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ひとと「あわない」のは当たり前

「どうしてあの人はそんなことするの?」

「何考えてるの?」

「何で分かってくれないの?」

「私が正しいはずなのに...。」

こうやって悩むことが当たり前でした。小学校のときから19歳まで、相手とわかり合えないことがなんでなのか、考えすぎて病んでました。
ここに自分の居場所はないって勝手に思ってました。

でも今、
旧野口梅吉商店で共同生活をすることで、「共創的対話」を知り、実践できています。
でも、つい最近まではやる気がなくて、何考えてるか分からない「ちょっと気になっているあのこ」に腹が立って仕方がありませんでした。

共創的対話とは
「会話における自由奔放な発言とは異なり、目的をもった話し合いである。わかり合えないかも知れない者同士が、互いに意見や感想をなんとか伝えようとする相互行為である。こうした相互行為により、1人では到達し得なかった高みにいたることに対話の目的がある。この多様な人々が叡智を出し合い、ともに新たな知的世界にいたることを重視したのが共創的対話である。」


私は旧野口梅吉商店を挑戦できる場にしたいと思っているので、本当にやる気のある人だけが集まる場所にしたかったんです。

だから気になっている「例のあの子」なんて、出て行けばいいと思っていました。どうせ「あの子」なんてと勝手にフィルターをかけていた自分。でていけと言いそうになっていた

その時、
共創的対話を知りました。
私、「あの子」の話なんも聞けていない。と。

そこで野口に帰り、四人くらいで自分の今までの人生のモチベーショングラフをかきかきしつつ、発表し合いました。
「あの子」の今までを知った瞬間なにかが変わりました。こういう体験をしたから今があるんだなってなんとなく分かるようになりました。
彼の本当の意思を始めて聞いた。本当はもやもやしてることも、そして何かしたいって気持ちがあることをしれた。

でも、その体験を共にしたわけでもないし、体験について考えることも人それぞれなので、分かりきることはできないけれど、前よりは「あの子」に愛情が湧きました。

そもそもわかり合えるはずがない、というか、わかり合わなくていいんだから、ズレを楽しもうと振り切れたのはその時です。

わかり合おうとしなくていい。
ただ相手の存在を許容し、自分は自分で表現したらいいんだって。
それを強要するのはちがうんだって、すっと落ちました。

そしてその会があった次の日、いきいきと活動するあの子をみて私はニヤニヤしました。あのこもあの子で、たぶん自分の思いを表現したかったんじゃないかな。と。


そんな体験ができる旧野口梅吉商店での共同生活。これからもっと色んな人間関係を学べそうです。

いただいたものは、全て大切なひとに、そしてまちに、使わせていただきます。