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さよならをおしえて

ひらがなで書かれた字面を追っていると、ゲシュタルト崩壊しそうになる。もとはフランスの歌手、フランソワーズ・アルディが1968年に発表した楽曲「さよならを教えて」(原題: Comment te dire adieu)であるが、ここで扱っているのは戸川純のカバーである。

TOTOウォシュレットの恩恵にあずかっている人は多く、これがないとダメという日本人は多いと思う。だが、「戸川純」を知っている、また覚えている人はどれくらいいるのだろう。「おしりだって洗って欲しい」。このコピーとともに、われらが純ちゃんは、TOTOウォシュレットの普及に一躍買っていたのである。不思議ちゃんの元祖ともいわれる戸川純である。ランドセルをしょって、「玉姫様」を歌っていた彼女も、もう還暦である。

彼女の曲の中で私が一番好きなのは「蛹化(むし)の女」である。

『月光の白き林で木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出てきし ああ ああ それはあなたを想いすぎて変わり果てた私の姿 月光も凍てつく森で樹液すする私は虫の女~』

有名なバロック音楽であるパッヘルベルのカノン(聞けばああ、あの曲ってわかる)に乗って絞り出すように歌われる絶望の果ての歌。極限に内向した魂が蛹と化し、植物に寄生されゆく幻想的で美しい情景が浮かぶ。その美しさの根底にあるのは、欺瞞のなさと思われる。正直でストレート。そのまんま。彼女の書く歌詞は、飾るところがなく、そのままの心情を吐き出すように、魂から絞り出すように表現している。肉を抉るような、肌がひりつくような、目の奥が熱くなるような、そんな衝撃を彼女の歌からは受けていた。

私は、このストレートさが好きなのだ。良く見せようとか、他人からどう見えるかとか、(実はあるのかもしれないが)そういういかがわしさとは一線を画したありかた。白か黒かでいったら、真っ白。生身すぎて、傷ついてばかりいるのではないかと思う。この種類の人間は、ある意味社会的に「傍迷惑」だったりするのだが、私は、どちらかというとこのような人間が好きなのである(仕事の時は困ってしまうのだが)。

さて「さよならをおしえて」である。

何故これが思い出の曲かというと、単純にカラオケで沢山歌った曲だからである。これほど強い想いがあるだろうか、と若かりし頃の自分は、本当に魂を込めて歌っていた。それこそ女優になりきって。

『私は待っているわ 愛してくれるまで
貴方を待っているわ さようなら~♪』

ロリータ声で歌いだす。かわいいラブソングかと思う歌い出し。

一転して朗々と語りだす。

例え大惨事が起きて 濁流が走り
街中が廃墟と化しても
シェルターの重い扉を開けて
貴方の名前を呼ぶ私

シェルター・・・って。重い、重すぎる。

『私は待っているわ 愛してくれるまで
貴方を待っているわ さようなら さようなら』

例え私が事故で死んでも
ほっとしちゃいけない
幽霊になってもどって来るわ
貴方の名前を呼ぶ為に

怖いですね。でも、それほど真剣。それほど純粋な「好き」というものに憧れて、それほどの強い「想い」に憧れて、この歌を歌いちらかしていた。ストーカーという言葉もなかったと思う。ちなみに現実的に好きな人などはいなかった。私は観念的な人間だったのだ。

『好き好き大好き』『肉屋のように』

大好きだった。よく歌った。

一般には引かれるようなえげつない歌詞だけれど、

歌うと、受けた。みんな、笑ってくれた。

いい時代だったなあ。

ちなみにその後、「椎名林檎」時代に移行する。わかりやすいね!





#思い出の曲

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