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心の分断を、どう食いとめることができるだろう。

この3連休、
コロナ感染が心の分断を生み、
社会の分断を生む中で、

どうしたら「ともにある」という共生意識を
持つことができるのだろうか?

ということを、ずっと考えている。

感染に対して、適切な手段を講じることと、どんな心持ちでいるかは別のことだと思うのだが、恐怖心が先行して「手段が正義化」しているようにも見える。

私たちにもともと備わっている良心、常識や枠組みを超えてどんな人や国に対しても他者への尊厳を強く信じ続けることが難しくなっているのだと思う。

結果、個人が、企業が、国が「自分さえ守ることができれば」と境界線を引き、目に見えて広がっていく分断が、目に見えない心の分断を生んでいく。


文章を書いてるこの瞬間も途切れなく新たな感染のニュースが携帯のアラートを鳴らしていて、自分がこのまま心を強く持ち続けることができるだろうかと言われると、正直わからない。

とはいえ、冷静に適切な手段を手を取り合いながら協力しつつも(専門家の方にお任せして)一人一人の「心」の問題を問うことがこの先に重要な気がしてならない。

私はシェアという思想を通じて「信頼」こそがもっとも重要であると発信してきた。

信頼の研究をされてきた山岸教授の言葉を借りれば、


地球上には安心社会と信頼社会という二種類の社会が存在する。
●安心社会=メンバー同士の相互監視や制裁といった仕掛けを通じて、人間同士の結びつきの不確実さを解消していこうという社会のあり方。
●信頼社会=社会が提供する「安心」に頼るのではなく、自らの責任でリスクを覚悟で他者と人間関係を積極的に結んでいこうという人々の集まり。このような社会では、他人から裏切られたり、騙されたりするリスクはつきものだが、他者と関係を結ぶことによって得られるメリットのほうが大きい。
山岸俊男著『日本の「安心」はなぜ消えたのか』

今の状況は、社会が提供する「安心」に頼りすぎていて、私たちがどう意識を持つかという意識的責任を取らずして、組織や仕組みに対して必要以上に期待する流れになっているのだと感じている。とはいえ政府に完璧であって欲しいと思っても完璧を期待するのが難しいと悟ってしまっている私たちは安心社会と信頼社会の両軸の揺らぎの中で、自分が何を信じるかという軸を持って生きていくしかないという状況にあるのだと思う。

国や企業が社会的役割を背負っているように、
私たち個人もまた「意識」の持ち方に社会的役割を背負っていると思う。

いつの時代も、一人ひとりが何を信じて、どうしたいかという思いや社会観の積み重なりが全体を成し、政治も経済もつくられてきたから。

「意識でつながる拡張家族」Ciftの生活を通じて、意識の持ちようで人や全体はこんなにも変えられるのかと実感したことでもあるし、シェアリングエコノミーの活動を通じて個人と仕組み両者を同時に捉えた信頼の再定義こそが大事であると心底痛感しているからでもある。


来月登壇予定のサウスバイは、まさに「ともにある」という共生意識をどう持つか?というスピーチをする予定なのだけど、入国ができない可能性も出てきたので心配だけど、、もし行けることになれば、この問いを世界と対話してみたいし、それが自分がやるべきミッションだと勝手に思っている。同意してくれる人たちと少しずつみんなで意識のイノベーションを起こしていくことでしか、社会は前進しないと思うので。


終わり。

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