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還暦不行届 第二回 遺伝子(全文無料)

監督がベジタリアンであることは今までエッセイなどでも書いてきたので
ご存じのかたもいるかと思う。

正確に言えば肉と魚介類を全く食べないだけで
野菜が好きなわけではない。
たまごや乳製品は食べるので
ジャンルとしては「ラクトオボベジタリアン」
と言うものになるらしい。

ところでどうしてそうなったのか。

義母の話によると幼稚園くらいまではお魚も
食べたらしいのだが、(山口なので魚がとても美味しい)
ある日テレビアニメでお魚たちがキャラクターとして出てくるものを観てしまいその日を境にピタリと食べなくなったとの事だった。

泣いたり笑ったりしているお魚を見て生き物だと認識した途端、食べられなくなったのを監督はあまり覚えてないと言う。
全て義母から聞いた話である。

その義母だが、この人もまたなかなかの偏食家で
ネギやニンニクのような香りの強い野菜が嫌い。
加糖ヨーグルトは食べるがチーズやバターはダメ。
梅干しや漬け物など酸っぱいものは食べられない。
更には辛いものは絶対NG、
庵野家のカレーはバーモントカレーの甘口と決まっていた。

魚は青魚とまぐろが嫌いで
白身とエビしか食べない。
肉も鶏豚は嫌いで牛のみ。

監督はいっそのことベジタリアンで通せるが
義母の場合はひとことで片付けられない。
いや、ひとことで言ってやる。
異常に好き嫌いが多い。

そのようなお2人含む家族で、
旅館などに泊まりに行くとどういうことになるか。

嫁の私の仕事は旅館に
確認することから始まる。
「すみませんが、肉と魚介類一切がダメだけど乳製品は好きな者と
お刺身は白身とエビのみ、肉は牛のみ、チーズとバター不使用で辛いもの香味野菜が一切ダメな者の対応を…」

もちろん割と高い率で断られる。

受けてくれたとしても喜ぶ暇はない。
何度も何度も確認の連絡が来る。
「おだしは魚もだめですか?」
「お母様の方はたまごは召し上がりますか?」
などが五月雨式にどんどんやってくるので
テニスの壁打ち並みに打ち返して行く作業が待っているのだ。

それでも料理が出るまで油断はできない。
予期せぬ伏兵が出ることもある。

一度義母の希望で行ったレストランにて
鹿の刺身で作ったカルパッチョが出た。
見た瞬間からこんなもん食えるかと言う顔をするので、鶏でも豚でもないしどちらかと言うと牛の赤身に近いのだと説明したが生なのがいやだと言う。

じゃあ前菜をホタテに変えてもらうかと聞けば
肉は食べたいと言う。
うーんわがまま。

仕方ないのでお給仕の人を呼び
「すみません、このカルパッチョを焼いてください」と頼んだ。
これが身内だけで有名な
「カルパッチョ焼かせ事件」である。

旅行や食事に行くと
そんな事のオンパレードで正直くたびれるが
最後にニコニコしながら
「おなか満腹!」と言う義母を見ると
許せてしまう。

おなかいっぱい、ではないのか?
満腹の腹とおなか、が重複しているのではないか
など細かいことが気になるが
そう言った独特の言い回しが可愛いらしい。
つくづく得な性質の人だ。

この「おなか満腹」は
義母の真似をするとき便利なため
夫婦間でしばらく流行していた。

注意して観ていただくと「キューティーハニー」や「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」、「シン・ウルトラマン」などにもこの
「おなか満腹」と言うセリフが出てくる。

間違えてはないかもしれないが
正しい言い回しでもなく
どこかで私のような微妙な
気持ちになっている人がいるのではないか…

そのように心配になったので
ここにその言葉の出どころを解説させていただいた。

義母です。

・・・

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「監督不行届」は安野モヨコと庵野秀明夫婦のディープな日常を綴ったエッセイ漫画。「フィール・ヤング」で2002年から2004年まで連載していた作品です。【試し読みはこちらから】

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