見出し画像

『鼻下長紳士回顧録』で描く娼婦と奇異な欲望を持つ紳士たち|季刊エス インタビュー

季刊エス」Vol.51 2015 Autumn に掲載された安野モヨコのインタビューをnoteに再掲載いたします。インタビューの内容は2015年の掲載当時のものになります。(スタッフ)

安野モヨコはこれまで週刊連載をはじめ、たくさんの漫画を描いてきた。しかしここ数年は活動の場をすこし変えている。『オチビサン』のカラー漫画や絵本、「まめつぶ屋」の雑貨、ポショワール絵の展示、インターネットではInstgramでスケッチを発表、そして「美人画報」シリーズの新作「微沈画報」やよろず人生相談『ともしび相談会』も読めるメルマガ。
漫画以外のいろんな形で、作家の絵や言葉に触れられるようになった。漫画家はその気になれば、いろんな活動が出来るのではないか。安野モヨコの最近の動向を見ていると、そんな可能性に気づかされる。
しかも作家個人の表現を見つめられるような親密さが伝わってくるのが魅了的だ。
そして、安野モヨコは5年ぶりにストーリー漫画『鼻下長紳士回顧録』を発表。20世紀初頭のパリを舞台に、娼館「夜の卵」で働く娼婦コレットと、奇異な欲望を持つ紳士たちを描く物語だ。
官能的な妖しさを持つ娼婦の世界を、美しく力強く描いた本作の魅力を安野モヨコのインタビューで紹介! 

©moyoco anno 無許可転載禁止

――『鼻下長紳士回顧録』(以下、『鼻下長』と略記)は20世紀初頭のパリが舞台ですよね。以前、安野さんにポショワールのお話を伺いましたが、それも20世紀初頭のファッションプレートでよく使われた技法でしたね。バルビエの絵とか。
 
安野 あの時代のファッションプレートは、今のファッション誌に当たるもので、季節ごとに新しいモードをあれで配っていたんです。
商業と芸術のバランスがとても良いんですよね。
素敵なお洋服を売ることが目的ですから、お洋服を含めた背景や生活スタイルなどのシチュエーション全てが、女性にとって「憧れるもの」の結晶。
それが印刷された紙、と言うのが私にとってはやりたいことの筆頭だったりするんです。
 
――全体的なデザインも素敵ですね。
 
安野 あの時代の洋服が好き、ということもあると思います。
なんかゆったりしてるのに体に合っててね。
高級店の服だと特に布も良いし手縫いだし。
人が裁断して手で縫った服というのは、着た時の立体感、フィット感がぜんぜん違う。
昔の写真が素敵に見えるのは、そういうのも大きいと思います。
今は普通、化学繊維を使った大量生産の服を着ているじゃない?
気軽に着られるし、良いところもいっぱいあるんだけど、やっぱり何か違う。
言葉ではうまく説明できないけど。
家具もそうだし、室内にあるものも全部そうだと思う。
だから、絵としてはそういうものを描いていきたいと思います。
描けないんだけど、心の中でそう思って描く! みたいな(笑)。
 
――あと、ポショワールで描かれたファッションプレートは、シルエットで見せるようなスタイルで、ポップな面もありますよね。それは漫画と親和性がある気がします。
 
安野 省略して見せる感じでね。
昔の少女漫画家さんや、挿絵画家の方々も影響を受けていると思います。
バルビエを好きになって、改めて見てみたら、「私が子供の頃に好きだったこの先生のイラストは、ここからインスピレーションを受けていたんだ」と思ったものがいっぱいあります。
あと、日本の叙情画もかなり影響を受けていると思う。
構図とかバランスもね。
ただ、もともとあの頃はフランスの絵画自体が浮世絵の影響を強く受けていますからね。
それを、また日本人が良いと思って取り入れる。
文化交換というか循環して、そこからまた私も影響を受けているというわけです。
 
――面白いですね。今はまた、日本の漫画が世界に影響を与えていますし、本当に循環していると思います。バルビエといえば、『鼻下長』に協力としてクレジットされている鹿島茂さんはバルビエのコレクターで評論も書かれています。安野さんは鹿島さんと対談もされていますが、どんな刺激を受けましたか?
 
安野 鹿島先生は尋常じゃないエネルギーを古本に使っているんですよ。
たくさんエッセイを書いていらっしゃって、稼いでもどんどん惜しげなく古本につぎ込む(笑)。
そういう「やり切り感」に、私は上の世代の人の凄さを感じます。
古本の場合は買うことにも技術が要るように思います。
お金さえ出せば誰でも買えるわけじゃなくて。
古本屋の主人との駆け引きも必要。
質の高いコミュニケーションがあるからこそ、次に入荷する特別な本を教えてもらえたりする。長年の積み重ねがあるんですよね。
そうして買った本に囲まれて、自分の家の裏庭のようにパリのことを語っておられる。
漫画を描いていて苦労するのは、その世界観をいかに構築するか、ということなんだけど、絶対的な情報量が必要不可欠だと思います。
鎌倉が舞台の普通の生活の話なら描けますが、鎌倉幕府の歴史を踏まえて描こうと思ったら勉強しないと。
そういう時にほころびが生じると、読者の人にも伝わりますよね。
その点、鹿島先生は信じられないくらいの知識と情報がつまってらっしゃるんです。
そういう人が書いた本は、ちょっと読んだだけでも相当な栄養をもらうことができる。
私もそのおかげで『鼻下長』を描けているんだと思いますね。

――安野さんは、娼婦の生き方とビジュアル面の両方に興味があって今回の『鼻下長』を描かれたんでしょうか。
 
安野 うーん。結局は、今と同じなのかなと思って。
若い女の子がおしゃれをしたい、美味しいものも食べたい、といった時に、仕事がなかったらやることは一つ。
それは古今東西どの国でもそうなんだけど、私は今の日本とすごくカブるな、と思った。
生活苦で売春をする子もいるんだけど、ただ贅沢がしたくて売春をする子もいる。
当時のパリでは、お洋服屋さんの女店主が手引きをしたのよ。
今だったら、セレクトショップで「あー。このMIU MIU 欲しい!でも、先月あれを買っちゃったしな…。もうクレジットカードの分割も使いまくっているし…」と言う女の子に、ショップの人が「じゃあ、もう一個方法があるけど、どうする?」と言うようなものです。
そこで、どうしても欲しい! と思った女の子は、一回は我慢をしても、もう一回そういう誘いをされると、そこから崩れていく。
一度入ったらもう、麻痺していくのです。

――鹿島さんの『パリ、娼婦の館』『パリ、娼婦の街』を読んで印象的だったのは、19世紀末にはじめてパリにデパートが出来たことの衝撃でした。注文しなくても、店に行けば商品がズラッと並んでいるという光景がはじめて起こった。女性たちは「お金があればこれが手に入る!」と思ったことで、衝動的に大金が欲しくなる…。
 
安野 「もっと良いものがあるよ?」という感じですよね。
手袋だって、それまでは寒いからしていたのに、すごく贅沢な手袋を見てしまえば「わー!」と欲しくなっちゃう。
 
――でも、当時は女性がお金を稼ぐ方法があまりなかった…。
 
安野 あっても低賃金だしね。
お針子さんとかばっかりで。
それが今の日本と同じとは言わないけど近い部分はあるのかなと思います。

娼婦の暮らしぶり
『鼻下長紳士回顧録』の舞台は20世紀初頭のパリの娼館。逃げられない売春宿で娼婦たちが暮らしている。本作に協力としてクレジットされている鹿島茂の『パリ、娼婦の館』『パリ、娼婦の街』がこの世界を記しているが、そこには消費社会の発祥である「デパートの誕生」によって、贅沢に買い物をしたくなった女性たちが、金を得るために娼婦になったとある。『鼻下長紳士回顧録』でも第二話の冒頭で、美味しいものやファッション、娯楽に金を費やし、おしゃべりで刺激を求めている者が娼婦になるような女だと綴られていた。彼女たちをめぐる欲望の環境は、現代の私たちの状況と近しい。安野モヨコは舞台をスライドさせながら、現代の私たちの生き方を浮かび上がらせようとしたのだ。娼婦たちは奇妙な欲望を満たしに来る客の相手で疲れるが、主人公のコレットは「そんなに最悪って程でもない」と語る。娼館で過ごすなか、コレットは「この世の大抵のことはそういうプレイだって思えばしのげる」と感じるのだが、こういった彼女の鋭い感性は今後も注目していきたい物語の核だ。

――安野さんは叙情画を描いた時、昔の叙情画風ではなく、現代の叙情、現代の女性像を描きたいと言っていましたよね。「欲望の話」を描く場合は、現代に通じるところもありながら、舞台は違うところにしたんですね。
 
安野 時代をスライドさせることによって、描きたいことをストレートに描くことができるかな、と思いました。
 
――そうすれば象徴化されるところもありそうですね。それに現代より、ビジュアル的にドキドキさせられるところも多かったです。インテリアや衣装など、あの時代が持っている様式美が刺激的でした。それを描きたいところもあったのではないかと思います。
 
安野 もちろん。
でも、例えばナナは長い髪をしているけど、高級娼婦は流行の最先端にいる存在だから、本当なら短い髪をしているはずなの。
ただ、その時代のすごく売れている子の中には「みんながしているから、私はこういう髪型はしない!」と思う人がいても良いんじゃないか、そういう子だったら逆にこの髪型かな、と思って描いたんです。
当時の写真を見ると、みんな本当に全員短い髪型をしていて笑えるんですけど。 

――ベルエポックくらいでは、一般の人は髪を上に結い上げていますが、カルチャー的に進んでいる人はみんなこの髪型ですね。
 
安野 それまでは、こんな短い髪型はあり得なかったから、やってみたかったんじゃないかな。
ずっと髪を長くしていて、洗うのも結うのも大変だったでしょう。
短くなったらお風呂でしょっちゅう頭を洗えるし、楽しくてしょうがないと思う。
あと、この時代の人たちはパーティーとかで、死ぬほど激しく踊るでしょう?エネルギーがあふれまくっている。「動けるぜー!」と。
それまでは、長いドレスにコルセットでしずしずとしか歩けなかったんだから、すごい解放感だったと思う。
見てるとこっちまで元気になったりします。

娼婦のファッション
娼婦は仕事柄、衣服を重ね着したような恰好をしておらず、娼館のなかでは下着姿で描かれている。肌の見えるスタイルゆえに、アクセサリーが大事。耳飾り、ネックレス、髪の飾りは豊富だ。タイツやブーツ、ハイヒールなども脚線美をセクシーに盛り立てている。また、軽い羽織ものをまとうので、そこは鳥の羽や毛皮などを首に回したりもしている。アクセサリーや下着は女性ならではのアイテムなので、レースやフリルもふんだんに使い、女らしさが際立つ官能的な装いだ。また、高級娼婦であるナナが第6話に登場するが、彼女はドレスをまとい、穏やかで品のある恰好をしている。自宅で都合の良いときに客をとる特別な存在。見るからに扇情的ではない、落ち着いた振る舞いに貫録を感じる。

――髪形については、『シェリ』を書いた作家のコレットも、元は田舎娘で長いおさげだったのが、パリに出てきてショートカットにして、カルチャースターになっていきましたね。物書きであるところも、『鼻下長』の主役のコレットと重なります。
 
安野 もちろん要素にコレットは入っているので。
ボツにしちゃったんだけど、最初はコレットが田舎から家出してきて、一回結婚したんだけどダンナのDVがひどくて家を飛び出したという設定もありました。 

娼婦とヒモ
コレットにはレオンという思い人がいる。彼女が娼婦になったのはレオンが金のある女と浮気していたからだった。男に貢いでつなぎとめるために、彼女は深い沼に入った。レオンはいつも夢のような甘い愛を語り、軽やかに金の無心をする。ときに暴力もふるうが、これらは全てヒモがおこなう行為としては理想的だそうだ。ヒモとは娼婦が仕事をするためのモチベーションであり甲斐性。暴力ですら、無関心よりは愛を表す態度。安野モヨコは「その人がいるということで耐えられるから、逃げ場でもある」と語っていた。レオンはとても上手くやっているヒモだが、「ぜんぜんこっちの思った通りに動いてくれないけど、それが素敵だったりする。それはヒモの絶対的な条件。ただ『カッコ良い』とかじゃダメ」とのこと。娼婦が金を稼ぐためには、安心させてくれるよりも、いつも追いかける必要のある存在のほうが良い。自分が娼婦をして金を稼ぐのはこのためなんだという、「純粋な気持ち」を与えてくれるのが良いヒモなのだろう。

――そんな設定も考えられていたんですか。それも大変な…。それでは次に娼館のデザインのお話に移りたいのですが、当時のインテリアなどはいろいろ見たりされましたか?
 
安野 パリに何回か取材に行きました。
向こうでしか買えないメゾン・クローズの資料とか写真集もあるし。
お勘定書きとかお品書きの写真とかね。
あと、建物の設計図。お部屋の中をこう区切って小部屋を三つ作ったとかがわかるんです。
あとは、その当時のパリの地図。
どこにどの店があったのかを調べて、実際にその店に行ったりしました。
パリは景観を保存しているから、全部建物が残っているんです。
シャバネがあった場所でも写真を撮らせてもらいました。
階段とかはそのままなの。
お客さんが来る階までは手すりが凄く豪華なんだけど、女の人たちの居住区だった六階から七階は急に超簡素だった。
ハッキリとお金をかけていないんです。
あと地下室にも入ることができて、そこはちょっと驚愕するところでしたね。
今は物置なんだけど、けっこう手つかずで残っていて、作りが完全に秘密の接待部屋なんですよ。
だから、地下に降りる階段もおしゃれなタイルだった。
お客様の外套をかけるフックとか、すごく装飾的な椅子とかアコーディオン型のストーブもあってカッコ良かったですよ。
その時の取材はラッキーなことばかりで、有名な娼館だったワン・トゥー・トゥーの建物に行った時は、職人のおじいさんが入り口のリノベーションをしていたんです。
「この建物の写真を撮りたいんだけど」と言ったら、「何でだい?」と聞かれたので、理由を説明したら、おじいさんは昔そこが娼館だったことを知っていて、「君たちはすごくラッキーだよ」と。
その時、まさに当時の扉を取り外すところだったの。
「この扉が当時のままここにあるのは、今しかないんだよ。だから、必要なら写真を撮りなさい」と言われて、いっぱい撮った。
専門的な人が見れば、蝶番の形で扉の年代が分かるんだって。
 

――漫画で描きたいと思うデザインがたくさんありそうですね。
 
安野 そうですね。でも、『鼻下長』のメゾン・クローズは豪華なところじゃなくて、わりと中堅クラスなんです。
取材の時に、超お金持ちになった高級娼婦のお屋敷を見に行ったんだけど、それはちょっとした城くらいのものだった。
装飾が凄すぎて、逆に描くのが大変すぎる(笑)。
 
――娼館がどんどん華美になっていく感じは異常ですよね。
 
安野 競争みたいなものだったんじゃないかな。
「向こうが金箔を貼るなら、こっちはダイヤモンドだ!」みたいな。
昔の人ならではの素朴な感情が、無邪気で気持ちいい!
有名なのは、ルイ15世様式の本物のベッドを競り落として、その上での「ルイ15世プレイ」を売りにしていたりとか。
やっぱり皆、王様プレイじゃ! とか言ってたんですかね(笑)。
 
――「ここは金を使うところ」という夢願望だったんですかね。
 
安野 よく資料に出てくる奇妙なつくりの椅子で、いまだに使い方が分からないものもあるみたい。
私も考えたんだけど、やっぱり分からなかった(笑)。
『鼻下長』にはいっぱい、いろんな変態の人が出てくるんですよ。
最初は単なる変態を描こうと思っていたんです。
変態おじさんの夜の冒険、みたいなね。
なんかね、ネットとかいわゆる二次元の中だと、変態性について寛容な人も多いみたいなんだけど、現実ではどうなんだろう? と思うんですよ。
女の子や男の子を愛でたり、イケメンと美中年の恋愛とか百合ものは「対象」が美しいけど、おっさんが欲情しとるところも面白いんじゃないのかと思ったんです。
 
――なるほど、面白いですね。変態というのは、作中では「自分の欲望の形を見つけた人」として描かれていますね。
 
安野 尊敬の念があるからね。
普通の人は「自分はどうしてもこれがやりたい!」なんて思わずに、普通のセックスをしているでしょう。
それに対して、「どうしてもこうじゃないと嫌なんだ!」というのは、凄いことだと思うんです。
もう、どんだけ考えたのよ?! みたいな。

娼館を訪れる変態
娼館を訪れる客たちは、身分の高い者も多いが、特筆すべきは「変態」であること。変態とは「自分の欲望の正確な形をつきとめた人」とされ、娼婦にイメージされたような「世の中でもてはやされているグルメやファッションを流されるままに欲しがる人」と対比されている、自分が本当に何を欲しているのかに気づいた者たち。ある男は子供の頃の生い立ちから、「父親の禿げた頭を磨かされるという苦痛」のなかに快楽を見出す。絹織物商は、体中に羽毛をまみれさせて無垢な小鳥になり、狩人に汚されるのを望む。また、「棺おけ野郎」と呼ばれる老いた数学者は、娼館で死んで、葬儀のなか凌辱を受けるという最大の背徳を欲した。そんな彼は「本当の変態とは、名付けることのできない欲望を抱えた人間」だと語った。真にプライベートで、自分一人の中にしか存在しない純粋な欲望の結晶。それは他人には分からないゆえに、誰も言葉で表すことができない。どんなに奇妙で理解不能であっても、自分自身を知った人間はただの愚か者ではない。流されるまま、俗世の欲望を、本当に欲しているかも確かめぬまま生きる者よりも、よほど美しく崇高な生き方がそこにはあると言えよう。

――先ほど、パリにデパートが初めて出来たというお話をしましたが、「服が欲しい!」という欲望は現代にもつながるとして、よく考えると本当にその服が欲しいのか? 次々買っては捨てるような、代わりのある欲望に対して、紳士の「唯一の欲望」という対比が印象的でした。
 
安野 純粋なんだよね。だって、代わり映えなくずっとそれを求めるわけじゃない?
「みんなが持っているから」という理由で新しいものを欲しがったりするのは、それは逆に「薄い」というか、単純な欲望かもしれない。
 
――安野さんが以前言っていたことをよく覚えています。「自分へのご褒美」でスイーツを食べたり、ショッピングをする人がいるけど、それで満たされなかったとしたら、本当は求めていないんじゃないか、と。心を癒すにも、自分が本当に好きで、本当に幸せになるものは何かを見つけることが大事だって。
 
安野 もちろんスイーツだって、目の色が変わるくらい、地の果てまで行く人がいるじゃない。
そういう人は本当に満足していると思うけど、ぼやっとした感じで「パンケーキ食べたい♪」みたいな子は、本当に嬉しいのかちょっと分からない。
 
――意外とそういう人が、変態的なまでにスイーツを求めている人を「気持ち悪い」とか言いますしね(笑)。
 
安野 そう。おかしな話ですね。
純粋に「スイーツが好き」という気持ちの結晶みたいなものを持っている人は、逆に生きにくいと思うんです。
それこそ私生活に支障をきたすレベルだと特に。
確かにバランスを取ってぼんやりしている方が、人として健康だし正常だと思うけど。
でも、本気な人に対する尊敬…とまでは行かなくても、尊重はするべきだと思う。
結局は自分の心をいかに観察しているかだと思うんです。
「これが好きなんだ!」とハッキリ分かっていて、自分の内部に集中しているというのは、禅の修行に近いものがあるよね。
内観法みたいな。
 

――そのあたりのテーマは本当に面白いです。今後も『鼻下長』を読む上で追っていきたいと思います。それでは少し話は変わりますが、安野さんの作品は、雑貨になったりしていますよね。『鼻下長』でも下着メーカーとコラボで、下着を作られると聞きました。
 
安野 楽しいですね。
クラシカルなムードで、ビスチェにガーターがついているものをデザインしました。
下はショーツ。
パニエもつけたかったんだけど、それは今回はつきません。
 
――実際に、『鼻下長』の中でキャラクターが着たりするんですか?
 
安野 うん、出したりする。 

ランジェリー限定特典 ポストカード

『鼻下長紳士回顧録』から展開した企画
『鼻下長紳士回顧録』の世界を形にすべく、下着メーカーとのコラボレーションでランジェリー制作の企画がおこなわれた。デザイン画は安野モヨコの手によるもの。当初は3パターンがアイディアとして描かれ、「安野モヨコ・ファンメルマガ」で人気投票も実施した上で、ビスチェタイプのデザインに決まった。ストライプ柄にフリル、編み上げもついており、アダルトな粋と可愛さを併せ持ったムードだ。また、10月に発売予定の『鼻下長紳士回顧録』単行本第1巻を記念して、同書のブックデザインも手掛けるウノサワケイスケがデザインするポストカードも制作。図案は安野モヨコが描き下ろした。官能的な装いをするコレットの姿や、逢い引きの様子が描かれた艶めいたシーンを、鍵穴から覗く形で封に入れて展開する予定。こちらもとてお凝った逸品で発売が楽しみだ。

ランジェリー デザイン案

――それは楽しみです。『鼻下長』の下着もそうですけど、『オチビサン』でも雑貨がいろいろと作られていますね。今、絵を描く人の間で、「自分で雑貨を作りたい」という気運が高まっています。例えば自分の絵は、漫画っぽくもあるけど、絵本やファッション的な要素もある。漫画やライトノベル、ゲームの仕事とは違うかも…という人たちも、雑貨ならしっくりくるそうで。
 
安野 そうなのか~!
確かに「エス」の投稿者さんたちの絵は、背景とキャラクターがセットになってと言うか、世界観があるものね。
 
――安野さんは漫画を描きながら雑貨や展覧会活動をはじめた先駆者だと感じるのですが、きっかけとして墨流堂がありましたよね。紙版画集の『蔦と鸚鵡』でも巻頭にその図案が入っていました。(墨流堂:安野さんが「紙」にこだわって作っていた雑貨)
 
安野 あれは包装紙みたいなものを作りたかったんです。
本当はポショワールみたいに「インクが載っている感じ」の風合いにしたかったんですけどね。
特殊な紙でやらせてもらえたから嬉しかったです。
カードや便せんを作っていましたが、当時は本当に欲しいレターセットがなかったんですよ。
和風な雑貨を見ても、ちょっと違うなと思っていましたから。
でも、今はすごくいっぱいあるの。
ぜんぜん私よりセンス良く植物をデザインしているものが増えたので、買うことにしました(笑)。
 
――普段描いているのは、キャラクターじゃないですか。植物をモチーフにした図案を作ろうというのは、キャラグッズでもないし本格的ですよね。とても素敵でした。
 
安野 ありがとうございます。
今もやりたい!!時間があれば…。
例えば、カラスウリをモチーフにしたものも作ったけど、やってみると、昔の植物のデザインがいかに優れているかに気づくんです。
杉浦非水とか植物を写生した絵も凄く上手いんだよね。
何枚も何枚もスケッチして、それを最後に図形化している。
しかも、すでに図形化されたものが常に身の回りにある環境でしょう。
伝統の柄を何世代にもわたってブラッシュアップしてきて、常に目に入っているエッセンスが混ざった上での完成度。
自分が作ると、どうしても今っぽい感じが入っちゃって、やはりプラスチック感が否めない。
難しいことだと思うけど、もうこれはこつこつ続けていくしかないですね。おばあさんになった頃に仕上がってるといいなー。
 

――墨流堂とあわせて、『オチビサン』の展覧会が大阪や東京でおこなわれ、そうして「まめつぶ屋」が出来ましたね。
 
安野 グッズを作る会社の方が『オチビサン』の世界観を好きで、「やりたい!」と言ってくれたんです。
最初に作ったのは、私がデザインしたポチ袋でした。
手ぬぐいなどが最初の商品ですが、向こうにもデザイナーさんがいるので、あとはもうお任せして。
『オチビサン』を好きな人が集まってくれて、とても可愛がってくれています。
みんなで「ああしよう、こうしよう」と作ってくれている。
 
――まめつぶ屋もいろんなところに出展したり、展示もずっと巡回していますよね。滅多にないことだと思います。
 
安野 まめつぶ屋さんとコルクがやってくれていることなんです。
私は、ほぼ漫画の『オチビサン』を描いているだけだから。
でも、そういうのを全部私の活動として、皆さんが見てくれているんですよね。でも自分一人じゃとてもできない。
だから、若い子たちが「自分でやろう!」と思って、小規模な範囲でグッズを作って、自分の世界観を漫画だけじゃなくて、例えば「こんな部屋に住んでます」という風に、その世界に浸ってもらえる装置を作っていくのはすごく良い考えだと思います。
それを具体的にやっていくのはすごく創造的なことだと思う。
 
――『オチビサン』も最初はポショワールで、大変な労力をかけて描き始めましたけれど、一旦できたら、いろんなところに広がって、しかもどの形になっても感動がある。アニメーションを見ても、ストップモーションアニメならではのオリジナル表現がすごくありました。周りの人がいろいろ広げてくれるのは凄いことだと思います。
 
安野 やっぱり、それにどれだけエネルギーを使うかだと思うんです。
昔の漫画で今も読まれているものは、そこに作者のエネルギーがすごく注がれているから、作品として力があって、ずっと愛されていると思うんです。
私もそういう作品を作れたら良いな、と思って描いています。

『オチビサン』の雑貨
安野モヨコは、『オチビサン』を連載している頃に、ポショワール技法で描かれた原画を見せるための個展を開催していた。やがて個展会場などで『オチビサン』の雑貨が置かれはじめ、デパートや雑貨店などで出品もされるようになる。ウェブサイトとともに、お店でも見かける機会が増えた『オチビサン』の雑貨。ここで少しラインナップを紹介。かなり初期の商品には、安野モヨコ自身がデザインした「ぽち袋」もあった。オチビサンの服のように白と赤で縁取りされたデザインや、オチビサンの頭のシルエットが赤色で配されたタイプの二種入り商品。ほかに便箋セットなどの紙ものもあるが、手ぬぐい、扇子などの雑貨から、オチビサンの帽子、編みぐるみもある。また安野モヨコは、おしゃもじにシロッポイの焼き印が押してあるアイテムが可愛くて好きと語っていた。おひつも揃っていて、商品ラインナップは豊富だ。新作も発売されていくが、売り切れる商品もあるので、ウェブショップなどをチェックして、お気に入りのものを見つけて欲しい。

――あと、安野さんはInstagramにスケッチを載せているでしょう。あそこでもまた違うタッチの絵が見られます。いろんな人物が描かれていて楽しい。
 
安野 最近サボっているから、また描かないと!
何か、あれはみんな喜んでくれているので、嬉しいです。
 
――あちらは展示のように直接見るものではなくてインターネットだけれど、とても「親密さ」を感じるページです。
 
安野 「下描きなしで一発で描く」ということを自分に課しているので、全部下描きをしていないんです。トレーニングですね。
だから「筋トレ」を見て頂くような感じかな。

――安野さんは、昔はいろんな漫画雑誌に何本も連載を持つという活動の広がり方でした。でも今はストーリー漫画の連載が『鼻下長』、カラーの漫画で『オチビサン』、「まめつぶ屋」では雑貨も楽しめるし展示もある。インターネットを見ればInstagramやメルマガ、ツイッターで活動を聞ける。漫画だけじゃなくて、いろんな形で安野さんの世界に触れられるようになりました。こういう広がり方のほうが素敵だと感じます。
 
安野 この方が向いているかもしれない。
今の体力を考えても、漫画をいっぱい描くのは難しいですから。
連載の漫画一本と『オチビサン』みたいに短い作品を描いていけたら良いかな、と思っています。
 
――週刊で描かれていた時と今とでは、生活もずいぶん変わったと思います。
 
安野 思いのほか作業が長くかかっちゃた時に、以前は毎回すごくテンパっていたんですけど、今は「まぁ、今日は午前中は良いか」という風に、ちょっと余裕が出てきました。
友だちと遊んだりすると、「これが普通なんだな」「これがまともな生活なんだな」と思う。
自由な時間があり過ぎて、最初は戸惑ったくらい。
みんな海に行ったりパーティーしたりしてて、これが人の暮らしよ! と思ったりしました。
 
――なるほど。あと感じるのは、今は「プライベートな感じのものが見たい」という感覚もあると思います。漫画をはじめ、ライトノベルやソーシャルゲームも、すごく巨大な産業になってしまった。それはエンターテインメントとして派手なことも出来るから良いのですが、一方では展覧会やスケッチを見るような、小規模だから味わえる感覚も楽しいものです。
 
安野 ネットでは『監督不行届』のミニ版(『ミニカントク不行届』)もアップしたりしています。
最近あんまりおもしろいネタがないんだけど。
この間、暑い日にズボンを履かないまま外に行こうとしていて、「履きなよ!」みたいな(笑)。
「ウケようとして、わざとやったのか」と思ったら本気なんですよ。
おそろしいことに。
 

――『ミニカントク不行届』も凄いネタがありますよね。そういった日記的なものも含め、いろんな側面を見られるのが楽しいです。では最後に、安野さんにとって久々のストーリー漫画である『鼻下長』がどんな作品なのかを聞かせて頂けますか?
 
安野 忙しくいろんなものを描いていた時に、「こんなものを描きたいと思っていたな」と感じます。
理想にはまだ遠いけど、イメージとしては自分がやりたかったラインに近いと思う。
これがみんなに受け入れられて、すごく売れるということはないと思うんだけど(笑)。
でも描いていて楽しいですね。
 
――人の生き方をはじめ、衣装やインテリアについても、今の都市の原点みたいなところがあって発見があります。第一巻の発売も十月ということで楽しみです。本日はありがとうございました。

・・・

インタビュー初出:季刊エス Vol. 51 2015 Autumn

※記事の文章、イラスト等の転載を禁止します

『鼻下長紳士回顧録』上下巻、『オチビサン』全十巻、発売中です!(スタッフ)

ここから先は

0字

安野モヨコ&庵野秀明夫婦のディープな日常を綴ったエッセイ漫画「監督不行届」の文章版である『還暦不行届』の、現在連載中のマンガ「後ハッピーマ…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?