何もしない時間

この頃、統合性が崩壊していて、文章をつながりよく書いていくことが難しい。文章を書いてみても、どうしても自由連想的で、脈絡がないものになってしまう。それでも書いたものなので、そんな文章でも良かったらめちゃくちゃ書いてるなーと思いながら読んでくれると嬉しいです。知り合いの人はぜひ感想ください。

 最近、談話室で何もしない時間を過ごしていることが多い。ただコタツに突き刺さっていたり、ただボンヤリと人のゲーム画面を見ていたり、寝転がってひたすら疲れたーと叫んでいたり。


 今日、先輩や同期・後輩たちと焼肉に行ってきた。僕企画の焼肉会で、人生の景気の悪さを吹き飛ばす会だったが、サンチュを肉も何も巻かずに単体で食べていたり、最後調子に乗って頼みすぎた料理を食べきるために無理をして、限界などとうに超えて、歩くのが気持ち悪すぎて、皆に先で帰ってもらって、結果一人で帰ったり、途中で心配してしてきてくれたという先輩と合流できなかったりで、結果僕の不景気のダイジェストのようになってしまった。でも、しこたま肉が食べられたし、楽しかったからまあよし。


 近頃、寝る以外の時間を部屋で過ごせなくなってしまった。とても寒いというのも理由のひとつだし、あまりきれいじゃない(その原因の一端は間違いなく僕にある)というのも理由のひとつだけど、誰か人がいないと不安になったからというのが最も大きな理由だと思う。たとえ静かにしている時でも、何かしら考えが頭の中に湧いてきて、それをいつでも誰かしらに共有することができる環境。逆に何も考えなくても、ただそこにいていいし、自分が話さなくても、誰かが目の前で会話を繰り広げてくれる環境。それを聞いているうちに、すっからかんだった自分の頭の中からアイデアや意見や、楽しさや嬉しさが湧き上がってきて、まだまだ自分も周りの人も捨てたもんじゃないと思える瞬間、自然と元気になれる環境。それは僕が寮で最も愛してきた事柄であり、これがいつまでもずっと続いたらいいなと思える数少ないものの一つだ。こんな御託を並び立てなくても、周りの人が巻き起こすアホな話はお腹が痛くなるほど面白い。ここにずっと留まっていられたら良いのにと思ったこともある。


 こんな僕が退寮して、一人暮らしをするとなったら一体どうなってしまうのだろうと静かな談話室で思いめぐらす。きっと話したいことがいくつも積もっていって、でもどこでも、誰にも話されずにそれらが忘れられていってしまうんだろうなと考える。いったいいくつもの、普通ならそうして埋もれていってしまうであろう、話を、表情を、感情を、心を拾ってもらったのだろうと考える。


 寮での思い出はほんとうに語り切れないほどあるが、僕にとって一番かけがえがなくて、大切なものは人と交わした数々の会話だ。誇張でも何でもなく大学に入ってからこの3年間で、人と交わした言葉の数・情報量はいずれも、大学に入る以前の僕のそれの総計をはるかに上回っているのではないかと思う。そうした会話を明確に一言一句再現することは出来ないが、その時大切だと思った相手の哲学や、表情や、感情、それを受けて僕が思ったこと、相手についての感覚は僕の心のどこかに今でも確かに残っていて、僕の思考や人格に確かに作用し、影響を与えている。


 高校までの僕は人と話すことが極端に少なかった、というわけではない。しかし、自分が発声する言葉の大部分は盛り上がった時に同調的に繰り出される内輪ノリのネタであった。それらが要らないものであるとは決して思わないが、自分の考えや日々思うこと、感じることを言語化して他者に伝えるということをその分あまりしなかった。そうしたものは他の人に伝えるものというより、誰にも言わず自分の中で転がしておき、深めていくものだと思っていたからというのと、単にそれを表明することに対して臆病だったというのがその理由だと思う。


 しかし、ここに来て僕のそのスタイルは一変した。ここでは、自分が何をどう思っているのかということが問われ、自分の立場を明確にして、意見を表明することを求められる。今では疲れ果てたものの、自分の意見を表明して、それを受けて相手がどう思うかフィードバックを受けるということは僕にとって新鮮で、とても刺激的なものであった。僕はそれに夢中になった。寮にはそういった土壌があって、眠っていた僕のそうした一面が萌芽したのだと思う。たちまちそうした僕の一面に時間や集中力、エネルギーが投下されて、突貫工事でそれが形成された。僕のペルソナである。多くの人が僕の人格と認識しているものの多くは実はこのペルソナである。僕はこれを不快に思っていたかというと必ずしもそうではない。周りから定義される自分像のなかで、気に入らないものが無かったわけではないが、多くのものはむしろ僕にとってむしろ心地よく、理想的な部分さえある。逆に言えば、心地よく、望ましいものであるからこそ、残ってきたものなのである。


 そうして、僕と周りの人によって形成されてきた僕の人格は、僕がそこからいなくなったら消えてしまうものなのだろうか。そう考えると結構悲しい。3年もの歳月をかけて作り上げてきた一種の作品とも言えるものを自分で壊してしまうのだ。今年出て行かなくても、早かれ遅かれそうなってしまうと考えると、皆はいったいどうやって自分の人格というものを何の支障もなく維持できているのだろうと不思議に思う。
 今までの環境を抜け出して、新たな環境に身を置くということは、必然的に自らの人格の変容を意味する、少なくとも僕の場合には。性格というものは、人格というものは人が思っているよりずっと不確かなものだ。


 確かなものが欲しい、ずっとそう思ってきた。出来れば何かしら形のあるものがいい。本も漫画も電子版のより紙のほうが良い。思い出も不確かなものだけど、少しでも残しておくために写真で残っていた方がいい。勝った負けたが分かるように対戦表が残っていた方がいい。日々あったことはすぐに忘れてしまうから、日記につけておきたい。
 そうは言ってみたものの、僕がこの3年間むきになって追い続けてきたものは、そういった形にならないものだ。何かしらの情緒・感覚といってもいい。目標が明確に定まらず漠然としたもの。そういったものに時間を費やし、精神的コストを払い続けた。それは時にはこれでよかったんだと思える確かな手ごたえを僕に残し、時には時間を浪費しているだけで周りの人が着実に能力を向上させていっているのに、自分は何一つとして手に入れられてはないのではないかという不安を僕に残していき、その度に去っていった。話は少し変わってしまうのだが、寝る前に明日はこういうことをしようと固く決意していても、次の朝起きた時にそれが跡形もなく消え去っているといったことを経験したことはないだろうか?僕にはこれが最近異常に多くて、先ほどの人格の話と相まって、昨日の自分と、今日の自分はほとんど完全に別人なのではないかとよく思う。かと思うと、バイト先に行けば、いつもの外面の良い僕を演じている自分に気づいて、飽き飽きとする。これでは確かなものなんて一つもないという格言さえ、確かなものではないではないかと。自分が見出し、思考し、発見したことであっても、そのアンチテーゼも常に成立するのでは、僕が見出したことの意味がほとんどない。〇〇は××でも△△でも、~~でもありうるし、そうでないかもしれないみたいなことを言ったとして、それに一体どれほどの価値があるのだろうか。


 話がよく分からない方向に行ってしまった。結論を言おう。今の僕は役割というものに埋没してしまっている。しかしながら、役割に埋没しているときが結局一番楽で、一番自己肯定ができる瞬間となってしまっている。役割に埋没することで得られる発見やスキルというものも確かにあるが、僕は現状それを一定程度までし尽くしたと思っていて、その状況に甘んじることに満足していない。
 安心感はというものはあまりにも心地よくて、ホメオスタシスが強くて、静かに僕の発展可能性を奪い、僕を腐らせてしまっている。僕はこれに抵抗しなければいけない。このままだと静かに野心と戦意を失っていってしまうから。まあ失ってもいいんだけどね。今はまだ諦めきれない。新しい可能性にかけてみたい。得られていない確かなものという不確かなものを追ってみたい。これまでの経験も役に立つと信じて。

最近の気持ちです。以上。

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