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町田駅 逃げるよう出た京都、流れ着いた東京都 | Nekondara

「町田という街」を使いたいが、音が被って何やら気持ち悪いのでうまく書くことができない。音の表現として難しいことも重なってか、町田は街でないように思えてしまう。


ちょうど二十歳になったころ、京都を飛び出した。
自分のやってきたことに責任を持てなくなり、これからも辛いものにしか見えなくなり、逃げ出るように這い出ていった。お金もなく、仕事もなく、そんな状態で一体なにが得られるというのだろうか。そんなことにさえアタマを回す余裕もないくらい、追い詰められていた。

なぜぼくは町田という地域を選んだか。
京都にいた頃、とにかく勉強できる環境が見つからなかった。たまに府立図書館へ足を運んだが、常用するには遠い。かといって近くの図書館では自習スペースというものはなく、かといってぼくの住んでいたところの喫茶店などは中高生の溜まり場になっており、とても利用できる状態ではなかった。そして自宅では、両親との不和傾向が高まりプレッシャーで潰されそうになっていた。

そのプレッシャーや両親への憎しみが高まったとき、飛び出すことを決意した。その時期ということもあり、静かに勉強できる場所も同時に探していたのだった。そこで選ぶべきポイントだったのは、地価、自習できる図書館、公共交通機関の3点で、それを満たすのが町田であった。

どの程度認知されているかはさておき、東京都の図書館を蔵書数で並べた時に町田市立中央図書館はかなり上位である。そして地価的には多摩か町田となり、アクセス面で最終的に町田に軍配が上がったという流れである。

町田市は相模原市と隣接しており、そこを境川が流れている。ぼくはちょうどこの境川沿い、その中で町田寄りに住んでいた。ぼくの住んでいたところから北へ、つまり町田駅に向かって川沿いを歩いていくと川の土手へ下りられる場所へ出る。そこでは偶に子供が遊んでいたり、野良猫が寝転がっていたり、少し田舎っぽさのある場所が広がる。この川沿いは特に猫が多いらしく、近くの工場に住み着いて育てられていたり、毛並みも野良っぽさがなく、地域で育てられているような印象があった。

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そしてもうしばらく北へ上がると右手に「原町田青空ひろば」という公園が広がる。ぼくは一週間強ほどホームレスだった時期があり、その頃にこの公園にはお世話になった。比較的整備されており広い公園なので、昼は運動しているサラリーマンや、親子で遊びに来る人が多い場所だが、夜はホームレスが数人眠りに来ている。町田から出た後も、二度ほど通っているのだが、やはり夜はホームレスの人たちがいる。きっと今も住みやすいのであろう。

その公園からまた更に北へ暫く上がり、左手に橋が見えたあともそのまま真っ直ぐ進むと左手にネパール系のカレー屋さんが出てくる。よくある大衆向けのネパールカレーなのだが、ビールの入れ方が絶望的で、泡が半分ある。ひどい。

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そのまま真っ直ぐ行くと左手に不動産屋、リンリンハウス(去年閉店・テレクラ)、猫カフェが並び、正面にヨドバシカメラが見える。ビックカメラだったかもしれない。その頃には右手にJR町田駅南口が現れる。

JR町田駅は、北口はキャバクラなどの夜の店が並ぶ辺りもあるが、小田急線や百貨店があったり、商店街があったりと比較的明るい雰囲気である。一方で南口は陰翳な雰囲気を醸し出している。人通りは少なく、ラブホ街にもなっており、なんとなく暗い雰囲気が漂う。南口のヨドバシカメラ前では、深夜に出会い系の待ち合わせがあるようで、そういう噂も相まってやはり印象は暗い。

町田では1年ほどラーメン屋、古本屋、メイドカフェ(キッチン)で働いていた。町田でのラーメン屋といえば、北海道系のラーメン屋が有名なようだが、個人的によく行ったのは北口の「ど・みそ」というラーメン屋だと思う。

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老舗ではないのだが経営がうまくいっているようで、店舗を増やしたり、カップ麺も出たりと成長株になっている。ここの社長はもともと山一證券出身で、自主廃業した1997年の最後まで残ったメンバーでもある。

山一証券を題にした本は多々あるが、ドラマ化もしたこの本が涙なしには読むことができない。山一全盛期の頃は、四大証券の一つにも数えられており、特に法人に強かった(野村は個人だった)。そして、人徳のある人も多かったり、さすがにラーメン屋はほかにいないだろうが、自主廃業後は独立したり、トレーダーとして活躍したり、他の証券会社でトップの成績を残したりしているので、強い人たちはどこにいても強いのだと改めて感じさせられる。


ぼくが働いていた古本屋は「高原書店」という。

町田に上京したころ、いや町田を上京と言っていいかは置いておくとして、Twitterで知り合っていた某ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の方にこの本屋を教えてもらった。丁度その頃、高原書店でも求人募集をしていたので偶然働くことになった。

高原書店は徳島に倉庫を持っており、ぼくの入ったころにはインターネットでの販売ルートが通常になりつつあった。先代の社長が永逝したこともあり、夫人が社長として勤めていた。但し、それまでは先代社長が本の仕入れから値付けまでを行っていたため、実際のところは店長が代わりにその業務を行っていた。遠藤周作や桜田常久との交流があり、また三浦しをんもアルバイトとして働いていたという豪華な顔ぶれがあり、更に四階建ての古本屋で品ぞろえも良く、ぼく個人としてもかなり助かっていた。しかし、去年閉店してしまったのは悲しい、だが中を見ていたぼくとしては仕方のない閉店なのかもしれないと感じている。


ぼくは個人宅向けへの飛び込み営業、即決営業をやっていたというやや珍しいキャリアを持っているのだが、そこで培われた経験上、町田は良いところである。「良い」とはあまりに多義的だから、もう少し掘っていく必要がある。
都心部のビジネスというのは、近年から対面から離れるような動きを見せていたのだが、特にコロナという影響を受けてからますますオンラインでのコミュニケーションがとられるようになっていった。当然、ワールドワイドな話をすれば物理的な拘束されないオンラインでのコミュニケーションというものが一部領域によって重宝されるのはぼくも理解が容易であるのだが、一方で訪問販売という泥臭いビジネスでは、人情ドラマというのが成果を生み出す世界であった。ツールが人間から離れて高度化し、人間も使いこなせないながらも高度化しようとする現代においては―そしてこれは都心部において特に人間性として顕著に表れやすい傾向があり―足で稼ぐビジネスというものは、効率性から言えば非常に悪いという事になる。

全てぼく個人の主観になるのだが例えば、東京、横浜、名古屋、大阪、福岡などのエリアが全て人間性が希薄になりやすいかと言えば、そういうわけではない。23区で例を挙げるのであれば、品川区、目黒区、渋谷区、港区、中野区、千代田区、中央区を除いた区民の方々で、ぼくは顧客をもっていた。地理的な考察を表面的に行うと、基本的に都府県を跨ぐ位置に立地しているエリア、特に川沿いでは、住民の感覚が高度化していない。同じく23区で言うのであれば、江戸川などは顕著にその傾向がある。そしてこれは23区だけの話ではなく、多摩川以南である川崎もそうであるし、前橋と高崎でもまったく違う形容であるし、所沢と熊谷や深谷もまた違うし、そして何より町田というエリアも例に漏れず、温和な街であった。ちなみにぼくは京都の人間は疎外的であるという話は、結構信じている。


話の順番は前後してしまったが、ぼくは町田を出たあとにもう一度町田を拠点として働いている。1年ほどしか居なかった街だから、思い入れが深いわけではない。けれど、あの暗くて孤独だった町田で、同じように身を寄せた友人や、彼女がいた経験は、蠱惑的にぼくを町田という街に縛り付ける。怯えるように現実から逃げ、まるで冬のコンビニにずっと屯するかのように、相手の存在を、温度を、形を確かめるかのように過ごした1年。そして何も残さないまま去ることになった街。ここで得たものは、ぼくの中に実体として何も繋ぎ止めることは無かった。好きでも嫌いでもない、ただ自分自身の昔を振り返れば、偶然ではなく必然的にその場所にいたのだと思わされる。

恐らく、町田という場所で長い間育ち、働く人はあまり多くない。感覚的でいえば、部外者が街を形成したのだろうと思われる痕跡ばかりだ。そんな街を3年ぶりに歩いたとき、やはり自分の体験を街に住み人たちに重ね合わせてしまう。自然な雰囲気を残しつつ、部分的には都会擬きであり、部分的には歌舞伎町擬きであり、死んだような目で夜のラーメン屋にはサラリーマンがおり、その隣でキャバ嬢とホストは店の壁を破壊する。

あまりに継ぎ接ぎだらけだが、人の温かさもある。都内というには脆く、地方というには出来すぎた街。まさに、「私は私でなく、私でなくもない」を体現し得る街であった。


■Nekondara (@nekondara)
手ぶらで京都から町田へ上京。その後、訪問販売にて身を立てるが月稼働300時間を超える日々が続き、同社不動産事業へ出向。中古不動産×リノベーションで売上を立てるものの退屈に耐えられずIT業界へ転職。新米エンジニア兼営業として従事中。最近はSICPと文化人類学に格闘中で、月ごとの体調に振り回されている。

*このエッセイは、住んで暮らす東京の街についてのエッセイ集『あの街』第2号の収録作品です。
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