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どんなに素敵な環境でも、自分が辛いと思ったらそれは辛いのだから、きちんと逃げよう

前職を離れて、ニューヨークに来てから数ヶ月がたった。新しい仕事に少し慣れ、時間の余裕もでき、生活も落ち着いてきた。

この数ヶ月で、私は、東京にいた時と比べたら別人かのように元気になった。というよりは、東京にいる時が「別人」状態だったと言う方が正確かもしれない。

仕事が忙しく、自分におそらく向いていないだろうと感じつつ無理にでも取り組んでいたのだけど、一年目の途中からは「今の自分は本来の自分ではない」という感覚が常にあった。前のように休日を思いっきり楽しむことができなくなっていて、長期休暇でさえも常に「でもこれが終わったら仕事だしな」という思いが頭の中をちらついていた。どんなに寝ても「今は元気だけどまたすぐ仕事で疲れちゃう」というのが分かっていたし、コーヒーを飲んでゆっくりする、とか自分の好きなことをしていても、心が常に何かを心配していた。目の前の仕事に直結する内容のことしか目に入れられない。仕事の内容で手いっぱいで、世界に対する興味も、本を読む忍耐も、失っていた。

何かがおかしいのは分かっていたけれど、もしかしたら自分の思い違いかもしれない、とも思っていた。仕事をもう少し頑張れば、よくなるかもしれない。もう少しきちんと寝るようにすれば、元の元気な自分に戻れるかもしれない。そもそも「本来の自分」などという考えが幻想で、その時々の自分が常に本当の自分なのかもしれない。

今、振り返ると、正直腹立たしく思う。なぜなら私は正しかったからだ。あの時の私は確実に「本来の自分」ではなかった。「元気で前向きな本来の自分」というのは、確実に存在した。なぜそれが分かったか。ニューヨークに来たら見つかったからだ。

辛かった時、枯渇した思考力を振り絞って、何度も「何が問題なのか」「どうやったら解決できるのか」を考えようとした。そして私は何度も何度も同じ結論に至った。「仕事が向いていない」「仕事が楽しくない」「じゃあもっと楽しくなるように工夫しよう」。仕事をやめる、という選択肢は存在しているようで存在していなかった。辞めたい、とは身近な人には話していたけれど、正直それを本当に実行できるとは思えなかった。まだ数年しか働いていなかったし、周りはいい人たちばっかりだったし、評価が取り立てて悪くクビになりそうな訳でもなかったし、「向いていない」と言っているのは自分だけだったから。つまり、辛かったけど、逃げる選択肢はないと思っていたし、こんなに良い環境で逃げたいと思う自分がそもそも間違っているかもしれないと思っていたのだ。辛いのに「でもそんなに辛いわけない」と言い聞かせ、自ら逃げ場がないかのように感じていた。

ニューヨークに来て、自分はもっと早く逃げるべきだったと分かった。劣悪な環境からしか逃げちゃいけない訳じゃない。どんなに素敵な環境だって、自分が辛かったら、それはもう辛いのだ。惨めで、涙が出てきて、生きていることに意味がないと感じたら、それはもう、緊急事態なのだ。

新しい生活が始まって数ヶ月たった今、私は、本当に久しぶりに、何か新しいことを始めたい、何かを勉強したい、と思えるようになった。将来のことを考えて「別に今死んでも変わらないじゃん」と感じることが減った。楽しみなイベントができた。「ああ、そう、昔の元気な私はこんな感じだった」とデジャヴのように感じる瞬間もできた。

今、未来に顔を向けられているのは、きちんと逃げたからだと、そう思っている。


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