今更の自分探し。

おしゃべりがしたい。


わたしはあまり口数が多い方ではないし、大勢でワイワイするのもそんなに得意ではないが、世間話しをするのは嫌いではないし、何かのテーマについて談論することも嫌いではない。

なぜ『嫌いではない』という中途半端な、軽く上から目線に見える考えなのかというと、誰かと話していると、往々にして『答え』や『正解』、なんなら『勝敗』を求めて止まず、白熱してしまう人がいるから。

わたしは議論や討論をしたいのではない。

物の見え方、感じ方、考え方は人それぞれなので肯定も否定もするものではないと思っている。幼い頃親に散々言われた「人は人、うちはうち。」という言葉と、周りの友達とどうにも馴染めない人生を送ってきたことも大きな理由になっていると思う。

成長とともに、人と関わっていくそれなりの術を身に付けたつもりではいるけれど、

その身に付けた術の代わりに、自分を見失ってきた人生でもあるように感じることがある。


幼き頃から、わたしはどうにも周りと少しズレた感覚を持っていたようで、父からも「正直、お前は何を考えているのかわからなくて育てにくかった…」と言われた。姉は、打てば響くようなド直球の性格だったこともあり、わたしにはとても苦労したらしい。

中学校も2〜3年生になってきて、段々と生きにくく感じてき、高校に入るとその感覚は頂点に達した。

高校生になると、ファッション、コスメ、音楽、エンタメ、恋愛など、みんなが盛り上がる話題がなんだかはっきりしている。もちろん、それだけじゃない話題で盛り上がることもたくさんあったけれど、なんかちょっと違う。じゃあどんな話がしたいの?と言われてもうまく答えられないのだけれども、違うのだ。

とりあえず、国語の教科書に載っていた夏目漱石の『こころ』や、芥川龍之介の『羅生門』について話したがる人は、誰もいない。歴史の教科書に出て来る源氏系のややこしい名前について話したがる友達も、誰もいない。勉強したかったわけではない。著者の感性を知りたかったり、あんなややこしい名前の羅列に親の気持ちや先祖の気持ちが知りたい。とか、多分すごくどうでも良いことを知りたがった。気がする。

けれどわたしはファッションやコスメの話をする友達に必死に付いて行こうとした。噂話に必死で興味のあるふりをした。(興味がないのでどんなことで盛り上がったのかはほとんど記憶に残っていない。ヘアアイロンのすごさに感動した記憶だけははっきりと残っている。)

とてつもなく居心地が悪かった。


3年生になって、わたしにとって穏やかな、居心地の良いクラス編成になったこと、大学に入ってキモチの悪い変人さん達(相対性理論を熱く語る先輩や、恐竜が好きすぎる先輩とか、ロカビリーな先輩など、多方面でおもしろい先輩や友達。)に出会えたことがとても幸せだった。

大人になったらもっと面白い人がいるんだろうなーと期待していたが、社会人になって待ち受けていたのは、またしても困難だ。

仕事の内容はどうでも良いのだ。仕事だから。

合間で交わされる会話が全く面白くない(わたしにとっては)。女性の多い職場で、みんなこざっぱりとした気持ちのいい性格の人達だったので人間関係では恵まれたが、会話に付いていけない。

ドラマの話、ネイルサロンの話、ヨガの話、化粧品の話…。

ドラマも見ないしネイルやヨガもしない、化粧も面倒臭すぎて、あわよくばすっぴんで過ごせるようにじわじわと薄化粧にしていたため、ほとんど化粧品なんて持っていなかった。

毎日毎日そんなことの繰り返し。場の雰囲気を壊してはいけないと、ひたすら貝になるか、少しだけ勉強をしていた。(家にはテレビがなかったのでそっち方面の話は聞き役だけで良かった。)

そんな生活が10年程。

そこから離れてわたしは今、田舎に住んでいる。

人が、いない。

誰かと話がしたい、と思うようになった。

ただ、「何を?」なのだ。

あんなに窮屈に感じていた世界を離れてみて、わたしには何もないことに気がついた。何もないのか、何かを思い出せないでいるのか。

うだうだと感じたままに、答えのないお互いのことを話し合って楽しみたいのだけれども、何を発すればいいのかさっぱりわからないでいる。まぁ、相手もいないんだけれども。


今更、自分探しをしています。どうも、あこと申します。

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