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博士の普通の愛情

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。
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#小説

トートバッグ(後編):博士の普通の愛情

サヤカは地元の市役所に就職してから数年した頃、一人暮らしがしたくて上京し今の会社に勤めることになった。あまり派手なことが好きな性格ではないが、毎日農家の話ばかり聞かされていたのと比べればだいぶ刺激がある。東京の飲食業界で働く人々は地元の農場や牧場にいたおじさんたちとは種類が違っていた。地方にはいない人種が面白くて人間観察をしていたが、彼らにはいくつかのパターンしかないことがすぐにわかった。 サヤカの会社はレストランチェーンを自社で経営したり、関係のある会社が出店するレストラ

ロンドンの5日間:博士の普通の愛情

食事をしながら、友人とイギリスについての話をしていた。どこに行ったときは面白かったとか、あそこで食べた料理はまずかったなどという、よくある話だった。 ロンドンのビジネスセンターの名前が出たとき、僕は数十年前に淡い恋心を抱いた英国人女性のことを思い出し、それよりあとの友人の話は何も耳に入ってこなかった。 ロンドンでの仕事の打ち合わせで彼女に会った。僕が名刺を渡すと「この文字はどちらが上か下かわからない」と言ってクルクル回し、笑った。彼女の名刺には聞いたことがない苗字が書かれ

銀の指輪「8」:博士の普通の愛情

リリーからメールが送られてきた。テキストファイルが添付されている。 「これ、先生のパソコンから勝手にコピーしてきちゃった。まだ下書きだと思うんだけど、片桐くんに読んで欲しいの」 テキストファイルを開いた僕は、最初の数行を読んで言葉を失った。 ----------------- ノリコに言わせると、彼女の夫はきわめてつまらない男だそうだ。保守的で面白味がなく、何を話すときにも「けど」「らしい」などと言い、自分の意見としての断定が一切ないという。 真面目と言えば聞こえは

銀の指輪「5」:博士の普通の愛情

僕は、ある業界誌を発行する出版社に勤めているが、ここ数ヶ月は出社制限もあり、会社に行くことも少なくなった。僕のいるフロアには50人ほどが働いていて、どうしても会社で作業しなくてはいけない理由がある社員は事前に届けを出す。その日に出社できる人数は各フロア20人まで、と上限が決められていて、あとから出社しようと思っても行けないことになっている。 僕の仕事は普段からフリーランスの編集者と似たようなものだから会社のデスクにフルタイムで座っていることはなく、だから特に変化はない。むし

銀の指輪「3」:博士の普通の愛情

青山にある大型書店に行ってみた。 リリーが言っていた作家の名前を本棚から探す。かなり多く彼の本が並んだエリアがあったから、実績のあるベテラン小説家なのだろう。 ある時期から僕はフィクションをまったく読まなくなっていた。作り話に没入できないのだ。もう十年以上になるだろうか。本と言えばノンフィクションばかり読んでいる。この地球上で様々な問題が起きているのに、それを解決もせぬまま空想にふけっていてもいいのだろうかと思ってしまうのだ。まあ、僕がノンフィクションを読んだからといって

スマホを貸してもらえませんか。

平日の夕方、僕は一人でカフェにいた。 遠くの方の席に20代後半くらいの女性がいたのだが、何度かこちらを見ているような気がした。彼女は僕の前を通り過ぎて、一度トイレに行った。 しばらくしてその人は目の前に立ち、こう言った。 「スマホを貸してもらえませんか」 自分のスマホを忘れたのだろうか。そう言えば他人にスマホを貸したことはないなあとボンヤリと思ったが、困っているのなら貸してもいいか。 「いいですよ」 彼女はスマホを受け取ると僕の前の席に座り、何か打ち込み始めた。電