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読書記録:分類思考の世界

書名・分類思考の世界 ーなぜヒトは万物を「種」に分けるのか
著者・三中信宏

私の関心を量的に表す付箋の数は,多かった。
しかし,私には難しくて,めげそうになりながら読み終えた。
(読み終えたと言っても,最後の方はビビッときたところは内容を読めたが,それ以外のところは斜め読みだった。)

そうだな,この読書記録を書こうとしている今も,何だか頭が痛くなるくらいには,私には難しかった。多分,内容は,著者の書きたかったことのほんの一部しか理解できていない,もしかしたらほんの一部も理解できていない。

これを読書と言っていいのかという葛藤もあったが,自分の世界を広げるときはエネルギーが必要である。そういう意味では,世界が広がる一冊になったと言えよう。

ーーー

タテ思考とヨコ思考

私たちは世界に線を引くとき,どんなふうに引くだろう。

国境も,県境も,学区も線引きである。
性別によって分かれるトイレも,疾患の種類で分かれる病棟も,線引きである。あるいは,自分の両親,そのまた両親,そのまた両親・・・というように私たちは線で繋がっているとも言える。

前者をヨコ思考,後者をタテ思考と名付ける。
世界をある時間での断面で捉えるヨコ思考,
時空的な変遷で捉えるタテ思考というわけである。

ヨコ思考が分類学,タテ思考が系統学である。

ヨコ思考は「わける」ことで,
タテ思考は「つなぐ」ことで,
世界を体系化しようとする。

今まで両者を意識して線引きしてこなかったが,
タテとヨコ,それだけで世界の見え方が変わったような気分になる。


線はあるのか

世界に引かれた線は,さまざまある。
しかし,その線は人間がいなければない線である。
そう,国境も,日付変更線も,哺乳類や鳥類だって,私たちは線を引いているけれど,私たちがいなければ,その線は世界に存在しない。

だとすると,分類とは何なのか。
適切な,正しい分類は,あるのだろうか。

分類するとはどういうことなのか。

実際に分類をしてみる。
道端に生えている植物の葉,川原に落ちている石でも何でもいい。

葉を比べていると,あまりの情報量の多さに驚く。
葉脈の形もいろいろある,鋸歯だっていろいろある,まるで人間と同じように産毛が生えているようにも見える,薄いもの,厚いもの,いろいろ。

石を比べてみても,同じだ。
いろんな色の石がある,石からできた石(礫岩)もあれば,ザラザラの砂岩だってある,ゴツゴツした形,丸みを帯びた形,ぬめっとした感じのチャート。

分類をしてみる前後で変わったのは,自分自身の世界の見方である。

葉も石も変わらずそこにあったはずなのに,分類することを通して,自分自身がそれらをどのようにみるかが変わった。今まで見えなかったものが,見えるようになった。
(シダの扉を読んだ後,やたらとシダが目に入るようになったのと似ている。)

だとすると,分類は世界の見方を与えてくれるものであると言えそうである。
では,分類そのものは,どのようにして作られるのか?


分類するということ

(ここが本書の読みどころだが,アウトプットできるほど理解できていない。私なりに解釈して,自分の考えを書くことにする。)

分類することで世界の見方が変わるということは,世界の見方を変えるためには分類を変えればいい。
では,その分類は何かの目的に沿って恣意的に分類されたものであると言えよう。
だとすると,真に客観的な分類は存在しうるのか。

分類には必ずヒトが介入する。
その人がどのように世界を見ようとしているのか,その価値観が介入する。

世界に唯一の正しい線の引き方はない。
そもそも線は存在し得ない。

だからこそ,私たちは自分が見たいように世界を見る。
自分が見たい世界を見るための線を引く。

情報量が増える昨今,分類することで世界は捉えやすくなる。
一方で,分類することで見えなくなってしまうものもある。

私たちがヒトである以上,分類はやめられない。
だからこそ,それが世界の見方に影響を与えるのだということを,肝に銘じておきたいと思うのである。

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