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とても悲しい本を毎夏読み返していた

悲しいという感情には、どこかものうげで切なくてノスタルジックな雰囲気がとりまとう。元彼との思い出。卒業式の日の空っぽの教室。小さい頃飼っていたペットの死。

どんな場合であれ、人が悲しむ時は、現在と過去の間に人間の力ではどうすることもできない境界があり、その境界を自分は踏み越してこちら側に来てしまったのだ、そして二度と元に戻ることはできないのだ、という諦めと喪失の実感を伴っているように思う。

その喪失を直視してしまうことには耐えられないから、そこに物悲しさやノスタルジックさを付け加えて、どうにか処理できるレベルの辛さまで加工しているようにさえ感じられる。

最近の言葉で「エモい」という単語があるけれど、エモい感情からエモさを取り払ったら、純粋な悲しみしか残らないのではないか。
「卒業したら、この人たちの多くとは二度と会わないし、この日々は二度と過ごせない」
「大学の授業をさぼって行った定食屋で、元彼が私の名前を呼ぶことは、二度とない」
私たちの生活において、何かを喪失することは避けられないことであり、一旦失ったものは大抵の場合二度とは戻ってこない。

フランスの作家フランソワーズ・サガンが19歳で書き、一躍フランス文壇の寵児となったきっかけになった小説『悲しみよ こんにちは』にはこんなフレーズが冒頭に出てくる。

ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、
悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう――。

「悲しみよ こんにちは」

悲しみはものうく、甘いのだが、実際のところとてつもなく重く、残忍な感情でもある。我々が悲しんでいる場合、大抵の場合は、その時点でもう取り返しがつかないからだ。ものうさや甘さという薬に混ぜた砂糖のようなものに助けられて、私たちは、取り返しのつかないことを取り返しがつかないと受け入れ、失ったものを失ったと認識し、その上で先に進んでいくほかない。この本の主人公セシルも一夏の出来事でそれを身をもって体感する。

中学生から高校生にかけて、私は毎夏『悲しみよ こんにちは』を読み返すことを儀式としていた。人生には取り返しのつかないことがある、ということが理解できなかったからだ。

そのコンセプト自体が当時の私には恐ろしく、だが理解できない大変な感情が今後自分を待ち受けていると思うともっと怖くて、本の中のお話としてだけなら安全に感じることができたため、理解できるまでは読み続けようと考えていた。

今の私くらいの年齢になると、どうしても避けられない喪失をいくつかは経てきている。年齢はただの数字というが、積み重なる数字の中で単純に日々起こるイベントの数も増え、ポジティブなものもネガティブなものも避けられない数で弾丸のように飛んでくるからだ。

そうやって経験を積んだためか、比較的安全な環境にいた私でさえ前よりは悲しみに対する抵抗力というか、体幹のようなものがしっかりしてきた感じはする。まだまだ序の口という感じはするが。

でもやっぱり、初めて本気で悲しみを感じた時は、世界が壊れるかと思った。本を読んでのイメージ演習は少しは助けてくれてはいたのだろうが、経験している最中はそんなこと吹っ飛んでいた。食べ物が喉を通らず、二週間で5kg痩せるくらいのインパクトが、最初の本気の悲しみにはあった。

みなさんにはそんな経験はありますか?もう昔のことで、懐かしく感じたり、今現在悲しみをくぐり抜けている人もいるだろう。わざわざそんな重い感情を感じたくないよ、という人もいるかもしれない。でももし今、悲しい気持ちになりたい、その甘さも感じたい、本の中だけで安全に悲しみたい、と思っている人には、この本をおすすめする。心をノックアウトするほど残酷な悲しみがこの本には描かれているから。


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