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花の香りを知る:写真の部屋

「写真」という言葉が誤訳である、という話を聞いたことがあると思います。写真は真実など写さないから、という意味においてです。

しばらく前から、インスタグラムでは、加工していない、フィルターをかけていない、といったハッシュタグを見かけるようになりましたが、あれはあまりにもキツいフィルターをかけたことによる「嘘っぽい」写真が溢れたからです。

自分が見て感動した風景をそのまま見てもらいたい、という意識の表れでしょう。「盛らない」「映えない」方向へのシフトです。

人がする創作活動に、盛りや映えはついて回ります。

写真は100%の真実を写すことはできませんけど、霊能者の念写を除くと、100%そこにあったモノだけが写る。存在していたモノが写るのが写真の価値でもあります。

つまり俺はアートディレクターとして「ノートルダムの世界」という写真集をデザインすることはできますが、カメラマンとしてはパリに行かなければノートルダムは撮れないのです。その部分において嘘がつけない。

あるテキサスの写真集をデザインしたデザイナー。独特な空の青さや壁の赤土色を印刷で再現する難しさを語っていた。しかしその人は撮影に同行していなかったどころか、そもそも一度も外国に行ったことがないというのです。

テキサスの光は独特です。NYともLAとも違う。もちろんパリともミラノとも阿蘇とも愛媛とも違う。それを「日本とは違う光を再現するのに苦労した」って言っていいのかな、と疑問に思いました。もちろん印刷の仕上がりはデザイナーが管理するべき問題だから、紙の上に定着させる技術的な解決方法は任されています。

でも、ちょっとあくどいなと感じたのは、俺が聞かなければ「テキサスの光を見ていない」という事実を隠していたんじゃないかという点です。

これは「体験至上主義」「経験則原理主義」から言うのではなく、単なる職能のインチキです。俺はデザイナーから写真家になったのでその違いがわかります。写真は会議室ではなく、レインボウブリッジで撮られるんです。

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ノートルダムの写真は去年の11月に撮ったモノ。今までに数十回撮った中で、無残な改修工事が行われ、尖塔がない「彼女の姿」を撮るのはこれが初めてでした。今年の2月にも撮りましたが、まだ工事中。つまり、俺の目とカメラには、尖塔があったノートルダムや、ワールドトレードセンターがあった頃のフィナンシャル・ディストリクトの風景が残っている。

それが知識ではなく、経験であり体験です。

たとえば、友だちがParisにレストランを出した。それがマレにあるのか、サンジェルマンなのかで、どんな客が来るのかはわかるでしょう。それが「光を目で見た」「街の匂いを嗅いだ」「そのあたりのレストランで食べた」ことが持っている価値です。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。