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共感の暴力。

自由であることと、責任を持たないことをはき違えている人がいるよね。多くの不自由さとの矛盾を抱えながら自由の意味を考えている人もいれば、どんなヘイトスピーチであろうと「表現の自由だ」と主張する人もいる。

その違いは敵対よりも共感によくあらわれる。「私も共感します」の「私」は本当に同じ場所から言っているのだろうかと疑問に思う。

俺が写真を載せたとき「そのレンズって最悪ですよね」と、コメントが来た。その人が誰かは知らないけど、俺は自分で必要なモノを選んで使っている。歪みがあるからダメなレンズ、ではないのだ。俺はレンガの壁を水平垂直に撮るために写真を撮っているんじゃない。

ネットは「誰の悪口を言ってもいい」というネガティブな面はもちろんのこと「誰にでも共感していい」という反対の悪影響も生んでいると思う。

俺は自分が思うことを書いているけど、それに対して「全然違う」「その通りです」という二つの反応がある。恐ろしいのは「その通りです」の方で、その場合は誰が言っているかで判別することになる。

何にでも、勇気をもらいました、元気をもらいました、あなたのことを尊敬します、っていう人々は、自分よりも他人を肯定することで生きている。それよりも先に、他人を評論家のように肯定する権利や資格があるかに目を向けて欲しい。

どんな人にも自分がやっていることへの思い入れやプライドがあると思う。だから「それは違う」と言う人の方が、意見の摩擦を感じる分だけ誠実なのかもしれない(ただただ悪口を言いたい人が多いのも知ってるけど)。

誰からでも無条件に褒められたい人というのがいて、その質にはこだわらないのが許されてしまうと「暴力に近い肯定」さえも生まれてくる。俺は誰かを褒めるときには「本当に自分はそれを理解しているか」に神経を使う。

批判の方が言いやすい。そのパンツには穴が開いていますね、はわかりやすく、そのパンツはオシャレですね、は難しいのだ。おれがオシャレが分かっている人間かを問われるんだから。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。