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走った味

さっきから汗が頬や鼻の下、くちびるを伝って口の中へと流れ込んでいる。「うまい。」意外にも忘れていたが塩を舐めたければ自分で作ればよい。この季節は湿度が高く、蒸発しきらない汗は水滴となって顔の表面から口へと流れ込み、走りはじめて10分でおいしい塩が舐められる。これは自粛生活の中、外を走るようになって思い出したことだ。ジムのランニングマシンで走っていた時は忘れていた。

会社員として働き始めてからしばらくして、ジムに行く習慣が定着した。学生時代は平日の昼間も毎日のように激しく体を動かしていたが、会社で働き始めたら急に日中の時間を拘束され、運動などできなくなった。さらに長時間椅子に座ってやる仕事のため、急激な生活の変化で体が一気になまってしまった。それを解消するためには短時間で効率的に体を動かす必要があり、ジムが最適だったのだ。

ジムは同じ曜日の同じ時間、2時間程度に筋トレと有酸素運動を詰め込み、シャワーを浴びて効率よくスッキリできるパッケージだ。ランニングマシンでは、前方に設置されたテレビを見ながら、足に負担のかからないゴムの上を、最初に設定した一定の速度で走る。だから走ることで景色は変わらないし、変化にさらされない。空調も効いてるから汗の味を忘れていたわけか。

コースは決めていない。準備運動もせず、以前海外旅行中に走ろうと思って買ったが、カゼをひいて一度も使わなかったユニクロのスウェットパンツを履き、ポケットに家の鍵と5円玉だけ放り込んで走り出した。

道を走っていると信号で待たされる。走ってる途中で止まるのは良くないと思い込んでいるので、できるだけ止まりたくない。信号に差し掛かるときは常に青だったらよいのにと思う。原因はおそらく体育の授業で教わった、走った後は急に止まらずに最後は歩いてクールダウンしましょうっていうあれだ。でもいつも赤だし長い。何度か走ってるうちに、信号の赤も環境の一部として楽しめるようになったが。

近所のランドマークなのにほとんど行ったことがない城へ向かって走る。城の周りは起伏が激しい。天守閣や広場をつなぐように複雑に枝分かれする道は、いろいろな歩き方を楽しめる散策コースになっており、階段も石畳の坂道もある。分かれ道では気分で道を選ぶ。違う景色へ。ここは家からせいぜい1km以内の場所だよな。でもなぜか来たことがない。近所にこんな未知の世界があったとは。自分の足音と、自分の呼吸を聞きながら、ただ緑のシダ植物や樹木の生い茂る美しい世界に迎えられる場所。今、鷹と散歩している人とすれ違ったぞ。

公園を抜けて町中へ出る。知らない小さなラーメン屋に、背広を着てラーメンを食べているおじさんの背中が見える。そこはかとない昭和感と町中華のにおい。

それにしても走っていると、近所なのに知らない場所にいることが不思議だ。この交差点は通勤中にいつも通るが、朝は北から南へ、夜は南から北へ歩くと決まっている。その交差点を西から東へ走り抜けることに違和感がある。この交差点はこんな風にも見えるのかと。知らない惣菜屋があった。会社帰りらしい人が袋をさげて出てくるのを追い抜いていく。もしここが通勤路ならぼくも惣菜を買って帰るのかもしれない。ここには全く別の生活があり、近いのに遠かった場所と生活があることを感じられる。

公園のアスレチックが見えたので寄っていこう。走るだけでなくボルダリングと綱渡りもして体の使い方に変化をつけていくのだ。思ったより腕力とバランス感覚を要求されて気に入った。「もうちょっと遊んでいくぅ。」と母親に要求していた子供が不思議そうにこちらを見ている。

建物に左右を切り取られると空も違って見えるのをおもしろく思いながら、大学のキャンパスを走り抜ける。そして神社へ。立派な鳥居を走ったままくぐって、参道の砂利を鳴らしながら拝殿へと進む。ポケットから取り出した5円玉を投げてしばし手を合わせる。ランニング中に突如として目をつぶり自分のこれからを願う静かな時間。走るたびにお参りをすることで、コンスタントに自分の気持ちと向き合う時間を確保できるようになったのは意外な収穫かもしれない。狛犬にあいさつをして神社をあとにする。

横断歩道が赤なので歩道橋を走り、入り口が電飾で彩られたラブホテルの薄暗い駐車場を走り抜ける。走り始めはちょっとしんどいが、走っているうちに体も気分も軽く楽しくなってきて、いくらでも走れそうな気分になってくる。なぜだろう。

カメムシやヘクソカズラ、町中華や排気ガスの匂い。風を切る髪や鳥のさえずりに羽ばたき、音響信号や車のエンジン音や自分の足音と息遣い。汗や空気の味。季節や天気や時間帯によって変化する感じ。すれ違っていく、近くて遠い人々の確かにそこにある生活。走っているあいだにいろいろなものが自分の中に入ってくる感じがする。普段の生活の中でいつのまにか忘れてしまっていたそれらを、ぼくは欲していたから、力が湧いてくるのかもしれない。今日はどっちへ行こう。

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