私の初めての国際交流は小学生の時だった
私が地元に帰るたびに、外国人が増えているような気がしている。
私が、小さい頃はそこまで、外国人は地元にはいなかった。
そんな私の初めての異文化交流は小学生の頃だった。
64世代のゲーマーと私の友達
64世代のゲーマーとは私の事である。
私は小学校低学年の頃、Nintendo 64に没頭していた。
そのころはインターネットで攻略を見るということはなかった。
なぜなら、インターネットがまだ一般家庭で普及していない時代の話。
Macが大好きな父も、最初にインターネットが繋がったのが、小学校高学年でしかも電話回線で繋いでいたぐらい(遅い、回線すぐ切れる)
攻略サイトみたいなものもない時代は攻略本を買うか、小学校で同じゲームを持っている友達と情報共有をするしかなかった。
その同じゲームを持っていたのが、Mちゃんであった。
Mちゃんの父はアメリカ人、母が日本人の家庭で育った。
容姿はブロンズ髪の目が青いアメリカ人だが、普通に日本語を話すし、中身は日本人である。
そんなMちゃんの家によくゲームをしに行っていた。
小さなカルチャーショック
Mちゃんの父は画家、母はキャリアウーマンであった。
Mちゃん母がお仕事をしている間は、Mちゃん父が家で仕事と家事をしていた。
私たちがゲームを長時間していると、Mちゃん父は他にはゲーム以外のことをしなさいと、レモン汁で絵を描いて火で炙りだす遊びや、Mちゃん父とお相撲さんをテレビで見たりしていた。
ある日、家に泊まりにおいでと誘われた。
夕食はMちゃん父が作ってくれた。
なんと夕食はケバブである。私はその時初めてケバブを食べた。
ケバブが夕食で出た瞬間、小さい頃の私は、小さい頭脳で夕食という概念を考え始めた。
私の家族が食べる夕食は必ずしも、ご飯があるという日本人の典型的な夕食であった。たまにラーメンやうどんの時もあるけど、それを夕食だと思っていたのだ。
私は、その時初めていろんな家庭のいろんな夕食の形があることを知った。
もちろん、ケバブは美味しかったし、
Mちゃん父は私に「あんちゃん(筆者)は、食べながらよく話すね〜」と褒められているのか貶されているのかわからない言葉をいただいた。
河川敷での豆腐BBQ事件
ある日、Mちゃん父はBBQをやるから河川敷に行こうと言った。
MちゃんとMちゃん父と私は河川敷で石を積んで簡易なかまどを作り、そこにバーベキューの網を引いて火を起こした。
Mちゃん父は、今夜は豆腐BBQだからと豆腐ハンバーグしか持ってこなかった。
パンやケバブ用のパンに挟んだかもしれないが、もう何十年前で記憶がないが、ただ、Mちゃん父は豆腐ハンバーグしか持ってこなかったのは覚えている。
Mちゃん父は豆腐ハンバーグがしっかり焼けるまで、そこで石切りでもしてようかと、三人で川に向かっておもむろに石を投げて遊んでいた。
時期は7月の中旬、そして夕暮れ時、夏休みなのか、大学生のサークルのグループが河川敷で花火をして遊んでいる。
石切りをして遊んでいたら、豆腐ハンバーグを焼いているかまどの周りに大学生がたむろし始めた。
小学生の私は、豆腐ハンバーグがBBQなのが、そんなに珍しいからたむろして眺めているのか程度に思っていた。
しかし、Mちゃん父は、穏やかな小学生の私とは正反対に、いきなりかまどにたむろしている大学生たちに雄叫びをあげて、走り、向かって行くではないか。
「うおおおおあああああああ ファアアアアアアアク!!!!」
Mちゃん父は真っ赤な顔で怒っていたのだ。
コメカミをほとばしる血管が怒りのボルテージが極限であることを物語っているくらいに。
ああ、もめている。
Mちゃん父はどうやら大学生たちがかまどから花火の火をもらっていたのにものすごく怒ったらしい。
大学生とMちゃん父はしばらく話し合っていた。
Mちゃんとどうしようかと話していると、
大学生と激しく話していたMちゃん父の声が聞こえなくなった。
Mちゃんと様子を見に行くと、
Mちゃん父は神父のような笑顔で振り返った。
「あんちゃん(筆者)、Mちゃん、花火をもらったよ」
あれから、20年後
私はもう、30歳になったが、MちゃんとMちゃん父との思い出は色濃く残っている。
Mちゃんとはその後、別々の中学に進学したため、それ以来会う機会も交流も無くなってしまい、疎遠になった。
しかし、豆腐ハンバーグを見るたびに今でも彼らを思い出すのである。
彼らは元気であろうかと。
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人生の回顧録、また時間ができたら書こうと思います。
また同じようにくだらない内容なので、暇な人はぜひ見てやってください。
ありがとうございました。
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