事衝突をもって全面戦争に踏み切る口実とするのは無理だったのです)【ルシタニア号撃沈事件】

ただしこの「ナチス・オランダ領東インド諸島」進駐において、軍事衝突の可能性はゼロではありません。その相手となるのは、ロンドン亡命政府の指揮下にあるオランダ植民地軍です。

この植民地守備軍は、ジャワ島を中心に約6万5千人の陸軍が各島に分散して配置され、海軍は巡洋艦数隻を主力とする小規模な艦隊が駐留していました。このオランダ植民地軍の抵抗を未然に封じるためにも、日本帝国は空母を含む連合艦隊主力艦および陸戦部隊の出動が必要となります。
もちろん武力制圧が目的ではありません。古典的な「砲艦外交」の言葉通り、無血開城を求める威嚇のためです。

史実を見れば、武力制圧は困難ではありません。1942年2月中旬にこの地域に侵攻した日本陸海軍は、約1ヶ月でほぼ全域を制圧しています。
また、ナチス・オランダ政府から公式の要請を受けているため、戦闘になっても「反乱軍の鎮圧」という名目が立ち、「日本帝国対オランダの国家間戦争」にはなりません。
しかしアメリカ世論を硬化させないため、また植民地軍による油田の自己破壊を防ぐためにも、武力行使は極力避けなければなりません。
従って、威圧と交渉のみで、植民地軍及びロンドン亡命政府に無血開城を受け入れさせる必要があります。

ここで何よりも重要なポイントは、この時点において日本帝国はアメリカ、イギリス、オランダのいずれとも戦争状態ではないということです。
史実においては、真珠湾攻撃後イギリス・オランダにも宣戦布告が行われ、オランダ植民地軍は日本陸海軍の侵攻に対し、小戦力ながらもアメリカ・イギリス軍と供に勇戦しますが、日本帝国がいずれの国とも開戦していなければ、アメリカ・イギリスからの支援はありません。
スマトラ島の隣りにはイギリス軍の基地がありますが、この時点ではエルヴィン・ロンメル将軍麾下のドイツ軍と激戦中の北アフリカに戦力の大半が回され、アジア方面の戦力は僅かです。
【☆ 北アフリカ戦線――イギリスの地中海における最重要植民地エジプトをめぐるイギリス対ドイツの戦闘は1941年2月に始まり、この8月時点では重要港湾都市ベンガジを占領したドイツ軍の優勢で進行中。イギリス軍は戦力の補充に追われていました】

この時期のイギリス軍における植民地防衛はインド・エジプトが優先され、東南アジアにまで十分な兵力を回す余裕はなかったのです。
従ってこの当時のイギリスは、日本軍によるアジア植民地への侵攻を恐れている状態でした。
いかに好戦的なイギリス首相ウィンストン・チャーチルといえども、大英帝国のアジアにおける最重要拠点シンガポールへの日本軍の侵攻を、自ら招く愚は犯せません。

史実においてチャーチルは、フランスがドイツに敗北し、イギリス軍がダンケルクから本国に撤収した後、日本帝国を刺激しないため、援蔣(えんしょう)ルート(日本軍の中国侵略に抵抗する蔣介石に送られたアメリカ・イギリスからの援助物資輸送ルート。イギリス植民地ビルマを通して行われていた)を一時的に封鎖したこともありました。

一方フィリピンに在るアメリカ海軍も、前述の政治的理由で自ら介入はできません。オランダ植民地軍は、完全に孤立無援です。

この無血開城交渉のため、予めナチス・オランダ政府の国防大臣と、同政権が任名した植民地総督を代表とする交渉使節団を日本に招き、進駐する連合艦隊に同行させておきます。
この進駐はあくまでも「オランダ」の要請であることを明確にすると同時に、交渉はロンドン亡命政府とナチス・オランダ政府との問題、つまりオランダ国家の国内問題であることを内外に示すためでもあります。当然ロンドンに対しても、本国のナチス・オランダ政府が中立国などの外交ルートを通して、同様の交渉を申し入れることになります。
もちろんこの交渉は、ありていに言えば「植民地軍が抵抗すれば、日本軍が強行上陸して全滅させるぞ」という恫喝以外の何ものでもありません。

この武力を背景として、ナチス・オランダ交渉団が以下の要求をすることになります。
1、オランダ本国を統治する「正統な政権」として、植民地軍司令官及び司令部に対し、ロンドン亡命政府からの離脱と、ナチス・オランダ政府への帰順を命じる。
司令官がこれに応じれば、最も都合よく納ります。
史実においては、この前年、1940年6月25日にフランスがドイツに降伏し、フィリップ・ペタン元帥を首班とする親独政府(通称ヴィシー政権。降伏後パリを含むフランス北部は休戦協定によりドイツ軍の占領下に置かれ、フランス政府はボルドー地方のヴィシー市に移転したためこう通称された)が成立した時、ロンドンに脱出したシャルル・ド・ゴール将軍など一部の軍人が離反した一方で、海軍軍令部長フランソワ・ダルラン提督など多くの軍人がヴィシー政府に属しました。
これによりフランス軍は、海軍など大半がヴィシー政権に帰属し、ダンケルクからイギリスに撤収した一部の陸軍部隊がド・ゴールのもとに自由フランス軍となる分裂状態となります。(本国のフランス陸軍は降伏後武装解除された)
そしてダルラン提督は海軍大臣に就任、ヴィシー政府軍は後に北アフリカのモロッコ(当時フランス植民地。ヴィシー政権に帰属)でアメリカ軍と戦います。またフランス植民地インドシナはヴィシー政権に帰属しました。
(一方ニューカレドニア等オセアニア植民地はド・ゴール側に付いたが、現地の役人は本国〈ヴィシー政権〉の指示に従いがちだったとされる〈クリストファー・ソーン著「米英にとっての太平洋戦争(草思社刊)」上巻107ページ参照〉)【クリストファー・ソーン】
ただしこれらは、ヴィシー政権がフランスにとっては屈辱的なドイツ追従政府であっても、法的には正式に前ポール・レイノー内閣を継承した正統な政権であったことによります。
従って、この考察において政府亡命の空白に作られたナチス・オランダ政権に、自動的に同じことが起こるとは限りません。
オランダ植民地軍司令官がいかなる判断をするかは個人的な信条や性格によるため断定は控えますが、ペタンやダルラン同様この情勢の中では要求に従うのもやむなしとの判断をすれば、植民地軍はそのままナチス・オランダ政府の指揮下に入るため、無害なものになります。

2、逆に、あくまでも帰順要求を否定し、亡命政府からの離脱を拒否した場合は、
A、植民地軍の解隊を命じ、陸軍の武装解除と海軍の艦艇引き渡しを行った後、兵員は隣りのイギリス領マレー半島に退去させる。または、
B、武装解除は命じず、単に全軍をマレー半島に「撤退」させる。
という要求をすることになります。
オランダ植民地軍にとっては、全面戦争中であれば敵に石油を渡さないことは油田を自ら破壊してでも果たすべき義務となりますが、この場合は自国の二つの政府の政争であると同時に、イギリス、アメリカの支援なしでは、油田を防衛できる可能性は全くありません。また、自ら油田を破壊すれば、日本軍の報復を覚悟しなければなりません。
【☆ 史実においては、武力侵攻時に油田の自己破壊が行われることを想定し、日本国内の石油会社が持つ油井掘削機の転用が計画され、採掘技術者の徴用が行われました(当時日本領の樺太、および新潟県には微量ながら石油が産出した)。
1942年2月の侵攻時には、空挺部隊を用いた奇襲攻撃などにより、パレンバンなどの主要油田は大きな損傷なく確保されましたが、仮に自己破壊が行われていても、ある程度の復旧対策は立てられていたとされます】

同時にこの状況は、植民地軍司令官に、難しい政治的判断を強いるものでもあります。
この時期のヨーロッパは、ナチス・ドイツの全盛期であり、オランダ本国にロンドン亡命政府が帰還できる見込みは全く立っていません。
ヨーロッパはイギリスとソ連、そしていくつかの中立国を除き全てがドイツの支配下にあり、これが覆される兆しは全くありません。
この情勢下で、4年後のナチス・ドイツ滅亡を予測することは、神以外には不可能です。

またこの時点では、ルーズベルトは武器援助はしても参戦の意向は全く示しておらず、独ソ戦もドイツ軍の圧倒的優勢で進行しています。
独ソ戦がドイツ軍の不利に傾くのは、同年12月におけるモスクワ攻防戦の敗退以後であり、それまではドイツ敗北の兆しは全く見られていません。
従って、このままナチス・ドイツの天下が続きナチス・オランダが本当に正統な政権となった場合、その命令に反する行動をとっていれば、自分が国家への反逆者とされることになります。
史実では、ロンドンに脱出しラジオ放送でドイツへのレジスタンスを呼びかけたド・ゴールに対して、ヴィシー政権は反逆者として死刑宣告を出しています。
(また逆にドイツ敗北後、ヴィシー政権の高官がド・ゴールによって反逆者として処刑されています)

当然植民地軍司令官はロンドン亡命政府に指示を仰ぐでしょうが、亡命政府が本国退去時にレジスタンス指令を出さなかったことをみても、全滅必至の抗戦を命じるとは考えにくいですし、亡命政府にはそのメリットもありません。もともと対日石油禁輸は、オランダの国益とはほとんど関係のないものです。

史実では有無を言わさず日本軍の侵攻が行われたため勝算のない抗戦をしましたが、そうでなければ自滅的な抵抗をする意味はありません。
仮にルーズベルトやチャーチルが武力抵抗を使嗾(しそう)したとしても、亡命政府としてはアメリカ軍の即時介入が確約されない限り受け入れることはできませんし、この時点ではアメリカの国内政治条件がそれを許さないことは外目にも明白である以上、応じることはできません。

史実における日本軍による東南アジア地域の制圧は、フィリピン、イギリス領を含むボルネオ島、マレー半島、東インド諸島のほぼ全域に及びましたが、この場合はアメリカ・イギリスとは事をかまえませんので、日本艦隊主力艦はオランダ植民地軍司令部が置かれたジャワ島沖に展開し、その巨砲をもって植民地軍と総督府を威圧することになります。

この時点での大艦巨砲主義はまだ時代遅れのものではありません。
巨大戦艦に対する航空機の優越が実証されるのは、この年の12月の日本海軍航空隊によるイギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよび巡洋戦艦レパルスの撃沈(マレー沖海戦)によるもので、この8月時点での各国軍人の認識においては、海軍の主力はあくまでも戦艦です。

【☆ 戦艦に対する航空機の優越―――この前年1940年11月に、イタリアのタラント軍港において、イギリス軍のソードフィッシュ雷撃機が、イタリア戦艦三隻を撃沈する戦果を挙げているが、これは真珠湾攻撃と同じく戦闘状態にない停泊中の奇襲攻撃であり、作戦行動中の戦艦を撃沈したのは、マレー沖海戦が初となる】

当時世界最大級の戦艦長門を中心とした日本海軍とオランダ植民地軍との絶大な戦力差は植民地軍司令官の眼に一目瞭然であり、前述の政治条件がある以上、威圧と交渉による無血開城は可能でしょう。 
【☆ 戦艦大和はこの時点ではまだ就役していない】
ナチス・オランダ交渉団から、植民地軍が油田の自己破壊を行わないことを条件に安全を保証し、武装解除を求めずマレー半島への撤退を促せば、内心安堵してそれに応じるでしょう。
これによって、油田と製油施設は無傷で日本帝国の実質的管理下に置かれ、ただちに日本本土への石油輸送が開始できることになります。

以上ここまでの展開で、そんなにうまく事が運べば苦労はない、ご都合主義のバカバカしい空論に過ぎない、という反論が出ると思いますので、再度史実と考察の想定を整理、確認させていただきます。

まずこの東南アジア地域で日本帝国と軍事衝突が起こる可能性がある相手は、
1、東インド諸島を領有するオランダ(ロンドン亡命政府)
2、隣りのマレー半島(シンガポールを含む)及びボルネオ島北部を領有するイギリス(イギリス連邦を構成するオーストラリア、ニュージーランドを含む)
3、フィリピンを事実上支配下に置き、この地域で最大の軍事力を有するアメリカ。
以上の3ヶ国です。

しかし1のオランダ亡命政府は、
A、東インド諸島に駐留する植民地軍の戦力では日本軍を撃退できず、全滅は必至である。
B、もともと対日石油禁輪はオランダの国益に直接関係するものではなく、日本帝国の東南アジア進出を防ぐという点においては、日本軍が東インド諸島に現れた時点で、オランダ亡命政府にとっては失敗となっている。
この上成算のない戦闘を行って貴重な軍事力を失う上に油田地帯を荒廃させるのは意味がない。
C、日本帝国は、ナチス・オランダ政権と貿易、進駐協定を結ぶに当り東インド諸島の主権がオランダにあることを確認している。
従って、政権がナチス・オランダであれ亡命政府であれ、オランダ国家から植民地が強奪されるわけではない、という判断がはたらく。
(フランス政府は日本帝国のインドシナ進駐要求を受諾するにあたり、同様の判断をしています)
D、オランダ植民地軍司令官および司令部要員としては、ナチス・オランダが永続してロンドン亡命政府が形骸化してしまった場合、武力抵抗をしていれば自分が反逆者とされるため、できれば戦闘を避けたい、との思惑がはたらく。
E、史実においては、オランダ人にも極右主義者を中心に親ナチス的な思想を持つ者は少なくなく、擬似ナチス政党オランダ・ユニオンには、最大時オランダ国民の15パーセントが加入していた。また、オランダ本国では後に2万5千人がドイツ軍に志願入隊している。
従って植民地軍司令官がナチス・オランダ政府への帰順を拒否したとしても、単純計算でいえば、現地人兵士を除くオランダ人植民地軍将兵の15パーセント以上(以上を付けたのは、一般論的に軍人には、反戦主義者や社会主義者なども含む一般市民より、右寄りの志向を持つ者の比率が高くなるため)が、ナチス・オランダへの帰順を求め、史実におけるフランス軍と同様に、オランダ植民地軍が分裂する可能性がある。
また、この内部分裂への危惧が、亡命政府と植民地軍司令官に武力抵抗を躊躇わせる要因となる。
以上の理由により、自ら武力抵抗を行う可能性は非常に低い。(A・Bは史実に基く理由、C・D・Eは、この考察における「ナチス・オランダ政府樹立」によって生じる理由。)

2のイギリスは、
A、この時点のイギリス軍は、エジプト防衛のため北アフリカにおいてロンメルのドイツ・アフリカ軍団との激闘の最中であり、東南アジアに戦力を割く余裕はない。
オーストラリア軍も主力部隊は北アフリカに送られ、本国には二線級の部隊しかいない。
B、日本軍と軍事衝突を起こせば、香港、シンガポールを含む自国のアジア植民地が危険にさらされる。

【☆ 史実においては独英戦開始後、チャーチルは日本帝国の要求に屈して、1940年7月から10月まで、自ら援蔣ルートを閉鎖するほど、アジア植民地に対する日本軍の侵攻を危惧していた。
(また、以下はこの時点での公開情報ではないが、前掲書「米英にとっての太平洋戦争」によれば、1941年7月時点でチャーチルとイギリス海軍軍令部長は、東インド諸島に日本軍の侵攻があっても救援できない旨の見解で一致していたとされる)】

C、アメリカ軍の支援がなければ勝ち目はない。
以上の理由で、イギリスも動けません。(A・B・C全て史実に基く理由)
もともとオランダ、イギリスの両国は、本国をドイツに占領又は圧迫されており、アメリカの参戦は大歓迎でも、自分たちだけではこの上日本帝国と事を構えたくないのです。

そして3のアメリカは、ルーズベルト自身は参戦を望んでいても、
A、アメリカ国民の根強い孤立主義感情によって参戦は拒否されており、ルーズベルト自身も1940年の大統領選挙において、「アメリカの若者を他国の戦場に送らない」という公約のもとに当選している以上、アメリカのテリトリー(この場合はフィリピン)が攻撃されない限り、軍事介入することはできない。仮にオランダ植民地軍又はイギリス軍が日本軍と交戦状態に入ったとしても同じである。
(この1941年5月のギャラップ世論調査では、ヨーロッパへの参戦拒否が79パーセントを占めていた。アジアへの参戦拒否が、これを下回ることはありえない)
B、もし軍事介入を強行すれば、ルーズベルトは国民の信頼と支持を失い、翌年の議会選挙で与党民主党は大敗し、戦争遂行が困難になることは確実である。
(史実においては日本帝国の真珠湾攻撃によって、対日戦は全アメリカ国民にとっての「祖国防衛戦争」となったが、この場合はアメリカからの介入戦争となるため、アメリカ国民が戦争遂行に一丸となることはあり得ない)
以上の理由により、アメリカも自ら軍事介入はできません。(A・Bともに史実に基く理由)
また、もともとこの経済封鎖が、日本帝国のアメリカに対する先制攻撃を誘発するためのものであるなら、アメリカが自ら軍事介入を行うことは、その失敗を意味します。

逆に言えば、この3ヶ国との軍事衝突が起こるとすれば、
1、オランダ亡命政府が、全く勝算もメリットもないにもかかわらず、全滅必至の武力抵抗を命じ、植民地軍司令官が、部下の生命を顧みずそれに盲従する。
2、イギリスが、自らの植民地が日本軍に攻撃されることを顧みず、かつまともな戦力がないにもかかわらず、オランダ植民地軍を支援する。
3、ルーズベルトが自らの政治的信頼性を失うことを承知の上で、なおかつこの軍事介入が日本帝国との全面戦争に発展した場合、国民および議会の完全な支持と協力が得られないことを覚悟の上で介入を強行する。
という、現実的にはおよそあり得ない条件が重なった場合のみということになります。

なお、アメリカ、イギリスが軍事介入できないならば、ナチス・オランダ政権樹立などという面倒な外交工作などせずとも、オランダ亡命政府にのみ宣戦して、東インド諸島を軍事占領してしまえばよいではないか、との反論が出るかもしれませんが、その場合は当然オランダ一国とは戦争になります。

オランダ海軍は小規模で日本海軍の敵ではありませんが、当時の海軍の常識として、潜水艦という厄介ものを保有しています。
これに東インド諸島から日本本土へ石油を運ぶ長大なシーレーンを攻撃されれば、タンカーに少なからぬ損害が出ることは避けられません。すでに大西洋方面ではドイツ潜水艦Uボートがイギリスのシーレーンに深刻な打撃を与えており、それはドイツの宣伝映画などで世界中に伝えられていたため、同様の事態が起こることは当然予見できます。
【☆ 史実においては、日本軍侵攻時に陸軍上陸部隊の輸送船が数隻オランダ潜水艦に撃沈されています】
また、アメリカ・イギリスが、この通商破壊作戦を陰から支援することは確実です。
この時アメリカはまだ中立国ですが、大西洋方面では国際法上の中立規定に違反して、ドイツのUボートと交戦したイギリス艦船の修理などをアメリカの港湾において秘かに行っていました。また、アメリカ艦船が知り得たドイツ艦船の位置情報をイギリス軍に提供してもいます。
これらをみれば、フィリピン海軍基地においてオランダ潜水艦に様々な便宜を図ることは確実といえます。それは当然日本軍部内の対米強硬派を刺激して対米開戦論を更に強め、抑えることができなくなります。
従って、対米開戦を回避するという基本方針に立つならば、オランダ一国であっても戦争状態となることは絶対に避ける必要があります。

ただし、ルーズベルトによって対日経済封鎖網が形成された時、軍事的に弱体なオランダとイギリスの植民地油田地帯に対して日本帝国が軍を進める可能性は当然予測されたはずです。
従って、アメリカが秘密裡にこの2国に対して何らかの軍事的保証を与えていた可能性は絶無とはいえません。

いわゆる『ABCD包囲網』という言葉は、当時の日本国内の新聞の造語とされており、ルーズベルトがイギリス・中国・オランダと供に公式の協定によって日本帝国に対する経済封鎖網を構築したものではありませんが、この当事者のひとりであるチャーチルの回顧録には、日本軍のフランス領インドシナ進駐に対する対日経済封鎖へのイギリス・オランダの参加過程は、以下のようにごく短く記述されています。
「――合衆国におけるすべての資産(在米日本資産)を凍結させるという行政命令が出された。これによってすべての貿易が停滞した。イギリスも同時に行動をとり、二日後にはオランダがこれにならった。オランダの加盟によって、日本は絶対に必要な石油の供給を一気に絶たれることになった」(ウィンストン・チャーチル著「第二次世界大戦」 第3巻 35ページ 河出文庫刊)

これを文字通りに読むと、イギリス、オランダの両国は自主的にルーズベルトの経済制裁に同調したように見えますが、前述の通り両国ともナチス・ドイツによって本国が危機または完全占領されている状態であり、とてもアメリカの「警察官的行動」に自ら進んで参加できる状況ではありません。従って、少なくてもこの「ABD包囲綱」は、ルーズベルトの強い働きかけによって形成されたと考えるのが自然です。
そして当時の日本帝国は軍事力の行使をためらわない国であると認識されていた以上、両国がアメリカに軍事的保証を求めても当然といえます。

しかしその場合、ルーズベルトはこの秘密保証と国内世論との板挟みとなり、自国民かオランダ・イギリス両国かのどちらかを裏切らざるを得ません。
オランダ・イギリスを裏切った場合は、この考察のままの展開となります。自国民を裏切って軍事介入を強行した場合は、当然日本海軍はこれに反撃し、史実とは逆にアメリカからの軍事介入というかたちで太平洋戦争が勃発します。
この場合はすでに述べたアメリカの国内の政治状況によって、アメリカ世論にルーズベルトへの反発と厭戦感情が高まり、太平洋戦争は史実とは異なる結末を迎えていたかもしれません。
ルーズベルトがどちらを選択するかの断定はできませんが、自国民を裏切って介入を強行した場合は、太平洋戦争の回避をテーマとするこの考察は、上記の結末をもって失敗に終ります。

しかし対日石油禁輪に関する定説と、筆者が参考とした文献の中に、史実においてこのような密約がなされたとの記載はありません。
前掲書「米英にとっての太平洋戦争」によれば、ルーズベルトが初めて駐米イギリス大使ハリファックスに対して、日本帝国によるオランダ領植民地への攻撃があればアメリカが介入するとの言質を与えたのは、「ハル・ノート」の提出によって日米交渉が行き詰まった後の1941年12月3日とされています。
従って、この8月時点においては、オランダ・イギリスへの秘密保証はなかった、あるいは、仮に未だ歴史の表面に出ていない密約があったとしても、ルーズベルトは内政上自国民を裏切れず、また前述の通りそのリスクの高さと成算の低さゆえ介入を実行しなかったものとして、考察を進行させていただきます。

次の問題となるのは、東インド諸島で獲得した石油を日本本土へと輸送するシーレーンの防衛です。これこそが当時の日本帝国にとって、油田地帯の占領よりはるかに大きな難題でした。

この全長5千キロに達する長大なシーレーンは、北西をイギリス領マレー半島、北東をアメリカ植民地フィリピンに挟まれ、両国とも海軍基地を置いているため、軍事的には簡単に遮断されます。
史実において日本軍は、このシーレーンへの攻撃を防ぐ意味も含めてシンガポール及びフィリピンを制圧したにもかかわらず、アメリカ潜水艦によって石油およびボーキサイト・スズなど鉱物資源の輸送船を片端から撃沈され、戦争継続能力を失います。

しかし、戦争を起こしていなければ、アメリカ・イギリス両国とも表立って軍事的妨害はできません。
もちろん方法論としては、臨検などを口実にした航行の妨害や、秘かに小型艦船や潜水艦を用いた輸送船の撃沈はできます。
大戦中の史実が示す通り、日本海軍は頑迷な艦隊決戦主義、作戦中心主義をとっており、南方資源地帯からの輸送船がどれだけアメリカ潜水艦に撃沈されても、最後まで船団護送に本腰を入れませんでした。
従って、この時点でもシーレーンが無防備だった場合、アメリカ海軍による輸送船への不法な攻撃もしくは航行の妨害は、すでに半ば軍部に支配されている日本帝国の暴発を招くに十分な挑発となり得ます。
ちなみにアメリカには、真珠湾攻撃の数ヶ月前、日本帝国と交戦状態にある蔣介石にB17爆撃機を供与し、九州を攻撃させる計画があったとの説があります。これも実質的な損害を与えるより、軍部の暴発を招くことが目的でしょう。 【B17フライング・フォートレス】
しかし戦略爆撃機まで供与しては、アメリカの実質的な軍事介入もしくは軍事的挑発であることは誰の目にも明らかですので、史実が示す通り、ルーズベルトはこれを実行しませんでした。これもやはり、参戦拒否の世論を考えればむしろ当然といえます。

従って、仮に秘密裡にシーレーンを攻撃するプランが海軍または対日強硬派から出されても、ルーズベルトがそれを承認することはできません。
当時であってもアメリカには政府の統制を受けないジャーナリズムがあり、事あれば特派員が飛んで行きます。
特にアメリカの新聞は支持政党が明確で、極めて党派色が強く、対立陣営に対して攻撃的であり、民主党大統領の失点や公約違反は、共和党系や孤立主義の新聞が大々的に取り上げて批判することになります。

ルーズベルトが民意に反した軍事挑発を行えば、それは即座に報道され、国民の非難を浴びることはわかりきっていますし、共和党も野党の党利党略上必ずそれに同調します。もともと共和党は、第一次世界大戦後民主党のウッドロー・ウィルソン大統領の提唱によって設立された国際連盟へのアメリカの加入を潰した孤立主義の牙城でもあります。
もちろん孤立主義者は民主党内にも多く存在しています。
【☆ この時期の共和党は、東部エリート層に占められた指導部はルーズベルトに近い国際派であったが、選挙戦のカギとなる地方組織は中西部を中心に孤立派が多数を占めており、指導部に強い不満を持っていたとされる】

更にこの考察においては、「ナチス・オランダ植民地」からの石油獲得によって必然的に生じる日本帝国の国策の変化によって、日本海軍はシーレーンの防衛をせざるを得ないことになります。
この国策の変化がいかなるものであるかは、次章において述べることとさせていただきます。
一方イギリスに対しては、イギリスがシーレーンを妨害しなければ、日本側も香港およびシンガポールを攻撃しない、という暗黙の合意が成立します。
以上の理由により、アメリカ、イギリス、オランダと開戦しない限り、「南方油田」で産出された石油は損われることなく日本本土に送られ、陸海軍が危惧した軍用石油備蓄の枯渇は解消されます。
そして陸海軍強硬派は早期開戦の口実も必然性も失い、彼らによってこの時継続中の日米交渉に打ち切りのタイムリミットが付けられることもありません。
つまり、ルーズベルトの仕掛けた罠――ABCD包囲網はその実効性を失い、完全な失敗となります。

そしてこの失敗は、強硬に対日圧力を掛け続けてきたルーズベルトに、少なからぬ政治的打撃を与えます。
改めて述べるまでもなく、アメリカは資本主義国家です。日本帝国が禁輸措置発動以前に石油の国内消費の大半をアメリカに依存していたということは、アメリカの石油業界にとって、日本帝国は膨大な利益をもたらす重要な顧客だったということです。
その「お得意様」が、フランス領インドシナへの進駐という、アメリカの国益や安全保障とは直接関係していないことに対する経済制裁のために失われた、それも制裁解除までの一時的なものでなく、制裁によって日本帝国が別の供給先を「開拓」してしまったために、半永久的に失われた――となれば、アメリカ石油業界はルーズベルトに対して怒り心頭になるでしょう。
それでなくてもルーズベルトは、交戦国への武器輸出を禁じた自国の中立法を踏み越えて、ドイツと戦争中のイギリスを支援しており、これは大西洋横断飛行の国民的英雄チャールズ・リンドバーグを代表とする「アメリカ・ファースト」などの孤立主義団体から強い批判を受けていました。
【☆ この孤立主義団体とは、2012年ごろにバラク・オバマ政権の健康保険改革に反対して全米に拡がった「ティー・パーティー運動」に類似した市民運動的政治団体。
他国の戦争に干渉して犠牲を払うことを否定し、アメリカ人の利益を第一に考えることを要求しました。当時のアメリカ世論においては、この考え方のほうが一般的といえます】

その上に、蔣介石に入れ込みすぎて「危険な軍事国家」である日本帝国を必要以上に刺激して戦争に巻き込まれる危機を招き、アメリカの経済的利益まで損ねている、との非難が加わることになります。
蔣介石は夫人である宋(そう)美(び)齢(れい)の一族を通してアメリカ政界に強力なロビー活動を行っていたとされますが、それは物資援助や日本帝国への外交圧力は引き出せても、アメリカ国民の8割が反対する参戦を引き出すことは不可能です。

当時のアメリカ世論は、日本軍部の中国侵略と重慶(この時点での国民党政権の仮首都)に対する無差別爆撃の惨禍がライフ誌などで広く報道されていたため反日感情が激化しており、アメリカ国民の60パーセント以上が中国支援に賛成していましたが、当然のことながらそれは資金・物資の支援であり、軍事介入を肯定するものではありません。
【☆ 宋一族―――当時の中国富裕層の代表的財閥一族。
その子弟は欧米で教育を受けたキリスト教徒であり、海外に強い人脈を持っていた。宋美齢の姉・慶齢は中華民国初代大総統・孫文の夫人、兄・子文は国民党政権の外交部長】【重慶爆撃】

翌1942年は、アメリカ議会の中間選挙の年です。参戦を拒否する圧倒的民意に反してアジアとヨーロッパへの関与を強めるルーズベルトへの批判は与党民主党を直撃し、民主党議員の得票を大きく減らすことは明らかです。大きな集票力を持つ孤立主義団体の支持も、石油業界を含め日本帝国との貿易関係の断絶で利益が減少する経済界からの政治献金も野党共和党に流れれば、民主党の大敗は必至となります。
落選を怖れる大多数の民主党議員に外交政策の変更を迫られれば、ルーズベルトも日本帝国との対立をエスカレートさせる政策を修正せざるを得ません。

また、ルーズベルトの武器援助に肯定的な共和党内の国際派も党内で多数を占める孤立派の批判に晒されて発言力が低下し、アメリカ議会内が孤立主義一色になりかねません。
更に前述の通り石油禁輸という最強の経済制裁カードが失われているため、ルーズベルトは日米交渉で強硬姿勢がとれず、それゆえ史実において日本帝国に対米開戦を最終的に決意させた「ハル・ノート」が提出されることもありません。

一方日本帝国側においても、東インド諸島からの石油獲得によって軍部の早期開戦論が下火になっているため、日米交渉は日本帝国政府にとって有利な状態の中で継続されることになります。
(従って近衛内閣は退陣することなく継続し、東条内閣成立もありません)

この結果、真珠湾攻撃はいったん延期となり、アメリカにとっては自らの理念と経済権益に反する日本帝国の中国侵略、日本帝国にとっては、自らの勢力圏確立を妨害するアメリカに対する軍部と国民の感情的反発という危険な火種は残しながらも、12月8日の太平洋戦争勃発は回避されることになります。

以上の通り、とりあえずは理想的な結果が出るかに見える「ナチス・オランダ政権樹立計画」ですが、実はこの計画には初期段階で大きな難題があります。

オランダ人極右主義者による政権樹立と、全枢軸同盟国によるその承認という政治・外交工作の担い手となるのは、必然的にオランダ全土を占領下に納め、極右主義者を動かす影響力を持つナチス・ドイツしかあり得ません。
しかし1941年8月のまさにこの時、ナチス・ドイツは国家と民族の存亡を懸けて、ソビエト・ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦、略称ソ連)との全面戦争の只中にありました。
同年6月22日に発動された「バルバロッサ作戦」です。

ドイツ軍は、3千500両の戦車、3千機の航空機、総兵力300万をもって電撃的に侵攻し、国境近くに配備されていたソ連軍160個師団は数週間たらずで壊滅。この8月時点で、既にドイツ軍はベラルーシの首都ミンスクを陥とし、モスクワまで400キロのスモレンスク市まで突進していました。
アドルフ・ヒトラーも参謀本部も、この戦いの行方に全神経を集中させていたのです。
一瞬たりとも戦況から眼が離せないといってもいい全面戦争の只中において、ドイツには何のメリットもない日本帝国のためだけの工作を、ただ枢軸同盟国であるという理由で何の交換条件もなく引き受けてくれることはありえません。

この前年、ドイツは対イギリス戦を有利にするため、日本軍によるシンガポール攻撃を要請しましたが、日本帝国政府はそれを受け入れませんでした。
ギブ・アンド・テイクは外交の鉄則ですから、ナチス・ドイツにメリットのある交換条件が必要となります。
ただし、このシンガポール攻撃を今行う、というのは論外です。
対英開戦は、イギリス海軍に自ら東インド諸島からのシーレーンへの攻撃許可を出すのと同じです。マレー半島と北ボルネオのイギリス軍基地を制圧しても、オーストラリアから潜水艦を出されたら、タンカーに損害が出るのは避けられません。
従ってシンガポール攻撃は、交換条件にできません。

その東インド諸島から得られる石油をドイツにも分配する、という案は一見有効に見えますが実現性はありません。
確かにドイツにとっても石油は喉から手が出るほど必要な戦略資源です。しかしドイツがすでにイギリスと正式な戦争状態にある以上、東インド諸島からドイツまでの長大な海上輸送ルート(スマトラ島からアフリカ南端の喜望峰を回って北上し、大西洋に面したドイツ占領下のフランスの港に至る)は、イギリス海軍に簡単に遮断されます。

ドイツ海軍は、第一次世界大戦時にはイギリス海軍に次ぐ巨大な艦隊を有していましたが、第二次世界大戦における主要交戦国の中では最も弱体で、ビスマルク級戦艦二隻以外に強力な水上艦はなく、船団護送に必要な巡洋艦や駆逐艦は、イギリス海軍の十分の一もありません。
【☆ この時点では、ビスマルクは既にイギリス海軍によって撃沈されており、残る同型艦ティルピッツは北極海で通商破壊任務に就いていました】
第一次世界大戦の敗北によって課せられたベルサイユ条約の厳しい軍備制限を破棄して以後、ドイツ軍の再建は陸軍と空軍が優先され、海軍はUボートを中心とした通商破壊作戦に特化した小規模なものに留めざるを得なかったのです。
唯一イギリス海軍を出し抜けるのはそのUボートですが、排水量わずか857トンの潜水艦にタンカーの代用が務まるはずもありませんし、その数も、本来の通商破壊作戦を遂行するのにギリギリの数しかありません。
日本のタンカーを使うにしても、交戦国に戦略物資を運ぶのですから国際法上イギリス海軍に拿捕されても文句は言えませんし、他国に貸せるほど多くのタンカーを保有しているわけでもありません。
つまり石油をドイツまで届ける手段が全くない以上、石油の分配は交換条件になりえません。

では他に何があるのか。
自国の存亡を懸けた激戦の中にあるナチス・ドイツが、日本帝国の要請を断ることができないほどの魅力を持った交換条件―――それは唯ひとつしかありません。
日本帝国による、独ソ戦への参戦です。

     3  太平洋戦争回避の代価

史実においては、独ソ戦開始直後の6月28日、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップは駐日ドイツ大使オイゲン・オットを通して当時の外相松岡洋右に公式の参戦要請を行っています。

具体的には、日本陸軍が駐留する満州から極東シベリアへの攻撃で、ソ連に東西二正面戦争を強いることにより、戦力を二分割せざるを得なくするためです。ドイツ大使館の駐在陸海軍武官も、日本軍部に対して繰り返し参戦の働きかけを行っていました。
これは、日独伊三国同盟は軍事同盟ではあっても、加盟国が他国から攻撃をうけた場合の共同防衛を約した純然たる防衛同盟であり、加盟国から戦争を仕掛けた場合の参戦義務はなかったからです。史実においては、日本帝国は結局この参戦要請を受け入れませんでした。

その理由はよく知られる通り、艦船の燃料として大量の石油を必要とする海軍が、その獲得のため東南アジアの油田地帯の占領を要求しており、陸軍もまた航空燃料の備蓄減少を危惧して、この「南進論」に同調していたことによります。
 
陸軍内には、満州駐留軍(陸軍での名称は「関東軍」)を中心に、最大の仮想敵国であるソ連がドイツに攻め込まれている今こそ北方の脅威を除去するチャンスであるとする「北進論」もありましたが、北方には必要とされる資源がなかったこと(この時点では、シベリアの地下資源の大半は未開発)、また2年前に勃発したソ連との国境紛争「ノモンハン事件」における惨敗のトラウマもあり、その声は必ずしも大きくなりませんでした。    【ノモンハン事件】

そのため政府大本営は石油獲得を優先した南進論を採り、北進については、ドイツ軍の更なる侵攻によって、ソ連軍が壊滅状態に陥った時、もしくは極東に配備されたソ連軍がヨーロッパ方面に移送されて関東軍の三分の一に減少した時に参戦する――という、ドイツにとっては全く助けにならない決定を下していたのです。

そして7月16日、日ソ中立条約を結んだ張本人でありながら対ソ強硬論の急先鋒となっていた外相松岡洋右(ようすけ)が事実上の更迭をされるに至り、独ソ戦参戦は実現性を失っていました。
この時東京で諜報活動を行っていたソ連軍情報部のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、本国に「日本の対ソ参戦は論外となった」と打電しています。 【リヒャルト・ゾルゲ】

一方、ドイツ軍のソ連侵攻における進撃は、日本帝国への参戦要請が不要であったかのように凄まじく、開戦後三週間にしてソ連領内に600キロも侵入し、戦車3千500両、航空機6千機以上を撃破、兵士約200万人を戦死もしくは捕虜とする空前の大戦果を挙げ、更に首都モスクワへと東進を続けていました。
しかし、早くも7月の半ばには、前線に在る指揮官の間には、先行きへの不安が生まれていました。

それは予想を上回るソ連軍兵士の頑強な抵抗と、ドイツ軍戦車を大きく凌ぐ性能を持つソ連軍新型戦車T34の出現によるものです。
【☆ T34の主砲がドイツ軍戦車を一キロ先から撃破できる威力を持つのに対し、ドイツ軍戦車の主砲では、トーチカ破壊用の特殊砲弾を使わない限り、100メートルまで肉薄しなければ、T34の装甲を撃ち抜けなかったといわれる。また速度、不整地走破性も高い優秀な戦車であったが、ドイツ軍情報部はその存在さえ把握していなかった。
第二次世界大戦時の強力な戦車としては、ドイツのティーガー(タイガー)戦車が名高いが、ティーガーの登場は1942年後半であり、大戦初期はソ連軍のT34が、装甲・砲撃力・機動力の全てにおいてドイツ軍戦車を凌いでいた。
更にT34より大型かつ重装甲のKV重戦車(KVは当時の国防大臣クレメント・ヴォロシーロフの頭文字)も少数ながら配備されており、この重戦車にはドイツ軍戦車は対抗できなかった。
この時期の有名なエピソードとして、たった一両の走行不能となったKV重戦車が、ドイツ軍の1個戦車連隊を足止めした、というものがある】

ドイツ装甲部隊にとっては幸いにも、ソ連軍司令部が旧来の戦術のままに自軍戦車を歩兵部隊の支援として分散配置する誤りを犯したこと、照準器などの光学機器や無線装備はドイツ軍戦車が優れていたこと、ソ連軍戦車兵の技量が未熟だったことなどから、実戦経験と戦術に勝るドイツ戦車兵は辛うじてこの性能差を克服し、敗北することはありませんでした。
しかしドイツ軍の進撃速度は鈍り、損害も増していきます。

またドイツ軍統帥部は、侵攻当初ソ連軍の総兵力を約200個師団と見積もっていましたが、8月初旬には、それを大きく上回る360個師団が自軍と戦っていることが判明しました。
当時のソビエト・ロシアは極端な秘密主義国家であり、ドイツ軍情報部も正確な情報収集は困難だったため、その見積りに大きな誤りがあったのです。
従って同じ8月に日本帝国からシベリア方面での対ソ連攻撃を交換条件とした外交工作の要請があれば、ドイツは喜んで応じるでしょう。

三国同盟のもう一方、イタリアのベニト・ムッソリーニは、自軍の弱さを顧みずギリシャとエジプトに出兵して大敗し、ドイツ軍はその尻拭いに貴重な戦力を割くことになりましたが、日本の要請は政治・外交工作だけです。軍事的にも経済的にもドイツの負担は全くありません。
しかも全てはドイツの傘下または占領下にある国々への工作ですから、困難な障害は何もありません。
ヒトラーの承認が出れば、リッベントロップ外相は2週間とかからず全ての交渉と手続きを完了できるでしょう。

同時にこの独ソ戦参戦は、日本陸軍内にくすぶる最大の火種、すなわちアメリカとイギリスが陸軍の中国侵攻に抵抗する蔣介石を支援することによって生じている対米開戦論を抑える効果をも持ちます。

いかに陸軍強硬派といえども、日中戦争を継続中にかつての日露戦争に数倍する規模で極東ソ連軍と全面対決する以上、その上アメリカと戦争しろとは言えるはずがありません。海軍は陸軍よりは理性的だったとされていますので、「陸軍がソ連とやるなら、オレ達はアメリカとやらせろ」などとは言わないでしょう。
シベリア侵攻は陸軍主体ですが、ウラジオストック港には小規模ながら極東ソ連海軍がいます。
この時期の正確な隻数と艦種は不明ですが、大型艦は配備されていないため水上艦は日本海軍に対抗できません。
しかし潜水艦は日本本土・朝鮮半島間のシーレーンの脅威となるため、日本海に封じ込めて全て狩り出す必要があります。この任務が完了するまでは、1922年のワシントン軍縮条約以来くすぶっている海軍内の対米強硬論を抑える効果もあります。
これにより陸海軍は当面は対ソ戦で一本化することになり、アメリカに対しては、その必然性から、史実においてソビエト・ロシアを刺激することを避けた「対ソ静謐(せいひつ)の原則」とは真逆に、「対米静謐の原則」をとることになります。
また、このことによって海軍は東インド諸島からのシーレーン防衛も行わざるを得なくなります。
いかに海軍が艦隊決戦主義に凝り固まり、輪送船の護衛など名誉ある帝国海軍のすることではないと思い込んでいようと、その艦隊決戦が行われる可能性が遠のいた以上、陸軍が全力で対ソ戦を行う時に、国家予算から巨額の軍事費を配分されて編成した大艦隊を、シーレーンを放置して遊ばせておくわけにはいきませんから、タンカー護衛のため駆逐艦隊の派遣ぐらいはせざるをえない流れになるはずです。
当時の日本海軍に十分な船団護衛のノウハウがあったわけではありませんが、アメリカ・イギリス両海軍が表立った軍事的妨害および挑発行動ができない以上、シーレーンの安全はとりあえず確保できることになります。

次の段階は、シベリア侵攻を行う陸軍の動員と部隊編成となりますが、奇しくもこの時、史実においては極東ロシアと境を接する満州(中国東北部。北をロシア、西をモンゴル、東を朝鮮半島に接する地域。日本帝国の傀儡国家である満州国が作られていた)において、広大なその原野に85万人もの兵力を集結させる日本陸軍の大規模な軍事演習が行われていました。

『関東軍特種演習(関(かん)特(とく)演(えん))』と呼ばれたこの大演習は、独ソ戦の展開により極東ソ連軍がヨーロッパ方面に移送され減少した場合にシベリア侵攻を行うための兵力結集でした。
史実においては7月7日に動員が開始されましたが、7月下旬時点で期待されたソ連軍の減少がなかったため、動員が完了しないまま立ち消えとなります。【満州国】【関特演】

しかし実際にシベリア侵攻を行うならば、この演習による動員は、天の配剤というべきものです。
数十万規模の兵力結集は、その立案から実戦配備まで短時日にできるものではありません。それが既に半ば行われているのですから、これを修正するかたちで装備と編成の整備を行うことにより、戦闘に適さないシベリアの厳冬期に入る前に侵攻準備を完了できるはずです。
史実では関特演は動員が完了しないまま立ち消えとなりますが、独ソ戦参戦が確定した上での侵攻準備であれば、陸軍の本気度が段違いになるのは当然です。
この侵攻準備をヨーロッパにおけるリッベントロップ外相の外交工作と同時進行で行い、更に海軍の東インド諸島進駐準備も並行して進めます。
そして8月後半には連合艦隊が現地に到着、一連の外交、貿易協定の締結発表と同時にオランダ植民地守備軍を帰順もしくは退去させ、油田地帯を掌握することになります。

そしてこの石油獲得計画が実現したことを確認した後は、外交上の義務を果たすしかありません。シベリアの冬は早く、8月でも気温は零度まで下がりますが、8月末であれば、零下40度に達する厳冬期に入る前に侵攻が開始できます。
日本帝国政府は、公式に日ソ中立条約の破棄をソ連政府に通告した後、宣戦を布告します。
ただしこれには、国際法上の問題があります。中立条約の一方的破棄はもちろん、日独伊三国同盟は加盟国が攻撃を受けた場合の防衛同盟ですので、ドイツの侵攻によって始った独ソ戦に、これを根拠とした参戦は正当性を持ちません。
しかし史実においては、独ソ戦開始直後、当時の外相松岡洋右(ようすけ)は、日ソ中立条約の厳守を求めて外務省を訪れた駐日ソ連大使スメターニンに対して、日ソ中立条約より三国同盟が優先することを通告しています。
従ってこの場合は、目的は手段を正当化する――というこの時代の常識に従って、リッベントロップ外相から日本帝国政府に、ソ連からの先制攻撃があった旨の虚偽通告をしてもらうしかないでしょう。
【☆ ウィンストン・チャーチルは自らの回顧録の中で、イギリス軍が1941年8月にペルシャ湾からソ連への物資捕給ルートを作るため、交戦国ではなかったイランを国際法上の根拠なく占領したことについて、「戦争中は法は沈黙する」と、開き直りともとれる記述をしています】

この宣戦布告直後、陸軍は関特演を名目に集結させた85万の兵力をもって、三国同盟の正式な発動としてシベリア侵攻を開始します。
せっかくアメリカとの戦争を回避したにもかかわらず、もう一方の巨大国家であるソビエト連邦との戦争に突入するのでは意味がないとの反論が出るかもしれませんが、アメリカとの全面戦争が日本海軍自身の認識においてさえ勝算の低い賭けであったのに対して、この時のソ連はナチス・ドイツに攻め込まれて苦戦の只中にありました。仮に参戦した日本軍が敗れても、直ちに逆侵攻されることはありません。
また当時の各国軍部の認識においては、ソ連軍の評価は決して高くありませんでした。
1937年にソ連軍最高の軍略家であったミハエル・トハチェフスキー元帥を始め軍上層部の大半がスターリンによって造反の疑いをかけられ粛清されたことは周知の事実ですし、1939年11月に行われたソ連軍のフィンランド侵攻においては、小国フィンランド軍に数倍する大兵力を投入していながら、自国の地形を生かしたフィンランド軍の善戦に想定外の苦戦と損害を強いられ、「泥の足を持った巨人」と揶揄されるほどの辛勝に終ります。 【赤軍大粛清】【ソ・フィン戦争】

このため優秀な情報部を持つイギリスでさえ、ソ連軍はドイツの侵攻を受ければ六週間から八週間でモスクワを失うと予測していました。
ノモンハン事件で惨敗を喫した日本陸軍の上層部は多少見方を改めていましたが、それは陸軍全体の共通認識とはなっていません。
従って、1941年8月時点でなし得る情勢判断においては、対米戦よりはるかにリスクの少ない選択となります。

このシベリア侵攻は、ナチス・ドイツへの義理を果たすために、形だけひと当たりして深入りせずに撤収する、というだけでは納まりません。
もともと関東軍は独ソ戦に乗じたソ連攻撃を求める北進強硬派の集団ですし、ノモンハン事件の名誉挽回も熱望しています。無敵皇軍を自負する関東軍参謀は、自らの勝利を確信しているでしょう。
また、1919年から1924年まで行われた「シベリア出兵」をみればわかる通り、極東ロシア地域への領土的野心もあります。 【シベリア出兵】
戦端を開くとなれば、さまざまな思惑から、このシベリア侵攻は、日本陸軍の威信を懸けた極東ソ連軍との全面対決にならざるを得ません。
しかし当然、客観的には以下の疑問が出ます。
わずか2年前、数個師団規模の国境紛争でありながら1万8千人もの戦死者を出して惨敗した相手に、果たして勝算はあるのか。
次章においては、それを考察します。

   4   独ソ戦参戦―――バタフライ・エフェクトの始まり

結論から先に述べるならば、日本陸軍によるシベリア侵攻の勝算は、1パーセントたりともありません。100パーセントの大惨敗があるだけです。
当時のソ連陸軍は、日露戦争や第一次世界大戦時の兵員数だけ多く鈍重なロシア帝国陸軍とは異なり、共産主義政権下において世界最高水準にまで近代化された軍隊でした。
特に「火砲は戦場の神」というドクトリンのもとに徹底した火力中心主義をとり、高性能の野砲、戦車、機関銃を大量に配備していました。
シベリアに配置されていた極東ソ連軍、通称シベリア軍団は、その中にあっても精鋭とされる部隊です。

それに対して日本陸軍の歩兵装備は日露戦争当時とたいして変わらず、航空隊は戦闘機の性能こそ優るものの数では劣り、陸戦の決め手となる戦車は、数も性能も著しく劣ったものでしかありません。
戦術面においても、史実における太平洋戦争の戦い方をみればわかる通り、時代遅れの白兵中心主義のままです。
この両軍の差は、前述の通り1939年のノモンハン事件で明らかになっていました。

この年の5月から9月にかけて、当時日本帝国の勢力圏であった満州国と、世界で二番目の社会主義国としてソ連の傘下にあるモンゴルに駐留する極東ソ連軍が、あいまいだった国境線の確定を巡って衝突したこの局地紛争において、日本陸軍はソ連軍に2割ほど優る兵力を投入していながら、その優勢な火力と戦車の大量投入の前に1万8千人もの戦死者を出して惨敗しました。
しかし当時の日本陸軍の悪しき体質のため、この惨敗は秘匿され、敗因の分析も装備の改善もされないまま1941年に至っています。
つまり日本陸軍は、ノモンハン事件での敗因をそのままかかえてシベリア侵攻を行うことになります。

この時期の極東ソ連軍の総兵力は40個師団、80万人とされています。これに対し、関東軍の動員は85万人ですので、兵力の優越もありません。
(陣地戦の戦術常識では、攻撃側は防御側の三倍の兵力が必要とされています)
更に悪いことに、前述のソ連スパイ、リヒャルト・ゾルゲが時の首相近衛文麿の側近まで引き込んだ諜報網によって、日本帝国政府および陸海軍の情報は、最高機密であるはずの御前会議の内容に至るまで、ソ連側に筒抜けでした。

史実においてリヒャルト・ゾルゲは、この年の10月18日に特高警察に逮捕されるまで、日本帝国の機密情報をソ連軍情報部に送り続けています。
従って8月に政府大本営がシベリア侵攻を決定すれば、その規模や攻撃地点はもちろん、攻撃開始日時までもソ連軍の知るところとなり、シベリア軍団は万全の迎撃準備を整えて日本陸軍を待ち受けるでしょう。
そこに突撃を敢行する日本陸軍は、第一次世界大戦において『肉挽き器』といわれたソンムやヴェルダンの戦いと同じに、無数の砲弾の嵐の中で粉砕されます。 【ソンム会戦】【ヴェルダン要塞攻防戦】
兵器の質と量に劣り、戦術に劣り、兵力の優越はなく、情報は筒抜けでは、大惨敗以外の何ものもありません。シベリアの原野は数万あるいは数十万の日本軍兵士の屍(しかばね)で埋め尽くされることになります。

ただし以上のことは、独ソ戦が行われていなかった場合です。
この8月末時点において、ロシア西部(ヨーロッパ・ロシア)のソ連軍は、ドイツ軍の破竹の進撃によって壊滅状態にありました。ミンスクを始めとする主要都市も、次々と陥落していきます。
このことが、はるか1万キロ離れたシベリアの日本軍にとって、有利な戦略条件を生み出すことになります。

ソ連の大都市は、ほぼ全てが工業都市であり重要な兵器工場をかかえています。
史実においては、これらの失陥で軍需生産が危機に陥ることを悟ったソ連軍上層部は、早くも7月上旬に兵器工場の疎開(そかい)(避難)を開始します。
これはドイツ軍の進撃路にある工場から工作機械を全て取外し、鉄道でモスクワ後方のウラル山地にまで運び、そこに兵器工場をまとめて工場都市として再建するという大掛りなものでした。
ソ連の工業都市は大半がモスクワ以西にあったため、移転した工場の数は1500にものぼり、その機材の総量は貨車150万両分ともいわれます。
史実においては、この迅速な大規模疎開がソ連を救います。モスクワ以西の大半をドイツ軍に占領され、全工業資産の85パーセントを失いながらも、兵器の生産能力だけは辛うじて保持されたのです。
後にこれらの工場都市は「タンコグラード(戦車の街)」と呼ばれ、ドイツ軍を圧倒する数万の戦車、火砲、航空機を生産し、ソ連軍勝利の原動力となります。

しかしこの8月末時点は、疎開作業の只中であり、当然解体された工場の兵器生産はストップしています。ウラル山地に再建された工場群が再稼働し、生産が軌道に乗るのは同年12月になってからです。
つまりこの8月末時点におけるソ連の軍需生産は、それが最も必要な局面であるにもかかわらず、大きく低下していたということです。
しかも不意を衝かれたソ連軍は、ハインツ・グデーリアン将軍などの優秀な将帥に率いられたドイツ軍に各所で包囲殲滅され、200万人の兵員と共に大量の装備も失っていました。
また補給態勢も混乱し、ドイツ軍を食い止める切札である戦車部隊にさえ砲弾を供給できないありさまとなります。

首都の前面がこの惨状を呈する中で、極東ソ連軍にヨーロッパ・ロシアからの戦力、弾薬、物資の補充が行われることはあり得ません。
従って、侵攻した日本軍との戦闘で極東ソ連軍が装備、弾薬の備蓄を消耗し、物資不足に陥るようであれば、日本陸軍に有利な状況が生まれることになります。
火力の優越とは、つまるところ多数の砲を揃え、敵に大量の砲弾を浴びせ続けることです。弾薬の補給が滞るようなら、その時点で優越は失われます。
そうなれば以後は白兵戦の勝負ということになりますが、これは日本陸軍の唯一といっていい得意分野です。
前述のノモンハン事件においても、白兵戦における日本軍兵士の頑強な戦いぶりは、当時の極東ソ連軍司令官ゲオルギー・ジューコフ将軍がモスクワに宛てた報告書に記されています。

そして日本陸軍が1ヶ月以上食い下がれば、多大な損害を出しながらも、シベリア侵攻は予想以上の成果を挙げます。その理由は、やはりヨーロッパ・ロシアにおける独ソ戦の展開です。
史実においては、10月の半ばにはドイツ軍がモスクワ西方100キロ地点にまで到達しています。
首都を守るまとまった戦力が失われている以上、ソ連の独裁者スターリンは、シベリアの戦局が不利になることを承知の上で、極東ソ連軍に対して首都防衛に部隊を送るよう命じざるを得ません。【ゲオルギー・ジューコフ】
【☆ 史実においては9月14日に東京のリヒャルト・ゾルゲから、日本帝国は独ソ戦に参戦しないとの確定情報を受け、極東ソ連軍の約半数が9月末からモスクワへの移動を開始しています】

シベリア軍団の兵力が大きく減少するのとは逆に、日本陸軍は、十分な実戦経験を持つ中国駐留軍と日本本土からの増援が可能です。
ソ連軍もシベリア及び中央アジアからの徴兵が可能ですが、訓練期間の全くない急造部隊とならざるを得ません。
この状態になれば、日本陸軍にも勝ち目が出てきます。
海軍の協力によって、極東ロシアの最重要拠点であるウラジオストックの奪取も可能でしょう。
更に進出可能なのはモンゴルです。
この当時のモンゴルは、ソ連の後ろ盾を得た独裁者チョイバルサンが、スターリン同様の恐怖政治を敷いていました。
モンゴル民族の自立を目指した前首相ゲンデンはソ連に連行されて銃殺、チョイバルサンはモスクワの指令のままに自らに反対する軍人を粛清し、モンゴル仏教の僧侶を虐殺します。
この圧政に反発するモンゴル人は少なくありません。
ノモンハン事件直前には、反ソ連クーデター未遂事件も起きています。日本陸軍がソ連軍を駆逐してこれを味方に付ければ、モンゴルを日本帝国の傘下に納めることができます。

―――と、ここまで軍国日本にとってかなり都合のいい展開を記しましたが、当然全く逆の展開もあり得ます。
当時の日本陸軍の歪んだ体質、関東軍参謀の無能と不見識は、多くの文献で指摘されています。
また戦闘が冬に入ると、例え白兵戦であっても、十分な冬期戦の装備を持ち、訓練も積んだシベリア軍団の方がはるかに有利です。
しかしいかに戦局が不利になっても、今度ばかりは陸軍も引けません。
ノモンハン事件は1万8千人の戦死者を出したとはいっても単なる国境紛争にすぎず、関東軍は事態の不拡大を決定した軍令部からの厳命によって渋々停戦に応じましたが、このシベリア侵攻は、天皇臨席の御前会議を経て宣戦布告がなされた正式の戦争です。
陸軍は自らの面目に懸けて、敗北を認めることはできません。どれほどの損害が出ようと戦闘を続行し、史実におけるガダルカナルやインパール作戦のように、最後の部隊が壊滅するまで戦わざるを得ません。
しかし冷酷にいえば、それでも最低限の義務、すなわちナチス・ドイツへの外交上の確約は果たしたことになります。  【ガダルカナル】【インパール作戦】

更に、史実におけるヨーロッパ方面の戦局と関係各国の政治情勢を見れば、日本陸軍の勝敗とは関係なく、太平洋戦争の回避と独ソ戦への参戦という史実とは異なる日本帝国の選択は、否応なく日本帝国自身の未来を含めたその後の世界史を大きく変えるバタフライ・エフェクトを生み出すことになります。
その変化の波がいかなるものになるかが、以後の考察のテーマとなります。

   第二章  バタフライ・エフェクト

       1 モスクワ陥落

第二次世界大戦の史実において、アドルフ・ヒトラーを独裁者とするナチス・ドイツの敗滅に最大の貢献をなしたのは、現在のロシア共和国、当時のソビエト社会主義共和国連邦(略称ソ連、もしくはソビエト・ロシア)です。

現在の日本及び欧米諸国では、主にハリウッド映画、古くは「史上最大の作戦」近いところではスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」、「バンド・オブ・ブラザーズ」、あるいはブラッド・ピット主演の「フューリー」など、ノルマンディー上陸作戦に始まるヨーロッパ西部の戦闘を扱った映画やドラマの影響で、あたかもアメリカ軍がナチス・ドイツ打倒の主役であったかのように思われがちですが、実際には、1944年6月6日のヨーロッパ上陸から終戦まで、アメリカ・イギリス連合軍が戦ったのは、ドイツ全軍の三分の一程度でしかありません。
残りの、というよりドイツ軍の主体である三分の二は、ドイツの東側でソ連軍と4年間に渡り泥沼の消耗戦を続けていました。

このソビエト・ロシアに1940年の対フランス戦のような短期的勝利を挙げられなかったことが、ナチス・ドイツ滅亡の最大の原因でした。
仮にナチス・ドイツがソ連軍に勝利してドイツ軍の大半がフランス方面に配備されていたなら、アメリカ・イギリス連合軍のヨーロッパ上陸は不可能であり、その勝利もまた存在しなかったのです。【対フランス電撃戦】

史実における独ソ戦は、1941年6月22日未明のドイツ国防軍の奇襲攻撃によって始まり、1945年4月30日のベルリンにおけるヒトラー自殺を経て、翌5月7日にドイツ軍の無条件降伏によって終結します。

アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと、ヨシフ・スターリンのソビエト・ロシア。この二つの極端な独裁国家が存亡を賭けた4年間の死闘の中で、スターリングラード攻防戦、クルスク大戦車戦、三次にわたるハリコフ争奪戦など高名な激闘は数多くありますが、ドイツ軍が首都モスクワに迫ることができたのは、独ソ戦開始5ヵ月後の、1941年12月の一度だけでした。
つまり、4年間にも渡る独ソ両国の死闘の中で、ナチス・ドイツがソビエト・ロシアに勝利できる可能性があったのは、11月末から12月5日までに行われたモスクワ攻略戦ただ一度限りだったということです。 【スターリングラード攻防戦】【ハリコフ攻防戦】【クルスク戦(ツィタデル作戦)】

このモスクワ攻略戦に投入されたドイツ軍兵力は、独ソ戦に動員された全3個軍集団のうち中央軍集団と北方軍集団の主力約100万人、戦車1700両、航空機950機(文献により多少の増減あり)とされます。そしてソ連軍の抵抗を排除しつつ、11月中旬にはドイツ中央軍集団の主力は、モスクワ西方50キロ地点にまで迫っていました。
その先遣部隊はモスクワ近郊わずか16キロまで達し、クレムリンの塔が肉眼で見えたともいわれています。

一方、ドイツ軍の急接近を知ったモスクワでは市民のパニックが起こり、略奪や反抗、あるいは逃亡に走る市民を治安維持部隊が片端から射殺することで、ようやく沈静化させたとされています。

しかしソ連軍の頑強な抵抗による兵力の損耗と、補給線の限界による装備品の不足、そして40年ぶりといわれる大寒波のため、モスクワを目前にしてドイツ軍の進撃は完全に停止し、モスクワ奪取はおろか市内への突入さえできませんでした。
この時ドイツ軍を食い止める上で重要な役割を果たしたのが、本来日本帝国の侵攻に備えて極東に配備されていたシベリア軍団であったことはよく知られています。

実は独ソ戦が始まるまで、独ソ不可侵条約によって当面はヨーロッパ側の安全を確保したと信じていたソ連にとって、最も武力衝突が起こる可能性の高い場所は、2年前ノモンハン事件が起こった極東ロシアでした。
それゆえに、ここには冬期戦の訓練を十分に積んだ80万人もの精鋭部隊が配置されていたのです。 【独ソ不可侵条約】

史実においては、同年9月14日に東京のソ連軍スパイ、リヒャルト・ゾルゲからなされた日本帝国独ソ戦不参加の確定情報を受け、スターリンは直ちにモスクワ防衛のためシベリアから極東兵力の半数を移動させ、対ドイツ戦に投入しました。
その戦力は、約1千両の戦車、同数の航空機を含む20個師団、総兵員数40万とされています。

このシベリア軍団の着陣直前におけるモスクワ防衛の残存兵力が、戦車約400両、兵員60万にまで減少し、その部隊も大半は敗残兵の再編か、士官学校生や後方配備部隊の寄せ集めだったことをみれば、精鋭の極東兵力の来援がいかに貴重であったかがわかります。

そして第一陣として到着した2個連隊は、早くも10月半ばにはモスクワ西方100キロのボロジノ市近郊において、ドイツ軍精鋭部隊のひとつである武装親衛隊「ダス・ライヒ」師団との交戦に入っています。
また同じく極東の航空戦力もモスクワ周辺に配備され、独ソ戦開始以来はじめて、ソ連軍は航空優勢を獲得しました。
【☆ 第二次世界大戦勃発時点では、ソ連軍は作戦機1万2千機に達する世界最大の空軍を持っていたが、ドイツ軍の電撃侵攻によりその大半を地上で撃破され、制空権を失っていた】

これら極東兵力に首都周辺の残存兵力と、急遽ヴォルガ河東岸で編成した部隊を加え、ソ連軍は12月5日に全面攻勢に転じます。

既に5ヶ月に及ぶ激闘の連続に消耗と疲弊を重ね、マイナス40度の寒気の中でこごえきっていたドイツ軍前線部隊は、予期せぬ突然の大反攻に粉砕され、10日間で80キロもの後退を強いられます。
撤退を禁じるヒトラーの厳命と、ソ連軍補給線の不備により辛うじて戦線の全面崩壊だけは防がれますが、この反攻開始から数週間で、ドイツ軍は戦死捕虜25万人という独ソ戦開始以来最大の損害を出し、10月の攻撃発起点まで押し戻されました。
以上の史実が示す通り、ドイツ軍のモスクワ攻略、ひいては対ソ戦の早期結着そのものを挫折させた最大の戦力は、日本帝国の侵攻に備えてシベリアに配置されていた極東ソ連軍だったのです。

しかし、8月末に日本陸軍がシベリア侵攻を行っていれば、極東兵力の移動は不可能です。
85万の日本陸軍を早期に撃滅するか、スターリンがシベリアの戦局が不利になることを承知の上で兵力の分割と移送を決断するまで、極東兵力はシベリアに拘束されることになります。

常識的に考えれば、はるか1万キロ離れたシベリアより首都防衛が重要であることは自明の理ですが、史実においてシベリア軍団の移動がゾルゲの情報を待ってから行われたことをみてもわかる通り、スターリンも領土に固執する独裁者でした。
従って、この日本陸軍の侵攻に対してスターリンが史実同様シベリアを手薄にすることを躊躇(ためら)えば、その間極東兵力は自らの面目に懸けて執拗(しつよう)に喰い下がる日本陸軍によって、少なからぬ兵員と装備の損耗は避けられません。
当然モスクワ攻防戦に移送される戦力は大きく削がれ、移動時期も遅れることになります。

仮にモスクワに移送される戦力が史実の半数であったなら、それはドイツ軍の前から500両の戦車、500機の航空機を含む10個師団の敵戦力が消滅したのと同じことです。また到着時期の遅れは、その分ドイツ軍が更に進撃できたことを意味します。
それはドイツ軍の損耗を大きく減少させ、数個師団の増援と同じ効果をもって、ドイツ軍のモスクワ突入を可能にするでしょう。

史実においてスターリンは、ドイツ軍の接近を知ってもなお、側近からの早期退避の進言を退けてモスクワに踏み留まり、市民と兵士に徹底抗戦を呼び掛けて士気を鼓舞します。
そして11月7日の革命記念日の軍事パレードも例年通り行い、赤の広場の段上に立って、パレードからそのまま間近に迫った戦場ヘと向かう戦車部隊を見送りました。その姿はニュース映像に納められ、ソ連軍兵士および市民の士気高揚に使われます。
そして最高指導者が首都に踏み留まったことが、モスクワ市民のみならず多くのソ連市民に、スターリンとソビエト体制への信頼を回復させ、ドイツ軍への抵抗の意志を確固たるものにしたともされます。

しかし、モスクワ攻防戦の帰趨(きすう)を決したともされるこの重要なパフォーマンスも、シベリア軍団の精鋭20個師団がモスクワの背後に集結しつつあればこそできたことです。
その到着がなく、あるいは遅れ、首都が裸同然であれば、独裁者が危険を冒して踏み留まることはあり得ません。周知の通りスターリンは自らの安全と保身には病的なまでに敏感で、この時もモスクワ脱出に備えた特別装甲列車と航空機が用意されていました。
【☆ スターリンは墜落の怖れがある航空機を嫌い、移動は専用の特別列車を用いていたが、ドイツ軍の急接近に当っては航空機も用意された】

すでにモスクワに対するドイツ空軍の爆撃は7月21日から始っており、地上部隊の先遣が16キロの距離にあれば、容易に空挺部隊を送り込める状況でもあります。
実はこの時、ソ連の主要政府機関は、モスクワ東南800キロにあるクイビシェフ市に移転を終えていました。世界各国の外交官や報道特派員も、全て同市に移されています。
自国民に向けた断固死守のプロパガンダとはうらはらに、モスクワは一般市民と兵士を残し、抜け殻同然となっていました。

従って、日本陸軍との戦闘によりシベリア軍団の到着が遅れ、その戦力が不十分であれば、スターリンは早期に首都を脱出し、主を失ったモスクワに、辛うじて余力を残すドイツ軍が突入することになります。

この時期のヒトラーは、まだ都市の完全占領に固執しておらず、3ヶ月前に北方軍集団が到達していたレニングラードは強攻せず包囲に留め、自軍を大都市の市街戦に投入して消耗させることはしていません。
従って、このモスクワ制圧は、翌年のスターリングラード攻防戦のような泥沼の市街戦とはなりません。
スターリングラード戦が泥沼状態となった原因は、ヒトラーが『スターリンの街』という名称を持つこの都市の不必要な完全占領に固執したことに加えて、ドイツ空軍の過乗な爆撃によって瓦礫の山と化した市街地が複雑な立体迷路となり、ソ連軍歩兵にとって絶好の遊撃戦の場となったこと、市の東側が大河ヴォルガに接していたためドイツ軍が完全包囲できず、ソ連軍はこの河を渡して兵員、物資の補給が可能だったことによります。

一方このモスクワ攻略においては、皮肉なことに厳冬と補給の困難によりドイツ空軍の活動は制約され、包囲を防げる自然の障害もありません。
またスターリンが脱出したことは、いかに箝口令(かんこうれい)を敷いても情報統制社会の常として口コミで兵士・市民に拡がって再びパニックを招き、抵抗の士気を下げることになります。

前述したソビエト政府のクイビシェフ移転時の混乱は、クリミア戦争からベトナム戦争までの戦争報道を検証したフィリップ・ナイトリー著「戦争報道の内幕(中公文庫刊)」の中で以下のように記されています。
『多くの官庁、最も重要な兵器工場、全外交団、外国人従軍記者をモスクワ東方1000マイルにあるクイブイシェフに疎開させることが決定された。
他に方法がなかったのでやむをえないとはいえ、特派員たちもこの事態に巻き込まれて大慌てだったため、あとに残った人びとが「ボルショイ・ドラップ」(大逃走)と嘲笑的に揶揄した事態を報道することができなかった。
略奪、鉄道駅への殺到、車で逃げる高官、終日燃え続ける書類の臭いと、事態は狼藉(ろうぜき)を極めたのである』(同書266ページ)

そして政治的効果としては、モスクワ市街の完全制圧を待たずとも、スターリンが脱出した時点で陥落と同じです。
首都が包囲され独裁者の生死が不明では、当然軍と国民の士気が大きく損われ、ドイツ軍への投降の流れがおきかねません。
従ってスターリンは、自らの健在を示すため、仮首都クイビシェフ市に姿を現わさざるを得ません。これは同時に、モスクワを放棄したことを公式に認めたことになります。

言うまでもなく敵首都の陥落は、侵攻軍勝利の象徴です。アドルフ・ヒトラーはベルリンにおいて、全世界に向って高らかにソビエト・ロシアとスターリンへの勝利を宣言することになります。

しかし当然以下の反論が出るでしょう。
モスクワ陥落をもって、ナチス・ドイツの勝利とはなりえない、1812年にロシア帝国に侵攻したフランス皇帝ナポレオンは、モスクワを占領したにもかかわらずロシア皇帝を降伏に追い込むことはできず、結局飢えと疲れに苛まれたフランス軍は撤退を余儀なくされ、その背後をロシア軍に襲われて壊滅したではないか。スターリンも同じ戦略をとればよいのだ―――と。
しかし、1941年のソ連軍にそれは不可能でした。
1812年の冬におけるフランス軍の壊滅は、ロシア軍の戦力が比較的保全されていたためです。

ナポレオンはこの年の6月、60万の兵力をもってロシア領に侵入し、約30万のロシア軍に決戦を迫りますが、兵力に劣るロシア軍は正面対決を避け、戦わずしてモスクワへと後退します。
この過程で後退路の村々を焼き払う焦土戦略をとり、フランス軍の食量調達を不可能としたため、フランス軍は飢えと疲労、それによる病疫のため脱落する兵士が続出し、ナポレオンに自らの生涯最大の激戦と言わしめたボロジノ会戦の勝利を経てモスクワに入城した時には、兵力は20万以下にまで減少していました。
この時ロシア皇帝アレクサンドルは北方の首都サンクトペテルスブルクにあり、住民が退去して空城となったモスクワには火が掛けられ、食料なども残されてはいませんでした。
【☆ ナポレオン戦争時のロシア帝国の首都はサンクトペテルスブルク(ペトログラード)。モスクワが再び首都となるのはロシア革命以後】

ナポレオンの疲弊した残存兵力では、更にサンクトペテルスブルクまで進軍し、それを陥すことは不可能であり、結局ナポレオンはロシア制圧を諦め、10月半ばにモスクワから撤退します。
一方ロシア軍は、ボロジノ会戦では多大な戦死者を出しますが、軍全体の戦病や疲労は不利な長行軍を強いられたフランス軍より少なく、その損耗の少ない兵力をもって、厳寒の中を力尽きて退却するフランス軍をベレジナ河畔において壊滅させ、一気にロシアから駆逐することができたわけです。

それに対し、1941年の独ソ戦では、ソ連軍は開戦当初から徹底抗戦を続け、各所でドイツ軍の包囲殲滅を受けたことにより、300万近い兵力を失っていました。
極東兵力の来援を得て辛うじてモスクワ前面でドイツ軍を食い止め、12月5日には反攻に転じますが、その反攻作戦はドイツ軍に大損害を与えて約80キロを押し戻したものの、スターリンの拙速な指令によって補給線が不十分なままで攻撃を続行したため、一度は撃破したドイツ軍の反撃を受けて頓挫し、一気にドイツ軍を壊滅させるには至らないまま戦線はモスクワ西方約100キロ付近で膠着状態となります。

この史実を踏まえてみれば、極東兵力20個師団の来援がなかった場合はもちろん、その到着が遅れ、戦力が減少していた場合でも、ドイツ軍への大反攻作戦は困難です。
貴重なその精鋭戦力は、スターリンが退避したクイビシェフ市防衛のために当てられるでしょう。
ドイツ軍は戦力の限界に近付きながらもモスクワを事実上陥落させ、そこで攻勢作戦を停止して防御陣地を構築し、厳冬期に補給線を整備しつつ翌年の攻勢再開を待つことができます。

つまりヒトラーはナポレオンの轍を踏むことなく、ソ連侵攻計画バルバロッサ作戦とそれに続くモスクワ攻略計画タイフーン作戦は、当初の計画であったソ連崩壊までは果たせなかったものの、首都モスクワの占領と、その地点における戦線の保持という巨大な戦果を挙げて終了することになります。

ただし以上をもってナチス・ドイツの最終的勝利とはなり得ないことはいうまでもありませんし、ソビエト・ロシアが降伏もしくは講和に傾くこともありません。
首都モスクワを失ったとはいっても、独裁者スターリンは仮首都クイビシェフ市に健在であり、モスクワ以東とロシア南部には未だドイツ軍の手は及ばず、広大な国土と大規模な徴兵ができる人口がある。ウラル山地には早期に疎開させた兵器工場群が保全されており、更にイギリス・アメリカからの膨大な支援物資が送られている。これだけの余力があるソ連が、敗北を受け入れる理由はありません。
純軍事的に見るならば、首都陥落といえども一都市の喪失にすぎません。

それでもこの独ソ戦においては、ドイツ軍がモスクワ奪取に成功していた場合、勝敗の秤は大きくヒトラーに傾くことになります。
その理由は、ナチス・ドイツとソビエト・ロシア、この両国がともに事実上1個人が絶対的権力をもって軍事と政策の決定を行い、その1個人の心理状態が戦局全体をも左右した、非常に極端な独裁国家であるからです。
次章ではこの点を考察します。

   2  独裁者心理の泥沼

アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリン。
国家社会主義と共産主義という政治体制上の分類としては対極に位置するはずの二人の独裁者は、同じコインの裏表といってもいいほど多くの共通点があることでも知られています。

それは極端な個人崇拝、政敵の冷酷な粛清、残忍な秘密警察と強制収容所を多用した思想統制といった強圧的な政治手法だけでなく、軍事面においても見られます。
まずどちらも第二次世界大戦以前、国家指導者となる前に大規模な戦争を体験していました。

ヒトラーは第一次世界大戦に一兵卒として従軍して伝令兵となり、優秀な兵士に与えられる功一級鉄十字勲章を授与されていますし、スターリンはロシア革命時の内戦と1920年のポーランドによる干渉戦争時に、軍司令官と同格の軍事委員として一軍を率いた経験を持ちます。
そして両人ともその経験と、ヒトラーの場合は膨大な書籍から得た知識を拠りどころとして、自らの軍事指揮能力に絶大な自信を持っていました。

【☆ ティモシー・ライバック著「ヒトラーの秘密図書館(文春文庫刊)」によれば、ヒトラーは少年期より読書を好み、第一次世界大戦従軍中も本を手放さなかったとされ、権力掌握後は1万6千冊以上の蔵書を持ち、うち7千冊以上が軍事関連の書籍であり、その大半を読破していたとされます】

特にヒトラーの場合、大戦初期の対フランス戦の勝利は、彼の先見性によるものであることは事実です。
現在においては戦車を中心とする機甲部隊が陸軍の主力であることは常識ですが、第二次世界大戦の勃発まで、各国陸軍の主流は、旧来の歩兵中心主義のままでした。ドイツ軍においても同様で電撃戦の提唱者ハインツ・グデーリアン、1940年のアルデンヌ突破作戦の立案者エーリッヒ・フォン・マンシュタインらは少数派にすぎませんでした。
ヒトラーは彼らの戦略の有用性をいち早く認識し、戦車の開発と、装甲部隊の拡充を命じます。
この装甲部隊の存在なくしては、対フランス戦のわずか六週間での勝利も、独ソ戦初期の快進撃もありえませんでした。
後世の反ナチス・キャンペーンによって作られたイメージとは異なり、ヒトラーは必ずしも軍事的に無能であったわけではありません。
(ただし周知の通り不見識も多く、特にドイツ工業技術の精華ともいえるジェット戦闘機の有用性を早期に認識できなかったことは、連合軍のドイツ工業地帯に対する戦略爆撃を阻止する切り札を自ら放棄したに等しく、これがドイツ敗北に直結しました。
総体的に見ればヒトラーの先見性が大戦初期の勝利をもたらし、不見識が大戦後期の敗北を招いたことになります)

一方スターリンも、対ポーランド戦では失策もありましたが、それ以前の内戦時には、一応の指揮能力を示していました。ロシア南部の都市ツァリーツィンがスターリングラードと改名されたのは、この時の功績によります。

これらのため両人とも専門の高等軍事教育を受けた自軍の高級参謀を信頼せず、また助言、直言のできる私的な腹心や友人も持たず、自ら独断で決定を下し、時には作戦立案や前線指揮にまで過乗な干渉を行っています。
しかし史実が示す通り、両人ともその能力は本人が自負するほど完璧なものではなく、時に戦理に反し、時に性急にすぎる独断命令は、参謀本部の優秀な幕僚が作成した合理的な作戦を混乱させ、失敗と敗北を招きます。

ヒトラーであれスターリンであれ、独裁者特有のこの欠点は、戦局が悪化した側により顕著に現れます。
なまじ軍事能力に自信があるだけに参謀本部の作戦立案に干渉する、その戦況が自分の想定通り進行しなければ、実行にあたる参謀や現地指揮官の無能、怠慢、不服従を疑い、そのために干渉と独断命令が増加し、更に戦局が悪化する。それが更なる参謀不信を生む、という悪循環の泥沼に陥ります。
周知の通りヒトラーは、独ソ戦の敗勢によりこの「独裁者心理の泥沼」にはまり込み、損害を増すだけの死守命令や、成功する見込みのない強引な攻勢作戦を断行し、自ら戦局を悪化させていきました。

一方スターリンは勝者となったがゆえにこの欠点は目立ちませんが、自軍の軍人を信用しなかった点では、ヒトラーをはるかに上回ります。独ソ戦勃発の4年前には、軍部の造反を疑い、ソ連軍近代化の功労者であるミハエル・トハチェフスキー元帥を始め、元帥の5人中3人、軍団長15人のうち13人を含め、総計五万人もの軍人を処刑する大粛清を行っています。
そこまでしても軍部への不信は消えず、全ての上級指揮官に政治委員(コミッサール)という監視役を付けるほどでした。

また作戦面での誤った判断も多く、独ソ戦開始直後の1941年9月、ウクライナの首部キエフにおいてソ連軍四個軍がドイツ軍に包囲されて壊滅し、66万人が捕虜となる空前の大惨敗を喫したのも、スターリンが現地司令官からの早期後退の進言を無視してキエフ防衛に固執したことが原因とされます。
他にも、前述の同年12月に行われたモスクワ反攻作戦は、補給線を十分に整備しない状態で更なる攻撃を命じたためドイツ軍の反撃を受けて完全勝利の目前で停止。1942年のハリコフ市奪回作戦も、同様の理由で失敗しています。
これらの大損害や失策がありながら独ソ戦そのものの敗北を免れたのは、ひとえに敵国ドイツをはるかに上回る国土の広さと動員人口の多さゆえです。
【☆ 独ソ戦に投入されたドイツ軍は最大時でも約350万人ですが、ソ連軍は300万人を失った緒戦の一時期を除き、常時500万人から700万人が投入されていました。また、1944年時点での両国の動員率は、ドイツは総人口6千600万人に対して動員率18パーセント、ソビエト・ロシアは総人口約二億人に対して動員率20パーセントとされています】

史実では1942年後半のスターリングラード攻防戦あたりからゲオルギー・ジューコフ将軍らソ連軍大本営(スタフカ)の幕僚との関係を改め、その意見を尊重するようになったとされていますが、それも戦局が有利になったればこそです。
ひとたび敗勢に陥れば、元来の参謀不信が再発し、スターリンの方が「独裁者心理の泥沼」に落ちたことは疑いをみません。

従って、1941年12月にモスクワが陥落し、スターリンが屈辱的な「都落ち」を余儀なくされていれば、それは現実となります。
史実におけるヒトラー同様、猜疑(さいぎ)心(しん)と焦燥と独断の塊りとなったスターリンの心理状態は、ソ連軍の作戦立案に大きな悪影響を及ぼすことは避けられません。ヒトラーが行った1943年7月のクルスク戦や、翌年12月のアルデンヌ攻勢のようなギャンブルに等しい攻撃に出れば、あるいは領土の喪失を防ぐことに固執し、前述のキエフ防衛戦のような死守命今を乱発すれば、ソ連軍全体の敗北に直結することにもなります。【クルスク戦】【アルデンヌ攻勢】

更に首都モスクワ失陥によるマイナスの影響は、スターリンの心理のみに留まりません。
恐怖政治を敷く独裁国家の必然として、体制が傾けば、その支配下で抑圧されていた人々の離反が急増します。
史実においては、ドイツ軍の侵攻直後から、数十万に達するソビエト市民が、その素朴な愛国心ゆえに、反独ゲリラ(パルチザン)として、自らナチス・ドイツとの戦いに身を投じています。
またソ連軍も多数のパルチザン部隊を編成してドイツ戦線の背後に潜入させ、占領地住民の協力のもと、ドイツ本国から前線部隊への補給線と、兵士の休息地となる後方地域に対して、執拗な破壊工作を仕掛けました。
これによって生じる弾薬、食料、医薬品など補充物資の不足と、兵士が受ける精神的ストレスは、深刻なダメージとなってドイツ軍の戦闘力を削り取り、ソ連軍勝利の影の力となります。

しかし一方で、ソ連国民の内から少なからぬ対独協力者が出ていたことは、大戦中の報道統制により公表されませんでした。
この人々は、第一章で述べたオランダ・ナチスのような思想的ナチス支持者ではありません。正しく表現するなら、スターリン独裁体制からの離脱者です。【スターリン独裁】

特にウクライナでは1930年代初頭に、ソ連政府による穀物の強制徴発によって700万人もの餓死者が出ていたため、侵攻してきたドイツ軍を解放者として迎え、27万人ものウクライナ人が、ドイツ軍に加わっています。
また帝政時代にロシア皇帝に忠誠を誓い、その軍の一翼として革命運動の抑圧を担ったがゆえに迫害の対象となっていたコサックからも、一族を挙げてドイツ軍に付く者が多く出たとされます。
【☆ コサック――15世紀ごろよりロシア南部およびウクライナで自治区を形成していた自由民の総称。
勇猛な騎兵として知られるコサックには、もともと上層と下層があり、ロシア革命時に上層は帝政支持、下層はソビエト支持に分裂した。ソビエト政権下では、上層は富農(クラーク=地主階級)として迫害されたためドイツ側に付き、逆にソビエト側に留ったコサックは対独戦の強力な戦力となった】

大戦後に反ナチス・キャンペーンによって作られたイメージでは、ドイツ軍はスラブ人を劣等民族とする差別主義のもとにソ連市民を片端から虐殺したと描かれます。それは半ば事実ですが、一面では協力者、離脱者、脱走兵などは自軍に組み込み、『義勇補助員〈ヒヴィス〉』として後方地域の治安維持や補助戦闘員として使っていました。
前掲書「戦争報道の内幕」には、この対独協力の実相は以下のように述べられています。
『ソ連内の多くの個所で反スターリン運動は激しく、赤軍〈ソ連軍〉の捕虜とドイツ軍占領地域の市民が召使いのような仕事をしながらドイツ軍を助けはじめたのである。
これはやがて以前の同志に向けて銃口を突きつけるまでになり、さらに程なくして前進地区のドイツ軍部隊には必ずと言っていいほどドイツ軍の制服を着た多数のロシア兵が戦力として交じるようになった。(中略)
ヒトラーに仕えるソビエト市民のことを知った外国人従軍記者たちが連合軍の利益を思ってこの事実を報道すまいと決心したことは理解できる』(同書289ページ)
またイスラム教徒ゆえに抑圧されたクリミア半島のタタール人(13世紀ヨーロッパ中部に侵入したモンゴル系遊牧民の末裔)も、同様にドイツ軍の協力者となりました。
『クリミアのタタール人はドイツ軍の到着を歓迎していた。タタール人は変装しているソ連兵を捜し出して捕え、ドイツ支配下で警察隊を組織し、ゲシュタポ内部で活動し、さらにドイツ国防軍に兵を供給していた』(同書288ページ)
 【ゲシュタポ】

スターリン体制の過酷な抑圧やソ連軍における下級兵士の非人間的待遇などからドイツ側に走った者は多く、その総数は80万人から100万人に達していたとされています。
1812年のナポレオン侵攻時には、下層民レベルでは戦乱に乗じた略奪があったものの、フランス側についたロシア国民はほとんどいません。
皇帝の統治に一部貴族が不満を持っていたものの、当時はロシア国民の大半が信仰するロシア正教会がロマノフ王朝と密着しており、教会への忠誠と皇帝への服従が同一視されていたため、その宗教的支配力が、皇帝がモスクワ放棄に追い詰められた時でさえ、国民の皇帝への忠誠を繋ぎ止めていたためです。
しかし宗教を否定する共産主義のもとでは、ロシア正教は1941年末にスターリンが徴兵目的のご都合主義的な和解をするまで迫害の対象でしたので、この「接着剤」はすぐには機能しません。

首都が失陥し、ロシア革命の祖レーニン死後の権力闘争を制して以来14年に渡って恐怖政治を敷いていた独裁者がその権威を喪失したかに見えれば、ソビエト連邦全域に張り巡らされていた共産党組織の求心力と支配力は低下し、逆に体制離反者、対独協力者が増加するのは当然のことです。
それに比例してパルチザン活動は力を削がれ、補給線が安定することにより、ドイツ軍前線部隊の戦闘力は強化されます。

もちろんナチス・ドイツの民族差別主義のため、ソ連市民の大多数が反スターリンに回るということはあり得ません。
史実においてドイツ軍は、ヒトラーがスラブ人を自軍に組み込むことを嫌ったため、反スターリンに転向したアンドレイ・ウラソフ将軍などの体制離反者を有効な戦力として活用できず、占領地におけるナチス親衛隊の蛮行は、開戦当初ドイツ軍を解放者として迎えた地域でさえ、大戦後期には敵に回すことになりました。
それでも、この1942年時点においては、ドイツ軍補給線への攻撃は大きく減少することになります。
【親衛隊】【アンドレイ・ウラソフ】

以上の通り、首都モスクワの陥落は、ソビエト・ロシアに深刻なマイナスとなる一方で、ドイツ軍には巨大なメリットをもたらします。

史実においては、12月5日に開始されたモスクワ前面でのソ連軍による大反攻作戦によるドイツ軍の損害は、ヒトラーが後退を禁じ、その場での死守を命じたこともあり、戦死・捕虜25万人に達しました。
ドイツ軍にとってこの損失は、膨大な戦死者数以上の大きな打撃となります。それはこの時に失った将校・兵士の大半が、開戦以前に十分な時間をかけた厳しい訓練で鍛え上げられ、更にポーランド・フランス戦役、そして独ソ戦の緒戦において実戦経験を積んだ貴重な熟練兵士だったからです。

以後の新規徴集で膨張していく軍のバックボーンとなるべき熟練将兵の大量喪失は、取り返しのつかない損害であり、これによる質の低下が、その後のドイツ軍敗退の遠因であるとする見解もあります。
従って、極東兵力の減少に起因するモスクワ陥落によってソ連軍が12月5日の大反攻作戦を実施できず、この熟練将兵の喪失が免れていたなら、ドイツ軍兵士の質と量が最も高いレベルで維持されたまま、次なる戦いに投入されたことになります。

更にこの独ソ戦の戦局そのものを左右する巨大な影響が、翌年春に現れます。
すなわち1942年6月にロシア南部およびカフカス地方の油田地帯制圧を目的として発動されるドイツ軍の春期攻勢「ブラウ作戦」において、史実においてはフリードリヒ・パウルス将軍麾下のドイツ第六軍30万人が反撃に転じたソ連軍に包囲されて壊滅し、独ソ戦のターニング・ポイントとなったとされるスターリングラードが、その致命的大敗北の地ではなくなるのです。 【ブラウ(ドイツ語で青)作戦】 【スターリングラード攻防戦】

もちろん、前年12月に史実に反してモスクワが陥落していれば、必然的にその後の両軍の作戦行動は史実から離れ全く異なるものとなります。
しかしこの「ブラウ作戦」のみは、ヒトラーが開戦以前からカフカス地方の油田地帯を欲していたこと、またモスクワを含むロシア中・北部の戦局とは別に、ロシア南部には数個軍のソ連野戦軍が残っており、この方面を担当したドイツ南方軍集団の進撃が遅れていたことから、史実とほぼ同じかたちで実施されることになるはずです。

しかしその中で、スターリングラードへの攻撃のみは、史実と同じにはなりません。
実はこの「ブラウ作戦」において、当初スターリングラードの完全占領は必要とされていませんでした。
前述の通り作戦目的は、ドイツの戦争継続にとって必要なカフカス地方の油田地帯占領と、南部に残存するソ連野戦軍の撃滅です。
スターリングラードへの攻撃は、市内の兵器工場の破壊と、ヴォルガ河畔での陣地構築が目的で、市街地を完全占領する必要はなかったのです。

しかしドイツ軍が準備していたソ連野戦軍への大規模な包囲殲滅作戦が、ソ連軍の迅速な戦略的後退とドイツ軍現地司令官の誤断によってかわされてしまったこと、また同時に行われたカフカスへの進撃がこの方面のソ連軍の抵抗により停滞したことから、苛立ちを強めたヒトラーの関心は「スターリンの街」という名称の都市に向き、幕僚を無視した独断決定によって作戦計画を変更し、この都市に南方軍集団の主力であった第六軍30万を差し向けます。

これこそが、史実においてヒトラーを破滅に導いた「独裁者心理の泥沼」の最たるものでした。
通説によれば、ヒトラーは奪取に失敗した首都モスクワに代わる勝利の象徴として宿敵スターリン自身の名を冠したこの都市を求め、その完全占領に固執したとされています。

従って、すでにモスクワがドイツ軍の手中にあれば、ヒトラーは「スターリンの街」という名のみのトロフィーなど必要とする心理にはありません。
もともとスターリングラードは、ロシア南部における主要工業都市のひとつではあっても、1個軍30万を注ぎ込んでまで完全占領する戦略的価値はないものです。
ドイツ軍は当初の作戦通り空爆か包囲での無力化に留め、カフカス地方からの石油輸送の動脈であるヴォルガ河を遮断し、カフカス地方とロシア南部を分断できたことになります。
実はそれこそが、スターリンとジューコフ将軍はじめソ連軍大本営の参謀達が怖れていたことでした。
カフカスの油田はソ連軍の石油供給の七五パーセントを占めており、更にカスピ海付近には、ペルシャ湾からイランを経由してソビエト・ロシアへと送られるアメリカ・イギリスからの支援物資輪送ルートが作られていたからです。

従ってモスクワ奪取の失敗によるヒトラーの心理と思考の硬直化がなければ、当然スターリングラードへの執着もなく、ドイツ軍はこの都市に拘束されることなく、従来通り防備の固い拠点は迂回し、後方を遮断して孤立させる電撃戦のドクトリンのままに占領地帯を拡大し、ソ連軍の石油供給と戦略物資輸送ルートを圧迫していくことになります。
当然この戦いが、独ソ戦のターニング・ポイントになることもありません。

もちろん、そうであってもこの攻勢作戦だけで広大な国土と無尽蔵の動員能力を持つソビエト・ロシアへの完全勝利に至るはずもありません。
ソ連軍もまた、新たな徴兵と再稼働させた工場群からの兵器で兵力と装備の回復に勤めています。
しかしモスクワ奪取とロシア南部での優勢は、ヒトラーの心理とドイツ軍の戦力の双方に相応のゆとりを生み、それがもうひとつの戦場への増援を可能にします。
その戦場とは、1941年2月以来、エルヴィン・ロンメル将軍麾下のドイツ・アフリカ軍団が、イギリス軍と死闘を演じる砂漠の地、北アフリカです。

そして新たな増援を得ることによってもたらされるロンメルの勝利が、エジプトの陥落だけでなく、大英帝国そのものをナチス・ドイツの軍門に下らせることになります。
次章ではそれを考察します。

   3   大英帝国の屈服

1941年2月初旬、エルヴィン・ロンメル中将を軍団長として、後にドイツ・アフリカ軍団(DAK)と呼ばれることになる装甲2個師団を、北アフリカのイタリア植民地トリポリタニア(現在のリビア)に派遣した時、ヒトラーにとってこの不毛の砂漠は、何の価値もないものだったはずです。
客観的に見ても、北アフリカにドイツの利益となるものは、何ひとつとしてありません。      【エルヴィン・ロンメル】

にもかかわらず、ヒトラーがこの地に本来ソビエト・ロシア侵攻に加えられるべき貴重な戦力を割いたのは、同盟者であるイタリアの独裁者ベニト・ムッソリーニが25万の兵力をもってリビアから隣りのイギリス植民地エジプトに出兵し、わずか3万のイギリス軍に完敗した上に20万人もの捕虜をとられるという醜態を演じたことの尻拭いのためでした。
ヒトラーとしては、このムッソリーニの大敗北が彼の失脚につながり、イタリアが枢軸同盟から脱落することを危惧したのです。  【ベニト・ムッソリーニ】

ヒトラーはロンメル軍団をもって中東の油田とスエズ運河の奪取を狙っていたのだとする説もありますが、これは完全な誤りです。
この時ヒトラーの目標はソビエト体制の打倒と、ドイツ民族の生活圏獲得のためのロシア占領のみに向けられていました。
ヒトラーが狙った石油供給地は、ロシア南部のカフカス地方であり、中東ではありません。またヒトラーはアジア・アフリカの植民地獲得にも興味を持っていなかったため、スエズ運河も不要です。
それはロンメルに与えられていた戦力をみれば一目瞭然です。ロンメルが受けていた命令は、イタリア軍が辛うじて保持していたリビア戦線の維持のみであり、与えられていた戦力は装甲師団2個のみ。
これはイタリア軍戦線の維持は可能でも、イギリス軍に逆侵攻を掛けられるような戦力ではありません。ましてやエジプトを制圧してシリア方面の油田を席巻するなど論外です。

にもかかわらず、史実においてこの地がイギリスとドイツの決戦場として語られるのは、以下の二つの理由によります。     【バトル・オブ・ブリテン】

ひとつは、「バトル・オブ・ブリテン」として知られるイギリス本土防空戦に辛うじて勝利し、ドイツのイギリス本土侵攻を挫折させたチャーチルが、地中海における重要植民地エジプトの防衛と同時に、イギリスが未だ枢軸側と戦う力があることを世界と自国民に示すプロパガンダの地として、イタリア軍に大勝利を納めたこの地を選んだこと。

もうひとつは、本来の任務を無視してイギリス軍への攻勢を強行したロンメルの突出行動と、その思わぬ大きな成功が、ヒトラーとナチス政権の宜伝大臣ヨゼフ・ゲッベルスの関心を引いたこと。
ゲッベルスは宣伝啓蒙省が独占するニュース映画などのメディアで大々的にロンメルをドイツ民族の優越性を体現する英雄として称え、国民の士気高揚を図ります。

この敵味方双方の政治宜伝上の思惑が重なったため、本来ドイツにとっては何の関係もない北アフリカの砂漠が、あたかも両国の決戦の場であるかのように喧伝され、イギリス、ドイツ両国民のみならず全世界の耳目を集めることになりました。 【ヨゼフ・ゲッベルス】
そして皮肉なことに、それゆえにこの地における勝敗は、チャーチルの思惑を超えて彼自身の政治生命を左右するものとなり、更には一植民地の帰属を超えて、大英帝国そのものの運命がかかる諸刃の剣となっていたのです。

史実における北アフリカ戦線は、1941年2月6日から43年5月13日まで、北アフリカの地中海沿岸地域――東はエジプトのアレキサンドリアから、西はチュニジアのチュニスまでの約3千キロ、内陸部は海岸から約100キロ以内と、ごく限られた戦域で行われました。
その経過を簡略に述べれば、リビアのトリポリを基点としてカイロへと進撃するロンメルと、それを防ぎ止めようとするイギリス軍が、この東西2千キロの間を時に進み、時に押し戻す文字通りのシーソーゲームを展開します。

この一連の戦闘において、卓越した戦術能力によってイギリス軍を連破し、「砂漠の狐」の異名をとる名将となるロンメルを終始悩ませたものが、戦力と補給の不足であったことはよく知られています。
ロンメルの保有戦力は常にイギリス軍より少なく、ドイツ軍が押し戻される原因は、大半が燃料などの物資不足でした。
1942年6月22日、イギリス軍にとって最重要の要塞港湾都市トブルクを奪取した功績により元帥に昇進したロンメルが、妻に宛てた手紙の中で「元帥杖(じょう)(ドイツ軍において元帥の象徴として授与される棒状の装飾品)よりも1個装甲師団が欲しかった」と記したことは有名なエピソードです。
また補給面においては、イタリア半島から北アフリカへの海上輸送ルート上にイギリス領マルタ島があったため、ここを基地とするイギリス空軍と、東方のアレキサンドリアを基地とする潜水艦の攻撃によってドイツ側の輸送船が大きな損害を受けたこと、ベンガジなど主要補給港の荷揚げ能力が不十分だったこと、一方トリポリからの陸上輸送路は千数百キロに及び、常に伸延しきっていたことなどから、ロンメルはイギリス軍から奪取した燃料、車両、食料を用いての戦闘継続を余儀なくされます。
その困難にもかかわらず、イギリス軍を敗北寸前まで追い詰めたロンメルの戦術能力の高さは、伝説となるに相応(ふさわ)しいものなのでしょう。

特に1942年7月初旬、ドイツ・アフリカ軍団がアレキサンドリアまで約100キロ地点にまで迫った時、ロンメルにあと1個または2個の装甲師団と、それに見合う物資があれば、アレキサンドリアを制圧し、更にカイロまでの進撃が可能だったことを否定する戦史家は、ほとんどいないと思われます。

事実この時、アレキサンドリアを拠点とする戦艦クイーン・エリザベスを始めとするイギリス地中海艦隊はスエズ運河の南に退避を始めており、情報部は重要書類の焼却を行っています。

しかし史実において、ソビエト・ロシア征服にのみ心を奪われていたヒトラーは、ロンメルの度重なる増派要請に応じませんでした。戦力の分散を嫌うドイツ軍統帥部も同様です。
【☆ 現在の戦史研究においては、独ソ戦が主戦線であった以上、大戦の大局から見れば辺境の支戦線でしかない北アフリカへの戦力の分散を否定したことは、純軍事的には正しい判断であったとする説が有力のようです。
また近代の主要な戦争を兵站補給面から検証したマーチン・ファン・クレフェルト著「補給戦(中公文庫刊)」においては、自軍の補給能力を無視した点において、ロンメルを名将とする評価には疑問が指摘されています】

結果的にロンメルは、同年8月にエル・アラメインでイギリス軍に破れ、以後北アフリカ戦線での勝機はありませんでした。 【エル・アラメイン】
しかし、前年12月に薄氷の勝利ではあってもモスクワ奪取が成功し、ドイツ軍の戦力に相応のゆとりがあれば、ヒトラーは異なる判断をしていたでしょう。

確かにロシア征服を悲願とするヒトラーにとって、ムッソリーニの失策によって生じた北アフリカ戦線は何のメリットもない完全な「お荷物」でした。
ロンメルが挙げたトブルク攻略などの勝利も、軍事的な大局からみればドイツに必要のない戦線を独断で拡大し、戦力と物資を浪費したスタンドプレイにすぎません。
しかし、ここにチャーチルによって巨大な政治的価値が付与されたことを、鋭い政治的洞察力を持つ本来のヒトラーなら看破したはずです。
【☆ この政敵の弱点を察知するヒトラーの洞察力を、ハフナー氏は「ハゲタカの嗅覚」と評しています】

この北アフリカ戦線のはかり知れない政治的価値は、前述のロンメルによるトブルク要塞奪取時に、明確に現れていました。
史実においては、この敗報を受けたイギリス議会下院において、保守党議員の一部から、チャーチルに対する不信任動議が提出されたのです。
この時は不信任への賛成25票に対し、反対476、棄権40の大差をもって動議は否決されますが、エジプトそれ自体が陥落の危機に瀕すれば、不信任への賛同者が激増することは明白です。
実はこの5ヶ月前にも、下院内から戦局悪化に対する不満の声が上がったため、チャーチル自らが信任投票を求め、これを退けるということが起きています。

もともとチャーチルは、国民と軍人の人気こそ高いものの、政界においては保守党と自由党を行き来した異端児であり、主要政党と議会内に確固たる支持基盤や自らの派閥を持っていません。
首相就任も戦争指導者としての能力を見込まれてのことです。
従って戦場での敗北は、チャーチルの政治的立場を危くし、指導力を大きく削ぐことになります。

つまり1940年10月にイギリス本土侵攻計画がドイツ空軍の敗退により頓挫し、軍事力による直接攻撃によってイギリスを屈服させる手段がないヒトラーにとって、この北アフリカ戦線におけるロンメルの勝利は、スピットファイア戦闘機に守られたロンドンに居るチャーチルを政治的に打倒し、首相の座から引きずり降ろす最大のチャンスとなるのです。

イギリス議会における最初の動揺となったチャーチルの信任投票は、この1942年1月に行われており、イギリスの新聞でも大きく取り上げられていたため、当然ヒトラーのもとに情報として上げられていたはずです。
【☆ ヒトラーの私的な談話を側近マルティン・ボルマンが記録したとされる「ヒトラーのテーブル・トーク(三交社刊)」によれば、ヒトラーは自らイギリスの新聞に目を通していたとされている】

従って、ヒトラーが本来の政治的洞察力に基き、軍事的には価値のないこの戦場の持つ巨大な政治的重要性をこの時に認識し、ロンメルの要請に応じる増援派遣と、その環境整備として輸送路の障害となるマルタ島の占領や港湾施設の改善などを早期に行っていれば、ロンメルは1942年中頃にはアレキサンドリアを陥落させ、更にカイロへの進撃を可能にしたでしょう。
この時点でのマルタ島の防備は薄く、一方ドイツ軍には優秀な空挺部隊「降下猟兵」があります。
この部隊はすでにイギリス軍が守備するエーゲ海の要衝クレタ島を制圧しており、ヒトラーの決断があれば、クレタ島の十分の一ほどしかないマルタ島はごく短期間で陥落したはずです。       【降下猟兵】

しかもこの時期、エジプト軍内には、イギリスからの独立を目指すナショナリスト・グループが存在していました。
その主謀者が、大戦後の1956年に軍事クーデターによってエジプト大統領となり、同年の『スエズ動乱』においてイギリスからスエズ運河を奪い取り、一躍エジプトをアラブの盟主に押し上げることになるアブドゥル・ナセル、そして心臓発作によるナセルの急死後その後継大統領となり、1978年にアメリカ及びイスラエルとの画期的和平(いわゆる「キャンプ・デービットの合意」)によって中東に一定の安定をもたらす偉業をなすことになる、アンワル・エル・サダトです。両人とも当時23、4歳の青年将校でした。 【アブドゥル・ナセル】【アンワル・エル・サダト】【スエズ動乱】【キャンプ・デービットの合意】

この当時のエジプトは、実質的には完全にイギリスの植民地でしたが、形の上ではファルーク国王を戴く主権国家であり、自前の政府と国軍を持っていました。
ただし当然のことながら、ムスタファ・エル・ナハスを首班とするその政府はイギリスの意のままになる傀儡政権であり、エジプト軍はイギリス軍の間接的統制下にあります。
【☆ ナハス―――民族主義政党ワフド党総裁であったが、この時期にはイギリス追従に転じていたとされる】

このエジプト軍の中に、エジプト独立を目指す改革派若手将校のグループ、「自由将校団」がありました。そのリーダー格が、ナセル中佐とサダト大尉です。 
【自由将校団】
彼らはドイツ軍との連携を図り、ドイツ軍情報部長官ヴィルヘルム・カナリス提督がカイロに潜入させた情報員と接触をもっていたとされますが、史実ではロンメルがエル・アラメインで敗退したため、両者の連携は実現しませんでした。
(このドイツ軍情報部員との接触は俗説ではなく、サダト自身による回顧録「ナイルの叛乱」(岩波新書刊)の中で明確に語られています。また同書によれば、イギリス軍保安当局にマークされた独立派エジプト軍高官の国外脱出のためドイツ軍に協力を求めたとの記述もあります。
当然のことながら、これらは植民地独立運動として「敵の敵は味方」の論理に基くものであり、思想的ナチス支持とは異なります。
またサダトはロンメル敗退後の1942年10月に対独通謀容疑で逮捕され、イギリス軍将校を含む特別軍事法廷において軍籍剥奪の上、約2年間投獄されています)

しかし、ロンメルが新たな増援部隊を得てカイロへと進撃していたなら、当然サダトらとロンメルの協同行動は現実となります。
それは必然的に、自由将校団を中核としたエジプト軍の反英クーデターとなるでしょう。
当然植民地支配からの解放を求めるエジプト民衆もこれに味方します。

内外からの敵を受けたイギリス軍は、カイロを最後の砦とすることもできず、エジプトを放棄してシナイ半島からシリア方面に敗走するか、降伏するかの二者択一しかありません。
いずれにせよ、カイロはドイツ軍が制圧することになります。
そしてサダトら自由将校団は、ドイツ軍への協力と引き換えに、ロンメルに対してエジプトの真の独立と、自らのグループによる新政権樹立を認めるよう求めるでしょう。
エジプト全土を完全掌握できるだけの兵力を持たないロンメルは、その場限りの約束としても、それを受け入れることになります。ヒトラーも政略上それを承認するでしょう。
自由将校団はただちに世界各国の報道特派員をカイロに集め、自らの決起によるエジプトの解放と、新政権の樹立を高らかに宣言することになります。
これはプロパガンダとしては当然で、そうでなければ自由将校団政権の正統性が確保されないからです。
もちろん実質的には、ナチス・ドイツのイギリスに対する勝利であることが誰の眼にも明らかであることは言うまでもありません。
(ちなみに史実において、1944年8月25日にドイツ占領下のパリは連合軍によって解放されますが、表向きは自ら決起したパリ市民と、ド・ゴールの自由フランス軍によって解放されたことになっています)

このエジプトの失陥は、イギリス政界に激震を引き起こします。
チャーチルが北アフリカをナチス・ドイツとの決戦の場と喧伝したことが、その敗北によって、彼自身の政治生命を危機に陥れるのです。
しかもチャーチルとイギリスにとって、事態は更に悪化します。
「エジプト独立」の衝激は、必然的に大英帝国の最重要植民地インドへと飛び火します。

周知の通りこの当時インドの独立運動は、ガンジーを代表とする国民会議派が、非暴力と市民的不服従を掲げて民衆の支持を集めていました。ただしガンジーは、独立後の未来も考慮していたため、「イギリスを友人として見送りたい」という言葉通り、第二次世界大戦を独立運動に利用することはしませんでした。結果的に、それは賢明な選択でした。

しかし当時の植民地独立運動からすれば、武力闘争こそが常識であり、大戦による宗主国の危機は、武力蜂起の絶好のチャンスです。
インドにおいてもチャンドラ・ボースなどの武力独立派が存在し、少なからぬ民衆の支持を集めていました。史実においては、数千人のインド人兵士が「インド国民軍」として、日本陸軍のインパール作戦に参加しています。 【チャンドラ・ボース】
インド国民の大半の支持はガンジーの唱える平和的独立にありましたが、その人々であっても眼の前でエジプトがドイツ軍に協力して独立を勝ち取った事実を見せつけられれば、この時点で本当に独立を実現できるか定かでない理想主義的な非暴力運動より、ボースらの武力独立により高い実現性を感じるのは当然のことです。
武力独立派の煽動のもとに、3億5千万のインド民衆のうち何割かでも蜂起に走れば、10万余の駐留イギリス軍に勝ち目はありません。

チャーチルにとって更に不都合なことに、イギリスが武力をもってこれを鎮圧しようとすれば、ルーズベルトとの間に決定的な亀裂を生じます。

史実においてはアメリカ参戦以前の1941年8月、ルーズベルトとチャーチルは、ファシズムに対する民主主義側の理念として『大西洋憲章』を発表し、その第三条に、諸国の人民が自らの政府の形態を選ぶ権利を唱っています。 
【大西洋憲章】
徹底したイギリス帝国主義者であったチャーチルの思惑では、これはナチス・ドイツ支配下の国に対するものでしたが、理想家肌のルーズベルトは、これをヨーロッパ各国の植民地にも適用されるべきものと考えていました。
【☆ アメリカ植民地フィリピンは、すでに独立への道すじが付けられていた。また、表面的にはルーズベルトとチャーチルの関係は密接かつ良好であったが、インド・ビルマの植民地をあくまで保持しようとするチャーチルの19世紀的帝国主義の価値観については、ルーズベルトは非好意的であったとされる】

アメリカからの支援によって戦争継続能力を維持しているイギリスは、ルーズベルトが掲げた民主主義の大義を踏みにじることはできません。
仮に武力鎮圧を強行し、インド民衆に多数の犠牲者が出れば、アメリカ国民のイギリスに対する同情心を冷え込ませることにもなります。
ロンメルによってエジプトを失い、更にインドが武力独立に走れば、それは植民地からの富で繁栄してきた大英帝国の崩壊を意味します。
また武力独立となれば、当然イギリス経済界がインドに投下してきた産業資本は、全て新政権に接収されることにもなります。

史実においては、第二次世界大戦で疲弊しきったイギリスは、多少の曲折はあったものの全ての植民地を手放し、大英帝国に自ら幕を引きます。
しかしこの1942年時点では、政治家、一般市民を問わず、イギリス国民の誰ひとりとして、そのようなことが現実に起こりうるとも、また起っていいことだとも思っていません。
その認識と価値観の中で、この大英帝国崩壊の危機を救う方法は、唯一つしかありません。
ナチス・ドイツとの講和です。
イギリス議会には対独講和を求める声が高まり、同時にこの危機を招いたチャーチルへの糾弾が強まります。

更にここまでイギリスの情勢が悪化すると、中立を保っていたスペインが、反イギリスの行動を起こす可能性が高まります。
その目的は、16世紀よりイギリス領となっているジブラルタルの奪回です。
ジブラルタルは、スペインとポルトガルが位置するイベリア半島の南端区域で、大西洋と地中海を隔てるジブラルタル海峡の名は、この地に由来します。

この岩山状の小さな区域は、1704年のスペイン継承戦争の時にイギリスに奪取され、以来イギリスの海外領土となっていました。(ちなみに、2017年現在も同様です)
イギリスはここに海軍基地を置き、マルタ島、アレキサンドリアとともに地中海支配の要としますが、スペインにとってその奪回は国家的悲願となります。

この1942年当時、スペインは1936年から38年の『スペイン内戦』に勝利した極右主義者フランシスコ・フランコ将軍の独裁下にありました。 【スペイン内戦】
フランコは政治的にはヒトラーやムッソリーニと同じファシストですが、スペイン全土を荒廃させ、六十万人もの死者を出した内戦の痛手から国力が回復していなかったため、枢軸同盟には加わらず中立国となります。
史実においてフランコは、内戦時にヒトラーから受けた軍事援助の借りを返すため、義勇兵を名目に2個師団を送ったのみで、最後まで中立を保ちます。
1940年にフランスの敗北を見たムッソリーニが目先の利益を求めてすぐさま参戦し、ヒトラーと共に滅びたことに比べれば、非常に賢明な判断でした。
結果的にフランコは、第二次世界大戦を生き残り、1975年に死去するまで、西ヨーロッパ最後の独裁者としてスペインを支配しました。

しかし1942年時点でアメリカが参戦せず、大英帝国が崩壊の危機にあれば、ナチス・ドイツがヨーロッパの覇者として定着する可能性が高く、それはフランコにとってジブラルタル奪回の絶好のチャンスとなります。
いきなりドイツ側に立った参戦まではしなくても、イギリスに対して中立維持と引き換えに同地の返還を求める外交圧力を掛けることはするでしょう。
チャーチルは自らの回顧録の中で、北アフリカで苦戦中のイギリスにとって、スペインが大きな潜在的脅威であったと述べています。
孤立状態にあるイギリスにはスペインに派兵する余力はなく、海軍や空軍を用いた威圧は可能でも、下手な軍事的圧迫はフランコをドイツ側に立たせるだけです。
エジプトに続き地中海への出入口であるジブラルタルが失われれば、イギリスは地中海から完全に締め出され、中東の油田地帯をも喪失することになります。
チャーチルは、軍事、外交、議会の全てにおいて窮地に追い詰められたことになります。

もしイギリスがアメリカと同じ大統領制の国家であれば、「チャーチル大統領」はいかに戦局が不利になっても国防長官と三軍首脳の首を挿げ替えて政権を維持し、ヒトラーとの戦争を継続することができるでしょう。
しかし言うまでもなくイギリスは議院内閣制の国であり、政策上の失敗は、首相の進退と直結しています。ましてこの時、チャーチルは戦時内閣の首相だけでなく、国防相も兼任していました。従って、責任回避の余地は全くありません。

前述の通り、史実においてはトブルク要塞陥落時に、イギリス下院においてチャーチルに対する不信任動議が提出され、この時は大差で否決されています。
しかし大英帝国の屋台骨であるインド、エジプトの二大植民地と、地中海支配の要であるジブラルタル、この全てが喪失される危機にあたり、不信任動議が再提出されないはずはなく、これが否決される可能性もないでしょう。
チャーチルの気質とイギリス議会の慣習からすれば、不信任動議の可決を待たず、自ら辞任することになります。
以上をもって、大戦勃発以前から頑なに反ヒトラーを貫いてきたウィンストン・チャーチルは失脚します。

そしてこの政変は、イギリスの戦争政策に180度の転換をもたらします。周知の通り、大戦勃発以前の対ドイツ政策は、決定的対立を避ける代りにヒトラーの要求をある程度まで認める宥和(ゆうわ)政策でした。
この主導者である前首相ネヴィル・チェンバレンは退陣後ほどなく死去していますが、それを支持した議員たちは、保守党を中心に議席を維持しています。

イギリス議会(任期五年)は1939年9月の大戦勃発のため、1935年以来総選挙が行われていませんでした。従って1940年5月10日に、宥和主義者のチェンバレンから主戦論者のチャーチルへと内閣は変わっても、議員の顔ぶれは宥和政策期と全く変わっていなかったのです。
(史実において1935年の次の総選挙は、ドイツ降伏後の1945年7月)
おそらくは、チャーチルと並んでチェンバレンの後継候補であった駐米大使ハリファックス卿が呼び戻され、首相の座につくことになるでしょう。ハリファックスはチェンバレン内閣の外相であり、ともに宥和主義者でした。

【☆ 1940年5月にチェンバレンの後継候補であったチャーチル、ハリファックスの両名からチャーチルが選ばれた経緯は、河合秀和氏の著書「チャーチル(中公新書刊)」の中で、以下のように述べられています。
『それでは(チェンバレンの)次の首相として誰を推挙すればよいのか。明らかにチャーチルがその候補者であった。しかしチャーチルには、これまでに見た通り多くの難点があった。彼のこれまでの無分別な言動、多数の保守党議員の反感、労働党の敵意、その上チャーチルが首相になれば、戦争が「品位と抑制」を欠いた激烈なものに転化していくことは充分に予想された。
彼に代わるものとしてはハリファックスがいた。彼は宥和政策の外相としての汚点を負っていたが、巧みに非難を免れていた。現在では、チェムバレンとアトリー(労働党党首)を含め全政府指導者がハリファックスを首相として受け入れたであろうということが判っている。ハリファックスの障害になるのは唯一点――チャーチルがいるということだけであった。(同書262ページ)』】

史実において大戦の勝者となったイギリスは、自由と民主主義のために戦ったとされますが、実際にはあくまでも大英帝国の保持と、ナポレオン戦争以前より続く『ヨーロッパの大陸側に統一勢力を出現させない(それが成立するとイギリスの独立が脅かされるため)』という伝統的大陸政策に基いてドイツと戦ったのであり、確固としてヒトラーに反対したのは、チャーチルとその取り巻きだけだったとの見方もあります。
また王室においても、アメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚のために王位を退いてウインザー公となり、この時点ではカリブ海の英領バハマ総督の任に就いていた前国王エドワード八世は、ドイツ寄りの考え方を持っており、ドイツの外交・情報関係者と接触を持っていたとされます。
(このためウインザー公はFBIの監視対象でした。またバハマ総督への任命自体、公をヨーロッパから遠ざけるためであったとされます)

従って、大英帝国崩壊の危機の中でチャーチルが失脚すれば、イギリス議会の大勢は宥和派に戻ることになり、この主導のもとに、ドイツとの講和が決定されることになります。
これは言うまでもなく、イギリスの実質的敗北です。

この講和の申し入れを、ヒトラーが拒絶することはありえません。
もともとヒトラーは、対英戦開始以前からイギリスとの共存を望み、1939年9月3日のイギリスによる宣戦布告以後も、和平の働きかけを行っていました。
フランス降伏直後の1940年7月19日の国会演説でも、大英帝国の存続を認めた上での共存を呼び掛け、中立国スウェーデンやバチカンを通しても和平提案を行っています。
もちろんヒトラーに平和志向があったわけではなく、第一にヒトラーの人種観においてイギリス人は『アーリア民族』に属し、共存と協力が可能であること、第二に念願であったソ連侵攻にあたり後背の安全を確保する必要があったことによります。 【アーリア民族】
従ってこの1942年中期において、イギリスから講和の申し入れがあれば、それは独ソ戦を継続中のヒトラーにとって最大の朗報であり、領土の割譲や植民地の委譲、賠償金の支払いなどは一切要求することなく、講和を受け入れるでしょう。
前述の通りヒトラーは大英帝国の崩壊は望んでいませんし、海外植民地の獲得にも関心を持っていなかったので、以後のイギリスの協力しだいでは、ロンメルが占領したエジプトをイギリスに返還し、インドの独立運動鎮圧を手助けする、ということがあってもおかしくありません。
第一次世界大戦の敗北とその戦後処理であるベルサイユ体制に深い憎悪を持つヒトラーにとって、ドイツ帝国の領土を奪ったフランスとポーランドは徹底的に滅すべき仇敵であるのに対し、白色人種による有色人種支配の見本であるイギリスは、共にヨーロッパを支配できる同族という位置付けでした。
(ヒトラーの著書「わが闘争」にはその旨の記述がある)

従って、ナチス・ドイツと大英帝国の講和は「友好的」に成立し、北アフリカ及びヨーロッパ西部の戦争は、ドイツの実質的勝利によって幕を閉じます。
この結果イギリスは、ヒトラーによって主要植民地の保持を保証され、事実上ナチス・ドイツの傘下に入ることになります。

そしてこのことが、未だヨーロッパ東部で続く独ソ戦の帰趨を決する分岐点となります。
なぜならば、第二次世界対戦の史実においては、連合軍の勝利に大きな貢献をしていないかに見えるイギリスこそが、ナチス・ドイツと泥沼の消耗戦を耐え切ったソビエト・ロシアの戦争継続能力を陰で支えた最重要の存在であったからです。
さらにイギリスの屈服は、独ソ戦の帰趨を超えて、その後の歴史のドミノそれ自体を、全く違う方向へと倒していくインパクトを産み出すことになるのです。

1941年8月に日本帝国が太平洋戦争を回避したことによって極東で生み出されたバタフライ・エフェクトは、シベリアの荒野から1万キロを隔てたモスクワに至り、極寒のロシアから灼熱のエジプト、そしてインドとスペインを経てロンドンに達し、反転して再びロシアへと戻ります。
それがもたらすものは、史実とは正反対の独ソ戦の結着です。
そして更にその余波は、極東の日本帝国へと戻っていきます。

次章においては、それを考察します。

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この後は、
4 大アーリア帝国と大東亜共栄圏の確立

第三章 ブランデンブルクの奇跡 (最終章)  となります。

『歴史のif』の怖るべき結末にご期待下さい。

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