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ジャグリングは始まっている

趣味でジャグリングをする。でも他にもやりたいことが多くて忙しい中でなんとしても時間を捻出してやるほどの情熱もなく、ジャグリングが好きなのかよくわからなくなってしまった。ぼくにとってジャグリングの魅力はなんだったのか?思い出しながら、探ってみたい。

最初にジャグリングをした思い出は幼少期、おばあちゃんに教わってだった。ただし、そのころはお手玉と呼んでいた。右手で投げたお手玉を左手でキャッチし素早く右手に渡すという動作を、2つで繰り返すあれだ。でも2つのお手玉に2つの手だと、両手に1つずつお手玉を持って好きな時に休めてしまうので簡単だろう。3つになると、落ちてくるお手玉をキャッチするためにどちらかの手を空けなければならないため、途中で止められないスリルが生まれる。これが幼少期の楽しかった記憶だが、ぼくがお手玉をジャグリングと呼びはじめるのは、それからずいぶん経ってからのことだ。

数学が好きだったぼくは、中高生のころ「大学への数学」という雑誌を読んでいた。この雑誌は、受験勉強に役立つのはもちろんのこと、学校の授業よりもちょっと踏み込んでいるし、数学に関連する様々な記事は若い知的好奇心を満たしてくれた。著名な学者も昔読者だったことを公言している人が何人もいるような歴史ある雑誌だ。この雑誌の最後の方のページに宿題というコーナーがある。このコーナーではチャレンジングな問題が出題され、わずかな正解者の名前が2ヶ月後に載る。とても1日で解けずに何日かかかって解いたりした記憶がある。

そのころ宿題を出題していたのはピーター・フランクルだった。彼は「たけし・逸見の平成教育委員会」に出演するなどテレビタレントとしても知られているが、数学者であり教育にも携わっていたため、この宿題コーナーを担当していたのだ。あるとき、条件を満たす数列がある性質を持つという問題が出題された。2ヶ月後の解答編でその数列の秘密が明かされたのだが、条件を満たす数列は実はジャグリングできる数列であるという。このような背景を持った問題が出題されたのは彼が大道芸人でもあるからだった。

534という数列はジャグリングできる。でも533はジャグリングできない。なぜならボールがぶつかってしまうからだ。そんな不思議な数列の話を聞いて興味を持ち、ぼくはジャグリングをやり始めた。もちろんいきなり534を投げようと思っても頭が混乱して投げられない。それを一部のボールを抜いて簡単なパターンを繰り返すなどして、少しずつ体に覚えさせていくことによって徐々にできるようになるのだ。なお、この数字はボールを投げてから同じボールを次に投げるまでの時間を表している。すごいのは、数列なしに思いつけないパターンを機械的に生成できることだろう。もちろんジャグリング可能な数列を作れたからと言って何でもかんでも良いパターンであるとは限らない。しかしたとえば5つボールのパターンだと、744、753、645、88441、97531といった数列はシンプルで軌道が美しく、ステージでも使われる。

ジャグリングと数字の相性がいいのは、N個のモノを同時に扱うという性質によるのだろう。当然のように5個、6個、7個とたくさん投げることにも熱中する。N個のモノをN回キャッチすることをフラッシュ、2N回キャッチすることをクオリファイと呼んで最初はそれを目指し、できるようになったらそれ以上に長く続ける練習をする。だからジャグリング中は頭の中で「1、2、3、4、5、…」と数えてしまうくせがある人も多いのではないだろうか。でもジャグリングは数字だけではない。

同じ数列パターンでも「別のやり方」でジャグリングできるのだ。たとえば、夢中になったキャリーという技がある。これは数字の上では3つのボールを左右の手で交互に投げるという基本パターンと同じである。でも「別のやり方」なのだ。手を左右対象に配置し、投げたボールが落ちてくるのを下で待ち構えて掴むというのを最も普通のやり方としよう。これに対し、キャリーでは右手が常に目線の位置、つまり高い位置にとどまったままだ。そして、左手で投げたボールを最高到達点で右手の手のひらを下向きにしてキャッチし、地面と平行に左方向へスライドさせる。そして左手の真上まで移動したところで、ボールを放して自由落下させるのだ。そのボールは左手にストンと収まる。これを3つのボールすべてが同じ動きをするように続けるのだ。この技を平然とやるパフォーマーをはじめて生で見た時、常識をひっくりかえすような不思議な光景を生身の体で生み出していることに感動して心が揺さぶられ、帰ってむちゃくちゃ練習した。

ジャグリングには「別のやり方」を探っていく楽しさがある。みんなどうやって探るのだろう?たとえば言葉で書き出してみる。「どこで?」背中のうしろで。腕の下で。足の下で。首のうしろで。高い位置で。低い位置で。横で。「何で?」手で。頭で。ひじで。肩で。足で。口で。「どのように?」腕をからませて。腕を伸ばして。手首をひねって。速く。ゆっくり。同時に。でたらめに。「どうする?」投げる。キャッチする。転がす。はさむ。置く。はじく。回す。これらを組み合わせるだけでも「別のやり方」を探っていくことはできるだろう。でも数列と同じで「別のやり方」であればなんでもよいわけではない。キャリーのような見る人の心を震わせるような動きを生み出すには、時に美的感覚も動員しつつ精神的および身体的に試行錯誤する必要がある。だから夢中になるのかもしれないと思う。でもジャグリングは「別のやり方」だけではない。

「別のモノ」でジャグリングをすることでまた可能性が広がるのだ。たとえばリングという道具がある。リングは穴の空いた平面的な円形であり回転自由度を持っているため、ボールとは全く異なる使い方ができる。見る方向によって円に見えたり、楕円に見えたり、線に見えたりする。円形なので地面や体の上を転がすことができる。穴が空いているので突き出た部分があれば掛けられるし、モノを通せるし、穴のまわりで回すこともできる。リングと同じ平面上の軸回りで回転させると見え方が変わる。こうやってリングだけが持つ性質を発見し、それを使って新しい、時に美しく時に驚くべき表現を生み出していくことができるのだ。このように考えていると、ジャグリングというのはモノと向き合って観察し、静的動的な性質を見つけ、自分の体を使って作用していくことかもしれない。

他によく使われる道具を挙げると、クラブ(こん棒)や先に火をつけたトーチ、バウンスするボール、ふわふわ落ちてくるスカーフなんかもある。地位を確立した道具たちだけあって、置いてあれば手が伸びてしまいそうだ。しかし、先程書いたようにジャグリングがモノと向き合うことから始まるのであれば、なんでもいいはずなのだ。ジャグリングショップで売っている標準的な道具でなくても「別のモノ」を見つけても、作ってもいい。そこにもおもしろみがある。

冒頭の話に戻る。ジャグリングを練習していると、なかなか安定しない練習中の技が自分の中で積み上がってくる。それを練習メニューに組み込んでいくと、それだけであふれてしまって淀みが発生し、新鮮味と情熱を失う原因になっていたのかもしれない。しかし、できない技をがんばって練習するというのはジャグリングの一側面に過ぎなかったはずなのだ。実はモノに向き合って観察するところからジャグリングはもう始まっている。そこに立ち返ってみたいと思う。

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