見出し画像

雨の日に行くコンビニ。

写真を勉強している人から「写真を教えて欲しい」と言われた。

俺は勉強する人が好きなので、教えるなんていうのは僭越だけど、疑問に思うことがあれば答えると言っておいた。学ぶ人は、悩むことができる人だ。自分に何かができないということがわからなければ、進歩はない。

こういうときにいつも感じるのは、天性の才能とか持ち前のセンスなどではなく、どんな分野においても、「今までいかに勉強してきたか」に尽きると思っている。それがわかっていれば話は早い。学ぶ方法はどれも同じ、今の自分には何ができないかを理解する能力だからだ。

俺は30年前に青山のちいさなデザイン事務所でデザインの仕事を始めた。カメラマンとコピーライターがいてデザイナーは俺一人だったから、会社に来た全部のデザインをしていた。それはとてもいい経験ではあったんだけど、2年くらい過ぎて仕事がわかり始めたところでやっと疑問を持った。

「俺は選ばれて仕事をしているんじゃなくて、俺しかいないからやっているんだ」と気づいた。このままでは何の進歩もないと思って、会社を辞めて同年代のデザイナーがたくさん競争している別の会社に行きたい、と社長に言った。社長は快く承諾して送り出してくれたのだが、今考えれば自分勝手で会社にとっては迷惑な話だっただろうと反省している。

そして数十人のデザイナーが働いている老舗の広告プロダクションに入った。テニスで言えば一人で壁打ちをしていたのが、いきなりメジャートーナメントの試合に出るような状況の変化。そこには圧倒的に経験と実績がある先輩や、実力のある同期入社組もいた。会社に来る仕事は誰でも知っているナショナル・クライアントのものばかりだ。

営業担当は仕事が発生するとデザイナーを何人か呼び、社内でコンペをさせることもあった。彼らもできるだけいい案をクライアントに提供したいから、キャリアは関係ない。そこで先輩をさしおいて自分の案が採用されたとき、やはりひとりだけでやっていなくてよかったと感じた。

画像1

自分に何ができて何ができないかは、自分で気づいて判断しなくてはいけない。だから、「あなたにはこの場に参加する資格がない」と、他人からバッサリと切り捨てられる屈辱の体験は、若いうちにしておいた方がいいと思っている。「傷つく大きな負け方」を学ぶのだ。そうでないといつまで経っても、自分が傷つかずに済む、仲間内の評価という「ちいさな勝ち」にしがみつくことになる。

バッティングに自信があった桑田投手が、初めて清原選手が打撃練習をするのを見たときに「こいつにはかなわない」と思ったという。それはふたりがPLというレベルの高い競争の場で出会うことができたからだ。そうでなければ桑田選手は自分のバッティングに自信を持ち続け、もしかしたらプロ野球で通用しなかったかもしれない。

俺は、100人の写真家を知っているデザイナーから、「この仕事の場合はこいつだ」と思って仕事を頼まれたい。「俺の友だちにひとり、写真が撮れるヤツがいるんだ」というのは、雨の日に一番近いコンビニと行くのと同じで仕事を頼まれたことにはならない。



多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。