見出し画像

【ズボラな私の本の読み方】積読とドッグイヤー、そして味読

9月に入っても厳しい暑さが続いていましたが、ちょっと暑さがやわらいで少し秋らしくなってきた気がします。

秋は一番好きな季節です。

私の趣味は読書スポーツ観戦美術館巡りなので、まさしく秋にピッタリなものばかり。(もちろん食欲の秋も)

この秋、まだ美術館とスポーツ観戦には行けていないので、読書の秋にちなんだことを書きつづってみようと思います。

本好き・読書好きと一口に言っても、本の読み方は人それぞれ。noteでも「私の読書術」といった記事を書かれている方も多く、興味深く読ませてもらっています。

私の場合「読書術」などとはとても言えないようなゆるい読書スタイルなのですが、自分なりの本との付き合い方、向き合い方を書いていければと思います。

読書スタイルの変遷

幼い頃から本を読むことが好きで、最初の読書熱のピークは小学生の頃。家から徒歩1分ほどのところに図書館があり、毎日のように図書館通いをしていました。

読んでいたのは絵本や児童文学、そして図鑑や図説の類も好きでしたし、子ども向けに書かれた伝記なども好んで読んでいました。後に大学で歴史を専攻するほど歴史好きになったことの原点だったのかもしれません。

2回目のピークは20代半ば〜後半にかけて。

この頃は通勤のお供に毎日本を読んでいたので、週末のたびに本屋に行っては本を買っていました。本屋通いで仕事のストレスを発散していたような感じです

この頃一番読んでいたのは司馬遼太郎。歴史好きなら一度は通る道ではないでしょうか。
長編小説をあらかた読み終わると、随筆集や対談集なども買っては読み、買っては読みしていました。

また、塩野七生の『ローマ人の物語』も、続きが出るのを今か今かと待ち、本屋で平積みにされているのを見かけると「来たー!」とばかりに飛びついて買っていました。

本棚の一部
司馬遼太郎の大半は文庫本ケースで保管


そのような「がむしゃらに読みまくる」時期を経て、年齢とともに本との向き合い方が変わってきました。
今ではすっかりズボラで不真面目な本好きになり果てていますが、それでいいと前向きにとらえています。

積読ライフ

プロフィールにも書いていますが、私は積読派です。

本を買う時にはもちろん「この本おもしろそう。読んでみたい!」と思うのですが、大抵の場合すぐに読み始めるわけではなく、しばらく放置…もとい寝かせることが多いです。

本を買って手元に置いておくことで
「いつでも自分の好きな時、好きなタイミングで読むことができる」
という安心感心の余裕が生まれます。

図書館で借りた本だと返却期限があるので積読するわけにはいきません。「◯日までに返さないといけない」と期限に追い立てられて本を読む感じが、どうにも性に合わないのです。


子どもの頃は図書館ヘビーユーザーでしたが、子ども向けの本はすぐ読めてしまうので、急かされていると感じることはありませんでした。でも大人の読書には時間もエネルギーもそれなりにかかります

社会人になってからも図書館を利用していた時期はあるのですが、借りた本を「読み終わること」自体が目標になってしまって、今思うと全然読書を楽しめていませんでした。

いろいろな読み方をしてきた今だからわかるのですが、私は「月に◯冊読む」という目標を立てて本を読んだり、期限を気にしながら本を読んだりするのに全く向いていません。

自分の好きなタイミングで、自分のペースで本を読む。それができるのが積読の一番のいいところ。


最近で言えば『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆著/集英社新書)が本屋さんに平積みされているのを見て

「そうそう!何で本読まずにスマホとか見ちゃうんだろう?気になる!」

と思って購入したのですが、結果は無事積読(笑)
でも近いうちに読みそうな気はしています。

積読派に刺さる帯ですね(笑)

積読本を読むタイミングって?

積読本をいつ、どういうきっかけで読むのか。それもまちまちです。

最近NHKでスペシャル大河『坂の上の雲』が再放送されていたのを観て、積読本の中から正岡子規の『仰臥漫録』(岩波文庫)を再読しています。(途中まで読んで中断して積読本になっていた)

そこは『坂の上の雲』じゃないんかい!

というツッコミはごもっとも(笑)

『坂の上の雲』でもなく、正岡子規の『病牀六尺』でもなく『仰臥漫録』を手に取ったのは本当に「何となく」なのですが、ちょうど9月から記述が始まっているので、時期的にピッタリの本だと読み始めてから気づきました。

明治34年、つまり今から123年前の9月に子規が病床にあって何を食べ、何を考え、どんな句を読んだのか。同じ季節の中でそれを感じることができています。

「9月に入ったのに暑すぎる。病人に85度はつらい…」
みたいな記述があり、今も昔も、人は同じようなことをボヤいているんだな、とクスリとしてみたり。

ちなみに華氏85度は摂氏に直すと29.4度だそうで、令和の今ならいざ知らず、当時としては異例の残暑だったのかな、と思いを馳せてみたり。

そもそも体温は「丗七度八分」などと摂氏で書かれているのに、温度計は華氏なのはなぜだろう?当時はそれが一般的だったのか、あるいは温度計が舶来品だったのか?など推理してみたり…

あれこれ思考を巡らせながら、のんびり読んでいる最中です。

読み始めた時期と作中の時期が一致したのはたまたまなのですが、本が呼んでくれたのかな、という気もします。
こういうことがあるから積読っていいな〜と、ますます積読本が増えて行くんですよね(笑)

ドッグイヤーの有用性

ドッグイヤー=犬の耳。

読書においては、ページの端を折り曲げることを意味します。

栞代わりに折る人もいれば、読んでいて気になる箇所・心に響いた箇所の目印として折る人もいます。
私は後者。

ドッグイヤー


ちなみに画像のドッグイヤーだらけの本は、今年読んだ『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』(林健太郎著/中公新書)です。

以前読んだ本の中で紹介されていたのでAmazonで買って読んでみたのですが、とても面白かった。ただ、頻繁に巻末の註釈を見たり、世界史辞典や年表を参照しながら読み進めていったので、かなり時間はかかりました。

大学時代の専攻が史学科だったこともあって、歴史に関する本は特にこうなりがち。

学生の頃は付箋を貼ったり傍線を引いたりしていましたが、通勤時に読書するようになってからはそうはいかず、気になった箇所に折り目(ドッグイヤー)をつけるようになりました。もちろん図書館や人から借りた本にはやりません!

本に折り目を付けること自体に抵抗を感じる人も多いかもしれません。

ドッグイヤーの良さは、その本を再読した時にわかります。
ドッグイヤーのあるページは、そのページ内のどこかに過去の自分が気になった、惹きつけられた箇所があったということ。それはどこなのか?と思いながら読むことができます。

「あ〜、そうそう!ここだった!」

とすぐにピンと来ることもあれば、

「え…?このページのどの部分に私は心惹かれたの?」

とわからないこともあります。
もう一度ページの頭から読み直してみてもわからない。

そういう時は、そっと折り目を戻しておきます(笑)

再読までに間が開くと、こういうことがよく起こります。最初に読んだ時には確かに何かが刺さったはずなのに、何年後かに再読するとそれがどこなのかさっぱりわからない。

それが醍醐味なんです!

本に書かれている内容は同じなのに、読んでいる自分の中の何かが変わっているんですね

感性の不可逆性

少し前に、FMラジオの番組にゲスト出演された写真家の嶌村吉祥丸さんという方が

"感性の不可逆性"

という話をされていました。

私の職場ではFMが流れており、仕事中に聴いた話なので正確ではないかもしれませんが、こんな感じの内容でした。

若い頃に「メチャクチャカッコいい」と思って着ていたTシャツが、今見ると何がそんなにカッコいいと思ったのかわからない。
でも、その当時は確かに「カッコいい」と感じていた。

そのTシャツをカッコいいと感じていた頃の感性には戻ることはできない。

坂本美雨のディアフレンズより
写真家 嶌村吉祥丸さんのお話


仕事中でしたが、聴きながら「なるほど、確かに!」と思ってしまいました。

写真家の方なので、ご自身の若い頃の写真と今の写真についての話の中でそんな事を言われていたと思うのですが、読書にも当てはまるな〜と思って聴いていました。

芸術作品に触れる時もそうですが、最初に感じた驚きや感動などの心の動きはその時限りのもの。本を初めて読んだ時の感性は、やはりその時限りのものです。

ドッグイヤーがあることによって、過去の自分の感性と向き合うことができる。
私にはすごく合っている読み方です。人に本を貸せなくなってしまいましたが(笑)

「味読」という読み方

味読…味わって読むこと。

読んで字の如しですが、この言葉を知ったのは実は今年に入ってからです。

外山滋比古の『新版「読み」の整理学』(ちくま文庫)


本の読み方を「既知の読み」と「未知の読み」に分け、その考察が実体験や実例をもとにわかりやすく書かれてる本で、珍しく積読せずすぐに読み終わりました。

外山滋比古というとベストセラーの『思考の整理学』が有名ですが、個人的にはこちらの方が刺さることが多かったです。

ドッグイヤー多め


この本の中で「味読」という言葉が出てきて、シンプルに

「ああ、そうありたいなぁ」

と思いました。

せっかく本を読むのだから、しっかりと味わって読みたい。

「月に何冊読む」といった目標は立てようとは思わないけれど、「本を味読する」というのが、読書するに当たっての、私の唯一の目標です。


ちなみに『「読み」の整理学』の中で著者は「通読信仰」について痛快に批判しています。

 本を読む人はみんないくらかずつ通読信仰をいだいている。読み出したら何はともあれ最後まで読み通さなくてはならない。中途で投げ出すのは薄志弱行だと思って自分を励ます。そして読み上げたときの、あの快感と満足そのものが独走するようになって通読信仰になるのである。(中略)こういう本はあとかたもなく忘れてしまうものだ。

(中略)通読信仰のおそろしいのは、われわれにとって出会いとなるような本の起爆力を弱めてしまう点にある。

『「読み」の整理学』「"半読“について」より抜粋

積読派で読みかけの本を数多くに抱えている私は、そのことに若干の後ろめたさを感じていたのですが、「それでいいんだよ」と言われているような気がしました。

ありがとう、外山先生!

もちろんこのページにもドッグイヤーがあるので、抜粋部分も難なく探せました(笑)

おわりに

ここまで私のゆるい読書スタイルについて書いてきましたが、やはり本の読み方は人それぞれ。
自分にあったスタイルで、今後も無理せず長く読書ライフを楽しんでいきたいですね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?