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「友情は恋愛である」:Anizine

自分で決めている「友だちの定義」がある。

昔、ひとりの「友人」がいた。彼とは同じ仕事をしていて知り合って、仕事以外でも遊んだりするようになった。ここまではよくあるパターンだ。

彼は若い頃から友人が少ないと言っていた。申告せずとも見ればわかる。自己主張をしたいときは平気でそこにいない友人の悪口を言い、聞かされている俺は「たぶん俺のことも言っているな」と感じた。それはとても悲しいことに彼の「友人経験」が乏しいからだと思った。

念のために言っておくと、人は環境だけで育つわけじゃないから子どもの頃に友人が少なくても、大人になればそれなりのやり方で良好な友人関係を築く人だっている。そこは先に言っておく。

ただ、手放しに人を信じ、人から信用される『走れメロス』のような幸福に感動した体験がないと、想像力が働かないかもしれない。

「友情は恋愛である」と言ってもいい。友情は恋愛感情と同じ成分でできているような気がするから、嫉妬も複雑な愛憎もある。その感情をコントロールする方法は幼稚園の砂場で学ぶんだけど、それを経ていないと大人になっても幼稚園でやっているレベルの諍いを起こすことになる。

さっきの彼は大人になって自分にも友人ができたことを幸福に思っていたようだが、あるとき、とても無神経な一言で親しい友人を傷つけてしまう。彼はショックを受けたようで、俺に相談しに来た。「僕は何でも言い合えるのが友だちだと思って、そういうことを言ってみたかった」と説明した。

「それは仲の良さを誤解しているし、友情とは違うよ」と俺は解説したんだけど、納得も理解もしていなかったようだ。案の定、しばらくして俺に対しても同じようなことを言った。何も理解していない証拠だと思った。今回は登場人物が俺だったから、以前した話をもう一度する気は起きなかった。とても面倒くさかった。

なぜ面倒だったのか。面倒でもわかり合おうとしなかったのか。

それは俺が彼を「とても大事な友人」というフォルダには入れていなかったからだと感じる。いつかは離れていくだろうとわかっていたからだ。彼はそんなことを繰り返して、おそらくは年々友人を失っていくだろう。歳を取って周りに誰もいなくなったとき、彼は何かに気づくだろうか。気づかないだろうな。

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彼とはもう10年くらい会っていないし連絡もとっていないけど、Facebookで誰かが彼のことを書いているのを、たまたま目にした。

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Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。