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一万円札:博士の普通の愛情

20歳になるかならないかの頃、僕らはある「欲求」に囚われていた。わかっているだろうからもったいぶらずに言えば、性欲である。

僕は家の近所のコンビニでアルバイトをしていた。深夜のコンビニにはありとあらゆるジャンルの人がやって来る。僕らはレジに立ちながら、客の物語を勝手に作り上げていた。

毎晩、仕事帰りに立ち寄ってビールと焼き鳥の缶詰を買っていく態度の大きいサラリーマン。水商売だと思われる香水臭いおばさん。一人暮らしの老人。どの人からも平凡な物語が容易に想像できた。

その中に通称「美人」と呼ばれる美人がいた。年齢は35歳くらい。いつも地味で安っぽい服を着て店にやって来た。僕とユウジはレジで、どちらが対応するかを争う。うまく彼女のいるレジ前にカラダをねじ込んだ方の勝ちだ。「美人」が帰った後、「今日も美人だったな」と二人で話す。僕らが作り上げていたのは、こんな物語だった。

彼女は20代前半で結婚し、どこか遠くの街で暮らしていたが、数年前に離婚か死別をしてひとりで地元に戻ってきた。もしかしたらちいさな子どもがいるかもしれないが、子どものための買い物をするのは見たことがない。それはコンビニでは買わないのだろうと思う。

髪は手入れが行き届かず、ピンクのゴムで束ねていた。化粧もほとんどしていない。僕らは、「彼女がもし完全な化粧をしたらどうなるんだろう」と夢想していた。服はさっき言ったように近所の洋品店で買ったような、お洒落とは縁遠いものだ。そして、もうひとつ大きな特徴があった。

彼女は財布の中から1円玉や5円玉を取り出して、会計のほとんどを小銭だけで支払うのだった。ある日、女子高生のアルバイトが彼女のことを、「あの、小銭だけで払うおばさんね」と言ったことがある。僕とユウジは、何かとてもイヤな気持ちになった。僕らの美人を馬鹿にされたように感じたのだ。親のすねをかじりながら、アルバイトでもらった金でカラオケに行ってるようなお前が、偉そうなことを言うな、と思った。

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ある真夏の夕方、美人が珍しくビールを買いに来た。いつものように10円や5円をかき集めて。僕たちは、「あの人、お酒を買うのは初めてだよな」と不思議に思って顔を見合わせた。

まったく客が来ない深夜はバックルームで発売されたばかりの漫画を読むことにしていた。自動ドアが開き、ピンポーンと音がした。「お前が行けよ」「お前の順番だろう」と言いながらレジが映っている防犯カメラのモニタを見ると、そこには美人がいた。こんな夜遅くに来たことは一度もない。僕らは短距離走の選手のようにレジに向かって走り出した。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。