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正しく思考するためには、「陰謀性」を織り込まなければならない

オカルト信じるキャンペーン実施中の僕が考える「陰謀論」についてのひとつの結論のようなもの。

「正しく思考するためには「陰謀性」を織り込まなければならない」

◆ 陰謀論について

「陰謀性」を説明する上で、区別するために「陰謀論」を少し説明させて下さい。

「陰謀論」というと、世間の目をあざむいて、ある個人や組織が、意図的に何らかの工作をし、自分たちと一般人との間に、簡単には覆らない格差・支配構造を形成しようとしている、という論調のことです。


陰謀論の中には、正しい部分とそうでない部分があるのですが

正しくない部分は、
「自分は悪くなくて、社会の理不尽さが自分をハメている。その理不尽さは誰かが仕掛けたことで、その誰かを粛清することで改善する。」と考えることです。

正しい部分は
社会には理不尽さが存在し、それには原因がある。その原因に対策すれば解消するはず。」
と考えることです。

ちなみに、あと一つ正しいことがありまして
「社会の裏には公表されない意図と人が存在すること」
なのですが、これはあらゆる現実的な策を実行する中では普通のことなんで、これは陰謀論がどうという話ではありません。

◆ 「陰謀性」とは

陰謀論の正しさの中にのうち
「社会には理不尽さが存在し、それには原因がある。」
ということがありましたが、これを私は社会の「陰謀性」と呼ぶことにしました。

特に、理不尽さの原因の中には、意図的でないものがあり、これをしっかり存在するものとして認識する必要がある。というのが今回の言いたいことです。

「陰謀論」を馬鹿にするのはいいですが、社会には「陰謀性」がないと言うのは正しいとは思いません。
闇の組織などは存在しなくても、社会に理不尽さはあります。
社会の「陰謀性」の原因を考え、それを解決しようと思う姿勢は、それ自体はとても立派だと僕は思っています。

◆ 身近にある「陰謀性」

例えば、「こんな人が好きです」と言ったとします。
これは単に自分の意見を言っただけなのですが、逆に反対側にいる人を否定しています。
それは意図していなくても、自然とそう解釈されてしまうのです。

これは、日常に潜む小さな「陰謀性」であって、意図的な行為でなくても、誰かを苦しい立場に追いやっていることを示します。

あ、でも、意見を言うなと言いたい訳ではありません。
それを認識しなければならない、というだけです。

◆ 社会の「陰謀性」

陰謀性を引き起こす原因は様々で、小さなものは個人が起こすものから、大きいものは国家や法律などになります。

もはや、社会のいろいろなところに仕方なく発生する小さな歪みみたいなものが、社会全体になると理不尽さとして誰かに加害してしまいます。
残念ながら、「陰謀性」は社会のシステムに常に存在してしまうのです。

社会の問題について考えるときには、このことを織り込んで考えておかないと、誰かを助けるつもりが、誰かを苦しめる結果を同時に発生させてしまいます。

◆ 「陰謀性」との向き合い方

話したいことは終わりましたが、すこし補足します。
「陰謀性」に対してはそれぞれが意識を持つだけでいいと思います。そこに積極的に向き合う必要は必ずしもありませ。

社会に陰謀性が存在するから、それと常に向き合って、突破しないといけないと思うのは間違いです。

社会の理不尽さは、意図したもの・意図しないものが存在します。犯人探しをしても、全てを解決することはありません。

そして、もし理不尽さを解消したとしても、自分の人生は変わりません。より良い人生を前進するためには、「これを解決しなければ始まらない!」と考えて時間を浪費するのはあまりに盲目すぎます
もっと別のことに時間を使いましょう。

◆ 終わり

このあとも関連した話を何回かに分けて、書き残したいのですが、「目の前の壁を乗り越えなければならない」と思い込んで、何故か決められたルールの中で無茶をして、人生を辛いモノだと考えている人がめちゃくちゃ多いんじゃないかと思っています。

ま、自分も同じような状況なのですが、周り道だろうが、失敗しようが、その壁から回り込んだところに、本当の人生の楽しさはあるんじゃないかと思い始めています。

そのためには、自分が取り組むべきことは何か、自分と社会との関係性などについて、もう一度考え直すべきなんじゃないかという妄想をしているところです。

「陰謀論」にも同じ性質があって、それを例にしてみたのですが、あれは、あたかも闇の組織を壊滅させることが世界を正しい方向に導く唯一の方法だと思わせます。

多分、「陰謀論」にハマると、今は心が解放された気分になりますが、2・3年後に自分が全く成長していないことに気付いて、その時にもっと大きな絶望感を感じることになります。

だから、僕はたしなみとして「陰謀論」を楽しむことにします。

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