『鬼滅の刃 無限列車編』レビュー了

 三幕構成の要所で物語と構造が一緒に「切れる」、『鬼滅の刃 無限列車編』。それは物語自身が持つ「夢」を自らの内部で否定し続けながら、現実と虚構の境目に強靭な意思で踏みとどまる物語だった。しかし誰がこのように映画をみただろうか。作意に寄り添う読者は想定されていない。事実、私の10年来の友人はこの映画を「中身がない」と一蹴した。
 彼はこの映画を見ていない。見ていないにもかかわらず彼はそう言い切ってしまったし、私は「中身」という言葉に微笑みながら絶句した。物語の中身がない。ずいぶんな物言いではないか。しかしながら筆者は、友情に裏付けられた彼の言葉を否定できない。私は、「この物語には中身がない」という彼の言葉に切り込んでいくつもりだ。
 その前に、彼の状況を整理したい。人の認識は状況に影響される。漫画『鬼滅の刃』について、彼は私よりも造詣が深く、3巻まで読了している。3巻まで読むことで物語の理解にどれだけ近づけるかはわからない。もし筆者が文献学の正統派に属すならば、ここで、少なくとも3巻まではたどらなければならないだろう。しかしそれはまた別の機会だ。
 彼はこの映画を見ていない。3巻目で止まっているのだから、かえって映画が遠くなる、という繊細な読者心理なら理解できる。ただそれ以上に彼は忙しい。月曜から土曜日まで、1日12時間程度働く。通勤は片道2時間。土曜の夜は時々、筆者とゲームをする。日曜日はデートなどをこなしているという。彼の顔は俳優の佐藤健似で、服や髪形といった装飾もおしゃれだ。インテリアにも隙が無い。彼の部屋は「ボタニカル」に統一され、天井にまで届く白い本棚の合間には鉢植えが置いてある。2匹のアゲハ蝶を室内飼いしている時期もあった。要するに「ファッショナブル」なのだ。
ルサンチマンに肩まで浸かっている人ならば、「彼のほうこそ中身がない」と言いたくなるだろうか。漫画『鬼滅の刃』を読んだのも「流行」「ファッション」の文脈だろうと。しかしどれだけの人間が「正当なきっかけ」でこの物語に触れられるだろうか。週刊誌の定期購読。子どもがアニメを見ていて。孫と会話をするために。「家族を鬼に惨殺された主人公が、無残にも独り生き残った妹を背負い、戦う物語」という触れ込み、ログラインに期待したから。
「正当なきっかけ」と「流行に乗る(=ファッション)」の間にはどのような違いがあるだろう。例えば「軸」や「目的」が違うかもしれない。少年漫画やアニメが好きだという「軸」があるかどうか。話を合わせるために読むのか、自分が物語に「没入」するために読むのか。ここに正当性とファッション性の違いが出るのだろう。ここで、この「軸」と「目的」というレールに乗って『無限列車』に戻ってみたい。問いは、フィナーレを飾ったレンゴクとアカザに「人生の軸-生きる目的」があったかどうか、である。
「レンゴクには人生の軸がない」と言ったら反感を買うのが目に見えている。しかし文脈如何では、その言葉に納得しなければならないかもしれない。この言葉を咀嚼するために対偶されるのは「アカザには生きる目的があった」という解釈だ。フィナーレの戦闘でアカザがレンゴクに言い放ったセリフ(「お前も鬼にならないか」)は、レンゴクと戦い続けることで武芸の極みに近づこうとする自身の「目的」に合致している。アカザの「生きる目的」が強くなることだという解釈は間違っているかもしれない。もしかしたら映画の前後で、それは語られているだろうか。しかし映画は映画。議論はこの内側と、その解釈によって語られなければならない、と筆者は主張する。
たった1つの大切なもののために、何もかもを捧げて戦う武人アカザ。映画を通して知りえた彼は、この一文に凝縮される。大切なものとは「強さ」。アカザは純粋に強さを求めて戦う男だ。どこに悪意の入る余地があるだろうか。
さらにアカザのセリフにも注目したい。問題のセリフは次のような流れで出来する。レンゴクと戦うために手負いのタンジロウに拳を振り下ろしたアカザ。レンゴクの怒りを買い、2人は戦う。目にもとまらぬ速さにタンジロウと猪之助は助太刀できない。アカザはレンゴクの強さを再び認め、あのセリフを言う。
「お前も鬼にならないか」
著者は、この言葉にアカザの寂しさを見出す。アカザにとってレンゴクは、存在を認められる数少ない人間だった。人間はミジンコの生死を気にしない。象は知らぬ間に虫を踏み潰す。アカザの目に弱い人間は映らない。対等に渡り合える相手の不在。だからレンゴクがいてくれたことが嬉しかった。一緒にいられて嬉しい……だから殴ってしまう。稚拙なままの精神がそこに留まって、決して成長しない様相。「一緒に遊ぼう」と言えない男の子が、大好きな友達に暴力をふるってしまう不器用。まるで寂しさから逃げるように強くなろうとする。それがアカザのパーソナリティなのではないか。
ではレンゴクはどうだろうか。レンゴクの「軸」は母親の述べる「責任」にあるかもしれない。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」はベン・パーカーの言葉だ。(念のため、これはスパイダーマンとして戦うピーターパーカーの祖父のセリフだ。)レンゴクの母親もまた同様の忠告を与える。
もしくは死に際に、タンジロウに伝えたメッセージが「軸」をあらわすかもしれない。
「君の妹を信じる」
鬼というカテゴリに捕らわれることなく、鬼の中にも良心があることを認める。理屈抜きに受け入れ、相手を信じられる人間。そんな人間のどこに「軸」があるだろうか。
筆者には、この男が寄り頼む、「1本の柱」が見えない。誰かの信じたものも一緒に信じるような人間は、ブレている、と言ってしまおう。アカザはブレなかった。彼の軸は「強さ」である。別言すれば、レンゴクには大切なものが多すぎるのだ。家族、後輩、思い出、仲間、人々。どれもこれも大切にしたいという思いが、人生の各場面に現れては、選択を迫る。すべてを選べる時もあれば、零れ落ちる時もある。レンゴクが「人生」を生きていたのだとすれば、失ったものや救えなかったもの、ぎりぎりで間に合った何かもあったはずだ。
そこにアカザとの違いがあると私は言いたかった。人生の道行きを歩む者は、どうしようもなくブレてしまう。何か1つを信じ、突き通す「人生」がどうしてあり得るだろう。仕事も大切だ、パートナーも大切だ、友人も大切だ。限られた時間と、能力の限界。すべてを大切にしたい私は、文筆のためだけに、これらを切り捨てることはできない。
「俺は如何なる理由があろうとも鬼にはならない」
先の問いかけへの返答だ。たった1つの大切なもののために戦うのではない。たくさんの大切なもののために戦う。たったそれだけ違いなのではないか。だから、きっかけなどどうでも良いと私は言いたい。だから、目的が無いように見えても良い。服を着替えるように、信念がブレてしまっても良い。それがこの物語のメッセージだったのだ、と思いたい。
だから私の友人は、この物語には中身がない、と嗅ぎ取ったのではないだろうか。このメッセージは、彼がすでに知っていたことだ。誰もがたくさんのものを大切にしたいけど、零れ落ちていってしまう。そんな理不尽、不条理を、彼は十二分に味わい尽くして来たのだと理解したい。

―了―

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?