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プリセット販売に疑問を抱く

最近、SNS上のphotographerの間でプリセット販売が流行している。
今に限らず、何年も前から海外を中心にプリセットの販売は行われており、無料のものから有料のものまで幅広く存在する。
最近の日本ではプリセット販売が加熱し、10,000円を超えるものまで出てきた。

結論、私はプリセット販売に対して良い思いを持っていない。
購入する消費者側にも疑問を持っているが、私が一番の疑問を抱いているのは、販売する写真家側である。
まあ、販売するのも、購入するのも個人の判断であるから否定はしないが、なぜ販売するのか、購入するのか私には理解できない部分がある。

今回は、私がなぜプリセット販売に疑問を抱いているのかということを、記録写真をメインで撮影する私の立場から話したいと思う(つまり写真作家や広告写真、芸術写真家ではないということを理解いただきたい)。
私の理解に及ばない点もあるだろうから、プリセット販売に対する前向きな意見をぜひ受け付けたい。コメントをしていただければと思う。
ちなみに私の写真に対する考え方は以下を参考に。


プリセット販売の先にあるもの

プリセットを販売した結果、どうなることが予想されるか考えてみる。
写真を始めたばかりで、どう編集すればいいかわからない、あの人の写真の色を再現したいという人には打って付けだろう。ボタンひとつでエモい写真にかわる。
それは自体に問題はないと思う。

広告写真や芸術写真ではまた異なるだろうが、広く使われる写真の用途は記録写真だ。
写真を始めた多くの方がこれらに該当し、SNS上でもいわゆる「ファインダー越しの私の世界」の写真が大半を占める。旅先での風景を記録したい、友人と撮り合いっこをして写真に残したい、楽しみたい。
記録写真は自分自身が対峙した風景や、自分と世界との関わりを記録するものだ。

これらの記録写真に重要なのは、色味ではなく、なにをどういう思いで撮るかだ。
ボタン1つで憧れの写真家と同じような色を再現できるようになってしまうと、本来撮られるべきだった「あなたが見た世界」「あなたと対峙した世界」ではなく、このプリセットに合う写真、あるいは「こう撮るとあの人みたいな写真になるかな」という、あなたが写真を始めたきっかけからかけ離れた写真が生成される。そしてそれをSNS上で何人ものユーザーが使用し、同じ写真が量産されるわけだ。

写真にはもっと素敵な役割があるじゃないか

いい写真の定義とは人それぞれだが、私が行き着いたのは先ほども述べたように「自分と世界の関わり」が写し出されたものだ。

構図や、カメラの知識、そしてプリセットの色味、これらは全て練習や経験によって極論、誰でも習得できるものだ。つまり再現性があるものだ。
では、誰もが習得できない、真似できないものは何かというと、それはあなたと世界の関わりである。

一般化して家族写真を例に挙げてみよう。
あなたがカメラを構えて、あなたの家族を撮るとする。そうすると家族は笑顔だったり、ふざけたりリラックスした表情で写真に写るだろう。
対して、これが知らない不審なストリートスナッパーにいきなりカメラを向けられるとどうなるだろうか。怖い顔、怯えた顔、あるいは怒ったような表情で写真に写るだろう。

これが私のいう、「自分と世界の関わり」である。家族写真のその笑顔はあなたにしか撮れない。
その家族写真は、フィルムライクであろうと、コントラストが強くあろうと、あるいは白黒であろうと最終的な写真の良し悪しは色味に依存しない。

重要なのは、”あなたが”が撮った”家族”が記録されているということ。
そして、あなたが記録した家族(風景)は、ずっとあなたの側にいるわけではないということを改めて理解してほしい。

私が疑問(ここまで来ると義憤と言ってもいいだろう)を持っているのは、プリセット販売によって、本来あなたが撮るべきであった、あなたと世界の関わりが撮られないことだ。
世で販売されるプリセットは「写真がドラマチックに」「あなたの写真が劇的に変わる」というような謳い文句で出回っているが、そのプリセットにより、SNSで持て囃されるような写真ばかりを撮ってしまわないだろうか。
元の写真は一緒なのに、写真が劇的に変わって何がいいんだ…?プリセットの色味が正解であると思い込み、プリセットが反映されていない撮って出しの写真に価値を感じなくなるのではないか?

繰り返すが、プリセットによって本来あなたが記録するべきものではなく、SNS上での評判を意識したり、誰かの写真を意識した第三者の再現可能な写真が増えてゆくことに私は義憤を感じる。
その瞬間、あなたしか撮影できない風景を差し置いて、プリセットで再現可能である写真を生成する必要性はあるのだろうか。

写真は方法論ではない

私はできる限り楽をしたいという性格なので、他人が作り上げたプリセットで苦労もせず写真を作るなというようなことは言わない。

消費者側はここまで考えていない(考える必要もない)のは重々承知しているし、「楽しむ分にはそれでいいじゃん」それはそうだ。
一番問題なのは、そういった写真のあり方に軸がある”はず”の写真家側が自ら写真の楽しみや本来撮影するべきものを奪うような真似をしている、そして写真を楽しむ人を思考停止させていることである。

プリセットを販売する写真家はなにを思って販売しているんだろうか。
同じような写真が量産されることを望んでいるんだろうか。
プリセットを反映するだけで全ての写真がよくなると思っているんだろうか。
プリセットで写真の楽しさを広めたいということであれば、写真教室をやったり、撮影会を開催する方がよっぽど有意義ではないか?

もちろん稼ぎがなければ写真家はできないので、何かを販売したりお金をいただくことは全く否定しない。

私は一枚でも多くの「あなたと世界の関わり」が記録された写真が残ることに価値があると思っているし、そう言った写真が生み出すパワーは時を超えて誰かに突き刺さると信じている。私が亡き祖母の写った写真を見て感じたように。
写真は方法論ではない。
だから私であればそう言った写真が広まるように、写真教室みたいなものをやる、プリントを販売する、あるいは金が必要であるのならパトロンになってくださいとお願いをする。

プリセット販売をしている写真家の思想はわからないため、もし販売している写真家やあるいは過去に販売していたという方はコメントで「なぜ販売しているのか」ということを教えていただきたい。
私の理解の及ばないところもあるはずだから、新しい知見を得たいと思っている。

純粋に記録していこうや

購入する側に対しても、あなたが撮りたかったものはプリセットを購入することで達成されるのか?ということは問いたい。
元々、ノスタルジーな雰囲気や憧れの写真家の色味の写真を私も撮りたいと思って写真を始めたのなら、何も文句はない。
ただ、ここまで読んでくださったのなら、それはそれとして、あなたと世界の関わりを記録するのもまた新しい写真の楽しみになるのではないだろうか。
10,000円という高価なプリセットを買って写真を楽しむのもいいかもしれないが、写真集を買ってみたり、写真展に行って方法論ではないモノを勉強するのも有意義であると思う。

そしてそのような個人の「世界との関わり方」が記録された写真たちが積み重なった時、令和という時代が、日本という国が映し出された素敵な写真群になると私は思っている。

私はYouTubeとInstagramにていつか見れなくなってしまうかもしれない風景や、私と世界との関わりを記録した写真を公開している。
よければ見ていただけたらと。


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