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彼女が隠したかったモノ:写真の部屋

ロバート・ツルッパゲとの対話』で、地方から東京に出てきた女性が、部屋をイタリアン・モダンの家具で統一していた話を書いた。

「出発点と目的地がどこか」がわかってしまうと興味がなくなるものだ、という意味で書いたのだが、彼女は「自分の生まれ育った場所は何もなくてダサくて、だからオシャレに暮らしたいのだ」と言った。

これは写真の話だけでなく、何かを作るときの心の持ちようとして説明がつく。出発点に「劣等感」があると「優越感」に向かいやすい。過去のダサかった自分を憎悪することから歩き始めると、わかりやすいハリボテの優越感を手に入れた途端、今度は過去の自分を含む現在の他人を見下すようになる。

彼女の部屋で俺は「彼女が隠したかったモノ」を見つけてしまうのだが、まだ読んでいない人はゼヒ読んでみてください。

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なぜこんなことを書き始めたかと言えば、先の例とは反対に「ある人が撮った写真が優越感から差別をしている」という記事を読んだからだ。その人について俺はほぼ知識がないので何も書かないし、詳しい人に譲るけど、一般論としてはそちらの推進力も理解できる。

つまり、自分が知らないモノを知った時、それを創作に結びつけようとする好奇心の衝動は、どんなものであろうと理解できるからだ。好奇心のエンジンがフル稼働していることは何かを作り出す上でとても大事だ。興味を持つ対象には様々な種類があると思うけど、珍奇であるから、という衝動はあまり質が高くない。珍しいモノを描きたくなるのはわかりやすい。

でも、一度はそこを「通り抜ける」必要はある。珍しいと思ったから写真を撮りたくなった、という感覚は誰にでもあるし、経験しておくに越したことはないのだ。ただずっとそれをやっていても行き詰まる。珍しいモノはそうそう世の中にはなく飽きてきて、そこから「ごく普通に見過ごしていた日常の何かにも価値があるのでは」と思うようになってくる。でも何気ない日常、にも落とし穴がある。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。