大江健三郎『他人の足』を読んで

すごい小説を読んでしまった。私はほとんど泣きそうだった。一つには私自身がいつ治るのかわからない病気を抱えているからで、外部から、そして正常ということから、縁遠くなっていた。長らく病気を患っていると、奇妙な平衡状態と呼べるものに到達するというのは、一定の理解を得られることだと思う。正常ならば正常の範囲内で起こる日常の変動が、正常の範囲から外れたところで起こるようになるのだ。

私は適応障害を患っている。かれこれ3年以上、薬を変え、環境を変え、どうにか正常に戻ろうとしてきたはずなのだが、感覚としては、私は治ろうとしていないのではないかと思う。研究室に行けず、全て完全な調和の中、閉じた世界の中で無為に1日が生起し、果てていく。私は脊椎カリエスの少年たちほど達観できていないから、日々苦しみを感じて呻吟するのだけれど。

脊椎カリエスの少年たちが暮らす隔離病棟では、ゆるゆるとした快楽が日々の上を流れていく。僕をはじめとした少年たちは病気が治る希望を持っておらず、猥雑な笑いや囁き声がサンルームを渡る。隔離病棟はある種の箱庭であり、それだけで完結した世界であった、新しく学生がやって来るまでは。

新しくやって来た学生は、看護婦による性的な慰めを拒み、隔離病棟の少年たちを巻き込んで政党運動を始める。僕は学生を冷ややかに見守っていたが、少年たちは学生を囲むようになり、少年たちの原水爆に対する反対文は新聞に載って、運動は成功を収めたかのように思われた。

“自分が正常だと考えたら、皆に日常の誇りが帰って来るよ。そして生活がきちんとしてくると思うんだ。”

ある日、サンルームの外で、もう歩けないと宣告されていた学生が、自分の足で歩き出した。少年たちは拍手をして学生の回復を喜び、学生を祝おうと彼が帰って来るのを待った。僕もまた興奮して彼の帰りを待っていた。

しかし、帰ってきた学生の態度は冷淡だった。彼は最初今までのように彼らに接しようとしたが、すぐに彼は「正常」側の人間であることをあからさまにし、サンルームを出て行った。僕は結局学生が「本物」であるかどうか——彼が真の「正常」な均衡をもたらすかどうか——を見張っていた。僕は勝利したわけだが、勝利の感情はすぐに消えて行った。

その夜、僕は看護婦を呼んで慰めさせた。

“近頃、皆少し変だったじゃない? 私そう思っていたのよ。——なんだか変だったわよ、近頃ずっと。”

病んだ病棟に新たな均衡を、健康的で正常な均衡、外部との繋がりをもたらそうとした学生は、残酷なまでにあっさりと、「正常」の側に立ち戻ったことを宣言し、「異常」な世界を突き放した。

病気の私には、寄り添おうとして近づいて来る人間がたまにいる。そして大抵は、私の置かれた「異常」な世界にそれでも存在している均衡に気づかずに、新たな「正常」な均衡を押し付けようとする。しかし、新たな均衡を作り出そうとすることは、既存の均衡を破壊することだ。

「異常」な世界に侵食されることを恐れた人間が去っていくと、私の世界の均衡は、速やかに元の「異常」へと戻っていく。過程は徒労である。「正常」な世界——外部の世界——と「異常」な世界は結局断絶されていて、交わることはない。稀に「正常」な世界へと帰ることができた者を、静かに見送るだけてある。

しかし、僕は「外部」が急速に去っていくことに動揺を覚え、「異常」な世界の「異常」な均衡を早急に回復することに焦りを感じたようにも思える。というのも、最後僕はあえて以前の習慣を再現することで以前の均衡を取り戻すために、看護婦を呼んだからだ。

僕が学生から距離を置いて監視していたのは、学生がもたらした新たな均衡が本当に確かなものなのか不安に思いながらも、微かな憧れを感じていたからではないかと、私は考える。「異常」な均衡に身を落ち着けているようでいて、「異常者」には「正常」への、「外部」への渇望がある。「異常者」が「正常」に憧れ、しかし手にすることができない葛藤を、苦しみを、この文章から感じ取ることができる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?