見出し画像

明日は金曜日だから:博士の普通の愛情

「女友達と、香港に遊びに行ってくる」

家を出る前に、妻がそう言った。

会社に向かう電車の中で、僕は隣の人が読んでいる雑誌の表紙を眺めていた。「あなたの奥さんは不倫をしている」という特集タイトル。

うん。わかっている。香港へはたぶん男と行くのだ。

妻は旅行が好きなのに僕は出不精だから、彼女はいつも誰かと行く。そして今回少し違っていたのは、わざわざ「女友達と」と言ったことだ。今までそんなことを言ったことは一度もない。「友達と」としか言わないし、僕がそこで「女性の友達か」と聞いたこともない。でも、妻は先回りしてそう言った。

彼女はあまりうまく嘘がつけるタイプじゃないから、僕はこれからもそれに気づいてしまうのだろう。香港に行く前の晩に寝室で妻を誘ったが、疲れていて翌日の出発が早いから、と断られた。僕は証拠を積み上げる代償として、自分の心を傷つけていた。

香港からは何度か写真が送られてきた。街の写真、ホテルの窓からの眺め、高級そうなレストランの料理など。写っているのは妻だけで、友達はいない。その中に一枚だけ料理の皿の向こうに女性の手が写っている写真があった。妻の皿の横には彼女の左手が写っている。

それが幼稚なアリバイカットだというのはすぐにわかった。家を出たときに彼女が銀色のネイルをしているのを見た。でもその写真では赤いネイル。さらに翌日送ってきた写真では銀に戻っていたから、赤いネイルのレストランは別の日、たぶん東京で撮られたものだろう、とわかった。

料理の皿の模様にも見覚えがあった。新宿にある中華料理の店だった気がしたのでグルメサイトを検索した。そこに写っていた皿には、やはり同じ模様があった。

画像1

いつも旅行に行った時とは違う頻度で写真が送られてくる。嘘をついている人は饒舌になるというが、写真でも同じなんだなと思った。僕は送られてくる写真を、まるで刑事が推理でもするように端から端までチェックした。男性と一緒にいるのはもう「確定」として、次は相手の特定だ。

妻は専業主婦で、広く浅い交友関係がないからあまり友人は多くない。僕が紹介されて知っているのもほんの数人だったし、男の友達は一人も知らない。

僕と妻は会社に入ったときに知り合った。新人社員4人でグループを作り、テニスをしたりキャンプに行ったりした。酒井と僕、古賀と妻の4人だった。平凡な話だが、酒井と古賀が結婚した。そこにいた4人が二組になって結婚したのだから、生きている世界が狭いとはまさにこのことだ。

酒井は数年後に会社を辞めて、起業した。妻とふたりで一度だけ赤坂のマンションに遊びに行ったことがある。平日は近くにある会社で遅くまで仕事をしているので、その赤坂の部屋にいて、週末だけ湘南の家に帰るのだという。そのとき妻は古賀に「古賀ちゃん、酒井くんが週末だけしか帰ってこなくてさみしくないの」と聞いていたのを思いだした。

スマホが「ポロリン」と音をたてる。また写真が送られてきた。ホテルの部屋に二つのベッドが並んでいる。窓から見る景色でも想像はついていたが、かなり高級なホテルだとわかる。

「ふたりとも、たくさん買い物をしちゃった」というコメントがついていて、ふたつのベッドの上には、いくつものブランド物の紙袋が乱雑に置かれていた。

ここから先は

1,511字
恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。