ピントを合わせながら、ボケていくのだ。
昨日、田中泰延さんが写真の話をしていた。そこで、「自分が見えているような写真を残したい」と言っていたのにとても共感できた。田中さんはソフトフィルタでややボンヤリした仕上がりにしていて、それはお酒が入った時に見えている酒場の風景に近いと言う。
RAWという、カメラが計器として書き出した数値情報を、いかに写真にするかは撮影者の意図にかかっている。
それは「感情」がすべてだと思っている。70年代頃の報道・ドキュメンタリー写真はフィルムや機材のせいもあるけど、荒々しく増感現像された粒子と強いコントラストが優勢で、時代とマッチしていた。
それからどんどん写真はフラットに彩度が低くなっていく。80年代は濃い文化のダサさへのアンチテーゼの印象があったように憶えている。90年、00年になるとその体温の低さがさらに加速し、何でもないモノを思わせぶりに撮って露出オーバーにしたネガプリントが「おしゃれ」だという流行が定着した。
フィルタというお手軽トーンの再現がインスタの普及につながった。どんな風景でもそれらしく見せてくれる。何度も言うけど「写真とはこうあるべき」と力説する人の話は100%無視していい。そんな答えはどこにもないんだから。過去の写真家の話をする人も無視だし、「こう撮るとモノが売れる」なんていう下品なEC感覚の人は論外の大無視だ。
どこにでも売ってるカメラに、どこにでも売ってるSDカードを突っ込んで、誰もが見ている風景に向かってシャッターを押す。ただそれだけのこと。それだけのことになぜ人による違いが出るのかを理解するために、他人の意見なんかはまったく参考にならない。
ここにあるのは同じRAWからグレーディングを変えたモノ。その時、自分がどういう気持ちでそれを撮ったか、どう見えたのかに正解はない。思ったように色も明るさも変えていい。ただ、守るべき大事な要素はひとつだけあって、それはこれから書くから、無料部分だけ読んで反論してもらわなくて結構なのだ。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。