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10月1日メガネの日

 いつか入ってみようと思っていた。

 駅からは少し離れた大通りにその店はある。昔ながらの純喫茶のようなたたずまいは、この地にまだ十年といない私ではどうにも入りにくい雰囲気がある。けれど今日、通りがかりに私はその店に入ることを決めた。何となく。

 喫茶「マーブル」

 ゆっくりと重めの扉を押し開く。イメージ通りのカランカラーンと言う鐘が頭上でなり、それは私におめでとうと言ってくれたように感じた。少し、嬉しい。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 店主らしき男性が顔を出す。店内を見渡し、入口近くのテーブル席に座った。目の前の壁には大きな棚があり、そこにいろいろな種類のメガネが置いてある。店主のコレクションだろうか。店主の顔をよく見ると優しそうなおじいさんで、丸い年季の入ったメガネがよく似合っていた。

「メガネ、たくさんありますね」

「私の趣味でね。ここにあるものは集めたアンティークものなんです。ああ、もしよかったら合わせてみてください」

 そう言ってにこりと笑う。毎日手入れはちゃんとしています、とも言った。私は会釈してそのまま席を立ち、棚に向かった。とても自然に。なるほどどうして、ほこりもなく綺麗に並べられている。三十個はあるだろうか。私はもうすでに掛けるつもりで目の前にある黒縁のメガネに触れた。すると背後からいつの間にかカウンター内に戻っている店主の声がする。

「メガネはね、いろんな世界に連れて行ってくれるんですよ」

 私はそっとメガネを掛けた。

 それは夢かと思った。メガネを掛けて辺りを見渡すと、私の視界は一瞬にして別世界になった。きらきらと赤や黄色、青や緑の光の粒がきらめいている。とても喫茶店の中にいるとは思えない。上を見たり下を見たり、きょろきょろしてみるも喫茶店の何も映らず、ただ、光の粒が舞う。中にはくすんだ光もあり、その色や光はまるで人生とはこのように様々あるのだと教えているようだ。

 ならば私の人生はこのどこにあるのか。きらめいているのか、くすんでいるのか。その不安から一瞬、本当に一瞬目を閉じると世界は戻った。驚いてメガネを外し、店主を見る。

「ね、世界はきらめいていたでしょう」

 心なしか、店主はどこか嬉しそうだった。

「どのメガネを掛けてみてもいい。きっとどれもあなたをここではない別の世界に連れて行ってくれる。もしかしたらあなたの世界もその中にすでにあって、今はそこを生きているのかも知れない。でも明日は違うかもしれない。365日、いつどれを掛けてどの世界に行ってもいい。そして見たその世界を大切にしてもいいし、愛してもいい、泣いてもいいし、叫んでもいい、そうして捨ててしまってもいい」

 コーヒーの香ばしい香りが狭い店内に充満し、私はそれに酔いそうになる。

「どこか別の世界を見たくなったらいつでもどうぞ。めくるめく365日を過ごせるようにマーブルはいつでもお待ちしています」

 メガネを外したはずなのに視界の端にきらきらが残っているように感じて、少し、嬉しかった。

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【今日の記念日】
10月1日 メガネの日
メガネの愛用者の方々に感謝の気持ちを表そうと、日本眼鏡関連団体協議会が1997年に制定。日付けは10月を10、1日を01とすると「1001」と表記することができ、両端の1がメガネのツルを、内側の0がレンズと見立てることができ、メガネの形を意味していることから。

記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
https://www.kinenbi.gr.jp の許可を得て使用しています。

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